Uber's High〜「あと1件」が終わらない夜〜
「今日は1万円で帰ろう。」
朝、家を出るときは確かにそう思っていた。
無理はしない。
最近は単価も安い。
体はもうおじさん。昔みたいな無茶は効かない。
今日はサクッと稼いで、美味しいラーメンでも食べて帰る。
……そのはずだった。
気がつけば22時。
スマホの充電は18%。
ガソリンも残りわずか。
腰は痛い。
肩はパンパン。
それなのに、なぜか帰る気にならない。
「あと1件だけ。」
そう思って受けた配達が、今日15件目だった。
これが俺の勝手な呼び名――Uber's Highである。
ランナーズハイという言葉がある。
走り続けることで脳内物質が分泌され、苦しさよりも気持ち良さが勝ってしまう現象だと言われている。
配達員にも、よく似たものがある。
最初の数件は面倒くさい。
店が遅い。
マンションが分かりづらい。
エレベーターが遅い。
「今日はもう帰ろうかな。」
そんなことばかり考えている。
ところが、不思議なことに10件くらい配達するとスイッチが入る。
信号のタイミング。
最短ルート。
店のクセ。
マンションの入り口。
全部が頭の中でつながり始める。
身体が勝手に動く。
考える前にアクセルを開けている。
まるでゲームのコンボが続いているような感覚だ。
さらに恐ろしいのが、金銭感覚まで変わること。
昼なら400円案件を見て、
「安っ!」
と思う。
なのに夜になると、
「この方向なら、まぁいいか。」
になる。
そして、
「あと千円で1万5000円。」
「あと2000円で最高記録。」
「せっかくだし2万円いこう。」
目標はどんどん更新される。
人間とは、本当に欲深い生き物だ。
そして通知音。
配達員ならあの音に条件反射する。
家でYouTubeを見ていても、
コンビニにいても、
「あ、鳴った。」
と思ってスマホを見る。
休日なのに幻聴が聞こえることすらある。
もはや職業病である。
Uber's Highに入ると、街の景色まで変わる。
昼間はただ混雑していた駅前。
夜になるとネオンが輝き始める。
信号待ちの時間すら心地いい。
コンビニの缶コーヒーが妙に美味しい。
深夜営業のラーメン屋から漂う匂い。
雨上がりのアスファルト。
ヘルメット越しに入ってくる夜風。
全部が映画のワンシーンみたいに感じる。
配達しているだけなのに、主人公になったような気分になる。
もちろん現実は甘くない。
Uber's Highは、判断力も少しだけ狂わせる。
「黄色だから行ける。」
「この右折なら大丈夫。」
「まだ体力ある。」
そんな根拠のない自信が生まれる。
でも、その一瞬が事故につながる。
だからこそ、ハイになっている自分を少し疑うくらいがちょうどいい。
調子がいい日ほど慎重に。
これは長く配達を続けるための鉄則だと思う。
それでも、この感覚が嫌いになれない。
鳴り続ける通知。
次々と終わる配達。
積み上がっていく売上。
「今日は当たり日だったな。」
そう思いながら帰る夜は、少しだけ誇らしい。
誰かに褒められる仕事じゃない。
表彰されることもない。
それでも、自分で決めた目標を超えた日は、なんとも言えない達成感がある。
だけど一つだけ伝えたいことがある。
Uber's Highは、ずっと続くものじゃない。
翌朝起きると、現実が待っている。
腰が痛い。
首も痛い。
スマホの充電器はどこかへ消えている。
洗濯物も溜まっている。
そして何より、昨日の勢いはどこへやら。
「今日は休もうかな……。」
そんな気持ちになる。
だから配達員は、また夕方までゴロゴロしてしまう。
そして18時頃になると、なぜかアプリを開いてしまう。
「今日は軽く5件だけ。」
そう思って家を出る。
……そして気づけば22時。
「あと1件だけ。」
またUber's Highが始まる。
配達員は今日も、終わらない"あと1件"を追いかけながら街を走り続ける。
だからもし、夜の街で楽しそうにバイクを走らせるUber配達員を見かけたら思い出してほしい。
あの人は疲れていないんじゃない。
疲れていることを、一時的に忘れているだけなのだ。
それが、配達員だけが知っている不思議な現象――Uber's Highなのである。
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