文字を持たなかった明治―吉太郎6 家族構成③住所

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べ始めた

 吉太郎の生年月日や、生まれた年の日本のできごとなどのあと、吉太郎の家族構成について書きつつあり、前項では苗字について述べた。引き続き、孫娘の二三四(わたし)が家族の記録の参考にと郷里の役所で交付を受けた除籍謄本の中で、いちばん古いものを見てみよう。

 当時の戸籍簿は住民票を兼ねていたので、戸籍に記載されている地名や番地は、いまでいう本籍地と住所を兼ねたものだ。人々の移動が制限されていた(江戸)時代が終わってまだ間もない明治期、生まれた土地で生涯を終える庶民もまだまだ多かったし、戸主(家長)は家族(一族)の動向を把握していた(する必要があった)だろうから、例えばほかの土地に働きに出ていても、戸主に聞きさえすればその人物の動向は把握できたのだろう。

 その視点で言えば、吉太郎はまさに、その生涯の(ほぼ)全期間を生まれた土地で過ごした人でもあった。ただし、長男でもない吉太郎は家を継いだわけではなく、長じてからはすぐ近くに家屋敷を買って独立している。よその土地に出稼ぎのように出ていた期間があったらしいが、それは後述する。

 さて、吉太郎の戸籍に記載されている住所は「鹿児島縣日置郡市來郷大里村〇〇〇番戸」だ。二三四が物心ついた頃には、(おそらくその後の法令や制度の変更により)行政単位こそ変わっていたが、土地の名称はほぼ同じだった。より細かく住所表示する必要ができたためだろう、一帯の番地のほうは桁が増えていた。

 ともあれここが、一族が「本家」と呼ぶ家があった場所で、吉太郎もここで生まれ育ち、ある年齢までは住んでいたのだと思われる。

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