文字を持たなかった昭和 百七十二(敬老の日――ミヨ子たちの場合)
母ミヨ子が暮らしていた鹿児島の農村の、昭和40~50年代の敬老の日について書いた。では、自宅ではどのように敬老の日を過ごしていただろうか。
ミヨ子の舅・吉太郎は昭和45(1970)年に92歳で、姑のハルは昭和53(1978)年に86歳で亡くなったが、どちらも当時では相当な長寿で、足腰もしっかりしていたから、亡くなる少し前まで祝賀会に招待され、出席していた。
一方家では、敬老の日のお祝いなどを用意したことはなかった。ミヨ子たちにとってなんとなく「敬老の日」は官製の行事という認識があったのだ。とりたてて「敬老」を強調しなくても、ふだんから舅姑の世話をしているし、それは当たり前のことだ、とミヨ子は思っていた。
子供たち――上の和明も下の二三四(わたし)――も、三世代同居は当たり前で、体に自由がきかなくなってきたじいちゃんばあちゃんに配慮しながら生活するのもまた当然だと思っていた。
もともと鹿児島では(少なくともミヨ子たちが育ち暮らしていた農村部では)年長者への敬意が深く、ふだんの会話も年長者に対しては家族であっても敬語を使っていた。まして祖父母世代のようなお年寄りには敬意を払っていたから、子供たちも自然とそういうものだと思うようになったのだろう。
もちろんこれは振り返ってみての分析で、お年寄りを大切にすることは、当時の農村の人々にとって極めて自然なことだった。
だから逆に、敬老の日だからと取り立てて何かすることはなかった、のだと思う。そもそも、戦後新しくできた馴染みのない祝日、行事は、農家の一年のスケジュールの中で不自然に感じられたのかもしれない。昔からあって、吉太郎やハルもその由来を知っている祝日や、旧暦にちなみ農作業とも関係のある行事なら、すんなり受け入れただろう。
敬老の日当日ミヨ子がご馳走を作ることもなければ――そもそも集落で祝賀会があり、食事も招待される――、プレゼントを用意することもなかった。もとより、吉太郎やハルの世代は誕生日すら祝ったことがないのだ。〈117〉
ただ、和明や二三四は、敬老の日を前にした図工の時間に先生から「おじいさん、おばあさんの絵を描きましょう」と言われることはあった。ことに二三四は絵を描くのが得意だったから、ていねいに絵を描いて持って帰った。絵はまずお仏壇にあげて、夕食のときに本人に渡した。なんでも「まずお仏壇に」が習慣だったから。
お仏壇にあげておいた絵は、夕食時に家族が揃ったところで「披露」された。自分の顔など描いてもらった経験はおろか、絵を描く行為そのものに縁のないまま働き詰めだった吉太郎は、ピンとこない風だった。
ハルは
「あたしはこんなにシワだらけかねぇ」
と言いながらも、うれしそうにしていた。
