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琥珀色の向こう側 ⑳ コラム 物語の世界観(気象変動と戦国時代)

【環境から見る戦国】畳をかじり、土壁を崩して生きる――「小氷河期」が動かした信長・秀吉の神政策


「なぜ戦国大名たちは、あれほど絶え間なく戦争を繰り返していたのか?」

歴史の教科書を開くと、織田信長や武田信玄といった英雄たちの「天下統一の野望」や「領土拡大の野心」ばかりが目につきます。しかし、その裏には、人間の力ではどうにもできない「地球規模の自然の脅威」がありました。

当時の日本は、現代よりも平均気温が1度〜2度も低い「小氷河期(ミニ氷河期)」の真っ只中にあったのです。

たった1〜2度と思うかもしれませんが、これは現在の北海道の気候が、東北や関東にまで降りてくるような大激変です。「夏がない」冷夏と長雨、そして京都や大坂の川がカチカチに凍りつく厳冬。

彼らの戦争の本質は、華やかな奪い合いではなく、「飢えから生き残るために、隣の領地の実った稲を刈り盗る(刈田狼藉)」という、極限のサバイバルでした。
今回は、この過酷な環境だからこそ爆発的に支持された、信長と秀吉の「神政策」の裏側に迫ります。


1. 地球の気候に翻弄された500年

一般的に「小氷河期」とは、14世紀半ば(1300年代)から19世紀半ば(明治時代の初め頃)までの約500年間を指します。秀吉が生きた1500年代後半は、ちょうどその「第2の波」が押し寄せ、暖房器具もない中で寒さが一段と厳しくなった時期でした。

現在の地球は、この時代とは真逆の「猛烈な温暖化」の真っ只中にあります。

” 一時期、天文学の世界で「太陽活動の低下により、再び小氷河期が来るのではないか」と話題になりましたが、現代の気候科学(国連のIPCCなど)の分析では、「人間の活動による温暖化の勢いが強すぎるため、寒冷化は起きない」というのが大方の結論となっています。”

戦国時代の人々が「自然の寒冷化」に政治と知恵で立ち向かったように、現代の私たちは「人間が作り出した温暖化」にどう立ち向かうかが問われていると言えます。


2. 信長・秀吉の政策が「大ヒット」した環境的理由

この最悪の気候変動があったからこそ、信長や秀吉の新しい政策は、民衆から命綱のように激しく求められ、爆発的に支持されました。

秀吉の「長浜無税」が神政策だった理由
秀吉が長浜の町を「無税(免税)」にしたのは1574年です。冷害で農業が破綻し、「もう百姓だけでは食べていけない」と絶望していた周辺の農民や商人にとって、「長浜に行けば税金がかからず、商売で生きていける!」という救いの一手になりました。だからこそ、ただの漁村だった長浜に、目を見張るスピードで人が殺到したのです。

信長の「兵農分離」
信長は、農業をしない専門の兵士(足軽)を雇いました。冷害で食い詰めた農民や次男坊たちが、「織田の軍隊に入れば、冷夏に関係なく、毎日確実に温かいご飯(給料)が食べられる」とこぞって志願しました。これが、年中無休で動ける最強の織田軍の原動力になりました。


本能寺の変(1582年)を後押しした「不吉な空」

信長が亡くなる1582年の春、関東・中部地方は「浅間山の大噴火」に見舞われています。火山灰が空を覆い、ただでさえ寒かった冷害がさらに悪化。人々は暗い空と、血のような赤い夕焼けを見て、「不吉なことが起きる前兆だ」「信長の命運も尽きるのでは」と恐怖に震えました。

人間は雰囲気に弱い生き物です。その心理的パニックが蔓延する中で、初夏にあの本能寺の変が起きたのです。


3. 命を繋いだ「究極の非常食」と、お城の秘密

当時の米の生産量は、現代のおよそ3分の1(品種改良が本格化するのは江戸末期以降)。お米は基本的に年貢として差し出すものであり、飢饉の時にはその代わりの雑穀(麦・粟・稗)すら手に入りませんでした。

人々は山に入り、どんぐりのアクを抜いて茹で、葛粉やワラビの根を掘り返してわずかなデンプンをすすり、飢えをしのぎました。現在のニュースで「熊の出没」を見聞きしますが、当時の人間も野生の生き物と全く同じように、命がけで山の恵みを探し尽くしていたのです。

