「大丈夫」がうまく言えない私へ。きれいごとの中にある、ほんとうの気持ち。
世の中は、きれいごとであふれている。
「生きてるだけで、十分だよ」
「分かってくれる人は、きっといる」
「頑張れば夢は叶う」
「いつか必ず乗り越えられる」
「困ったときは、誰かに相談を」
「人は誰でも、愛される権利がある」
――本を開いても、ネットを見ても、そんな前向きな言葉ばかりが目に入ってくる。
だけど、その言葉を信じて勇気を出して誰かに相談してみると、返ってくるのは、また同じような「教科書みたいな」アドバイス。
「話してくれてありがとう」
「大丈夫だよ」
「そんなに頑張ってたんだね」
「あなたは悪くないよ」
それに対して、私は当たり障りのない笑顔で「ありがとうございます」「大丈夫です」と返す。
ほんとうは、大丈夫じゃないのに。
***
私は「きれいごと」が悪いとは思っていません。
むしろ、それが誰かを救うこともある。
言葉にできないほど落ち込んでいるとき、ポジティブな一言が心を支えてくれることだってある。
でも――それでも、時々感じてしまうんです。
その言葉、なんだか薄っぺらいなって。
誰かの苦しみに寄り添うには、ネガティブな言葉を並べるだけでもダメだし、教科書通りのポジティブな言葉だけでも足りない。
何が正しいのか、いつも迷います。
私は今、相談を受ける立場にいます。
仕事柄、多くの方の苦しみや悩みに耳を傾けてきました。
だからこそ、相手の気持ちを否定せず、中立的な立場を保つことの大切さも、身に染みてわかっています。
でも、心のどこかで思ってしまう。
「それ、よくある一般論だよね」
「本に書いてあった言葉、そのままだよね?」
「“大丈夫”って、どこに根拠があるの?」
そう思ってしまう、自分のめんどくさい特性。ほんと厄介です(笑)。
だから私は、自分の中に“根拠のない言葉”は極力使わないようにしています。
その代わりに、できるだけ自分の言葉で伝えるようにしてる。
「私は、いいと思う」
「私ならちょっと苦手かもしれない」
「そう言われると、私は少し悲しいな」
――そんなふうに、自分の気持ちに正直な言葉で。
もちろん、それは相手の気持ちをちゃんと受け止めた上で、です。
それでも、結局は自己満足かもしれないけれど。
***
でも、私は思うのです。
相談してくれる人たちは、「きれいな言葉」がほしくて話しているんじゃない。
誰かが自分のことをちゃんと“考えてくれた時間”が、ほしいんだと思うんです。
だから私は、きれいごとをテキストから抜いてきただけの「ただの言葉」にしたくない。
勇気を出して思いを伝えてくれた相手に、
少しでも感謝と誠意が伝わって欲しいから。
そうしないとせっかくの素敵な言葉たちが、
時にはネガティブに受け取られてしまうことを知っているから。
言葉の“温度”が伝わるように。
気持ちを込めて、心から伝えられるように。
相手の心に届くように――。
そう願いながら、私は今日も言葉を選びます。
でもね、それってとんでもなくエネルギー使うし、空回りすることも多くて……。
「もういいじゃん!それっぽい綺麗なこと言っとけば!」
って、何度思ったことか(笑)。
だけど私は、器用にそんなことができるタイプじゃない。
***
たとえば、友達や同僚、家族との会話で。
「大丈夫だよ」「かわいいじゃん」
って言えばその場が丸く収まるとき。
でも自分がまったくそう思えてないときのあの「沈黙」。
出川哲郎さんばりに頭の中で「ヤバいよ〜ヤバいよ〜!」ってなって、
他に言い換える言葉も出てこないし、シーン……。
心の中で「私のバカぁ〜〜!」って叫んでたりします(笑)。
不器用すぎて、自分が情けなくなることもあります。
こんなポンコツでは、今やっているような仕事は務まりませんね!笑
***
たぶん私は、「人を信じられない」という特性をどこかに持っている。
だから、人の発する言葉が「嘘くさい」「きれいごと」に思えてしまう。
そして同じように、「自分もそう思われるのが嫌だ」と感じてしまうんです。
仕事で疲れて帰ってきたある日、娘からの相談。
泣きながら、友達のことを話してくれた。
私は母として、ただの相談員としてではなく、心を込めて話を聴いたつもりだけど……
正直、私の中はボロボロでした。
誰にも見せないけど、けっこう辛いです。
……こんな時、私はいったい誰に相談したらいいんでしょうね?(笑)
***
心の底から、思うんです。
ただ、きれいな言葉を、きれいなままで信じられる自分でありたかったなって。
でもきっと――
だからこそ、私は今日も、誰かの言葉に、誰かの想いに、真剣に向き合ってしまうのかもしれません。
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