文字を持たなかった昭和 五(きょうだい)

 最初に女の子を授かった直次とハツノは、当時の多くの家庭と同じように子宝に恵まれていく。長女ミヨ子に続けて男の子が二人、その下は女の子が戦中に一人、戦後にもう一人生まれ、ミヨ子は五人きょうだいのいちばん上として育った。

 ただ、五人というのは無事に育った子供の数であって、じつはあと二人きょうだいがいたことを、わたしは後年聞かされた。わたしも子供心に、大きい叔母と小さい叔母の間が離れている印象を持っていたのだが、戦中に生まれたその二人は栄養不良で亡くなったのだ。ミヨ子の実家のお墓には二人の名前も刻まれており、享年は3歳と1歳だったように記憶している。育ち切れなかった弟と妹の話題に触れるとき、ミヨ子は「かわいそうに(※5)」と呟いていた。

 ちなみに、下から二番目の女の子は日本の戦勝を祈願して「勝代」と名づけられた。この時代同じような動機で「勝」の字をつけられた子供は、男女を問わず多かったのではないだろうか。あるいは、庶民にとって祈願というほど大げさなものではなく、一種の流行りだったのかもしれない。
 末っ子は昭和25年生まれだから、いちばん上のミヨ子とは20歳の開きがあるが、多子多産がふつうだった時代には、長子と末子の年齢が親子ほども離れているのも、またふつうだったようだ。わたしが子供のころですら、親のきょうだいが多いと、おじさんと思える年齢の親戚がいとこ、というケースはたくさんあった。

※5 鹿児島弁:ぐらしか

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