そして本当の極限状態(大飢饉のピーク)では、信じられないものまで口にされました。
松の皮(松皮餅):赤松の硬い皮の内側にある白い層を削ぎ落とし、何度も煮てアクを抜き、叩いて粉にして餅にしました。
土壁や藁:古い藁を刻んで粉にしたり、特定の「食べられる土」をこねて食べました。


お城そのものが「巨大な非常食の備蓄倉庫」だった

こうした過酷な飢えと籠城戦(敵に包囲される戦い)を経験してきたからこそ、戦国時代のお城の建築には、凄まじい執念の仕掛けが施されていました。特に、ねねが長浜城で手塩にかけて育てた少年・加藤清正が築いた「熊本城」はその結晶です。

「芋がら(里芋の茎)」で編まれた畳
お城の部屋に敷かれている畳の芯(床)や、畳の縁(ふち)には、乾燥させた芋がらが大量に編み込まれていました。いざという時は畳をひっくり返してバラし、お湯で煮るだけで、食物繊維と栄養たっぷりのスープになりました。

かんぴょうや山芋のツルで作られた「壁の芯」
土壁の強度を上げるための骨組み(土壁の中に入れる植物の繊維)に、乾燥させた「かんぴょう」や「山芋のツル」が練り込まれていました。これも壁を壊して取り出し、水で洗って食糧にしました。

「銀杏(イチョウ)」や「栗」の木だらけの敷地
お城の敷地内には、鑑賞用ではなく「実が食べられる木」が大量に植えられました。熊本城が「銀杏城」と呼ばれるのは、籠城時の貴重なタンパク質・炭水化物源として清正が銀杏を植えまくったからです。

「松脂(まつやに)」を採取できる松の木
お城に植えられた松の木は、火を灯す松明(たいまつ)の材料になるだけでなく、前述の「松の皮(松皮餅)」の材料や、エネルギー源となる松脂を採るためのものでもありました。


秀吉は天下を取った後、種をまいて数ヶ月で育ち、寒さに強く葉っぱまで丸ごと食べられる「大根」の栽培を日本全国で奨励しました。太閤検地でデータを握る一方で、万が一の冷害に備える――これこそが、秀吉の実践的な危機管理だったのです。


先人たちの知恵の「ご褒美」を生きる私たち

華やかな戦国武将たちのドラマの裏側で、当時の人々は松の皮を剥ぎ、お城の畳をかじってまで必死に命のバトンを繋いでいました。
その逆境の中で秀吉たちが作り上げた「農業と政治の仕組み」を江戸幕府が引き継ぎ、250年の大平和を実現したからこそ、日本人はのちに世界でも稀に見る「屋台や外食を楽しむグルメな文化」を開花させることができました。

私たちが今、当たり前のように美味しいものを食べられているこの食生活は、あの過酷な小氷河期を生き抜いた先人たちの知恵と執念がくれた、最高のご褒美なのです。



もう一つ、違う視点で食文化が築かれたであろう歴史を見てみましょう。



戦争が食文化を変える ―― 熊本の「馬刺し」に刻まれた清正の覚悟


日本には古くから、仏教の戒律や農耕の相棒として、牛や馬といった「四つ足の動物」を食べることを忌み嫌う強い慣習がありました。

1000年以上かけて強固に形成されたこの食のタブーが、なぜ明治以降のわずか100年ほどで急速に崩壊したのか。歴史の針を巻き戻すと、そこには単なる好みの変化ではない、国家の存亡をかけた大きな価値観の転換が見えてきます。

1. 信仰から科学へ:千年のタブーを破った明治のメッセージ


最初の大きな転換点は、675年に天武天皇が出した「肉食禁止令」でした。
その背景には、仏教の「殺生戒(さっしょうかい)」だけでなく、牛馬を重要な労働力として保護するという農業国家としての現実的な狙いがありました。

江戸時代になると「四つ足は穢れ(けがれ)」という思想が定着します。もちろん、猪や鹿を「薬食い(くすりぐい)」と称して隠れて食べる例外はありましたが、建前としては肉食は忌避され続けました。
この強固な壁を打ち破ったのが、明治維新という**「国家の生存戦略」**です。

欧米人と対峙した明治政府は、「西洋に追いつくには、日本人の体格を根底から強くしなければならない」と痛感します。そして、明治5年(1872年)明治天皇が自ら牛肉を食べたことを全国に公表しました。

「天皇陛下が召し上がったのだから、肉食は悪ではない」

 これは単なる食事の風景ではなく、強力な国家的メッセージでした。
ここから「牛鍋」や「すき焼き」が文明開化の象徴として爆発的に広まります。宗教的価値観よりも、「近代国家・栄養学・軍事力」が優先される社会へと、日本人の意識の重心が移った決定的な瞬間でした。

2. 「戦争が食文化を変える」という普遍の法則


 実は、世界中のあらゆる歴史において「戦争が食文化をガラリと変える」という現象が見られます。

 〇 飢餓の中で、それまで食べられなかったものを食べる。
 〇 戒律を破り、食べてはいけないものを食べざるを得なくなる。
 〇 その極限の経験が、平時の文化として後世に残る。

 日本において、その最も鮮烈な、そして最も豊潤なバトンとして現代に遺されたものこそが、熊本の「馬刺し(馬肉食)」ではないでしょうか。
なぜ、熊本がこれほど馬肉の一大名物となったのか。
 その引き金を引いたのは、慶長2年(1597年)の朝鮮出兵における、加藤清正の凄絶な飢餓体験でした。

3. 蔚山城(うるさんじょう)の地獄と「生馬肉」の衝撃


「蔚山城の戦い」において、清正率いる豊臣軍約15,000は、押し寄せる約60,000の明・朝鮮連合軍に完全包囲されました。
水も食糧も完全に絶たれ、周囲はマイナス十数度に達する極寒の地獄。餓死寸前の極限状態の中、清正は兵たちの命を繋ぐため、ある苦渋の決断を下します。

  「軍馬(戦うための相棒)を殺し、その肉を喰らえ」

城内は敵に包囲されており、煮炊きのために火を焚いて煙を上げれば、すぐさま大砲や鉄砲の標的になります。暖をとるための薪すら不足していました。

そのため清正たちは、捌いたばかりの馬の肉を「生のまま(刺身)」でむさぼり食うことで、辛うじて飢えをしのぎ、奇跡の生還を果たしたのです。火を使わず、冷たい生肉で命を繋ぎ止めたこの生々しい体験は、清正の心に決定的な教訓を刻み込みました。

 4. 熊本城の畳と馬刺し ―― 清正が仕込んだ「防衛インフラ」


 帰国後、初代熊本藩主となった清正は、他国にはない独自の政策として「馬肉食」を領内に強く推奨し、自らも好んで食べました。

清正は、馬肉が非常に栄養価が高く、体を温め、戦や重労働に耐える強靱な体を作る「滋養強壮の薬」であることを身をもって知っていたのです。
彼の頭には、常に「またいつ、あの蔚山城のような飢餓の籠城戦が起きるか分からない」という強烈な防衛意識(危機感)がありました。

熊本城の畳に「芋の茎」を編み込み、壁の漆喰に「干し干瓢(かんぴょう)」を混ぜて非常食としたのは有名な史実です。

同様に「普段から馬の肉を食べることに慣れさせておく」という文化もまた、いざという時に兵や領民が躊躇なく軍馬を食糧にして戦い抜くための、清正が仕込んだ「ソフトの防衛インフラ」だったのです。

「どんなに綺麗事を言っても、まずは泥水をすすり、馬の肉を喰らってでも、生きて生きて生き抜かねば、後ろで待つお袋様(ねね様)への信義は果たせない」

430年前、清正が極寒の戦場で命の尊さと向き合ったあの覚悟の証が、熊本の地に種として蒔かれました。


その種は江戸時代を通じて大切に守られ、昭和の冷蔵技術の発達とともに、全国に誇る極上のグルメ「熊本の馬刺し」へと開花したのです。

 私たちが今日、何気なく口にする一切れの馬刺しには、豊臣の時代、加藤清正が部下たちと共に生死をかけて戦い抜いた、熱い命のバトンが今も脈々と息づいています。


物語の世界観 気象変動と戦国時代 20260612記
(おわり)

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