30年越しの夏休みの宿題
目が覚めるたびに、世界のどこに自分がいるのか瞬時には全然わからない。
暗闇の中で、ふふふっという声がする。
…。あれ?ひょっとして自分の声?
てか、ここどこだっけ??
疲れ果てていて、頭が相当ぼーっとしている。目もまだぼやけているけど、目の前に何か白い大きな物体が見える。
あ、これ自分んちのワードローブだ。
そうだ、数時間前に家に帰ってきたんだ!!おーけーおーけー。
でもちょっと待って。何でワードローブが足元じゃなくて目の前にあるんだっけ。…。またしても一瞬考え込んでしまった。
ひょっとして、私、いつの間にか寝てる間に起き上がったっぽい。そいでもって楽しい夢でも見てた。うんうん。で?
ふふふっと笑いだし、しまいにはその自分の笑い声で目を覚ましたんですか。
まじ?控えめに言って、ちょっと不気味じゃないか。
後ろから、「どうしたの、大丈夫?」というQの眠そうだけど、きちんと怯えている声がする。振り返って事の顛末を教えると、めちゃめちゃ笑っていた。
暗闇の中で背を丸めてふふふっ、と笑っている妻の世にも恐ろしい姿を目撃してしまったQには、せめてもの笑いを提供できてよかった。
こんなことが数え切れないほどあった。
十年以上、次の街へ、次の国へ、と転々とする仕事をしていた。
担当する国々へ定期的に、そして頻繁に通っていた。一回の出張で大体二〜三週間。それが終わったらイギリスに戻って、しばらくしたらまた次の出張というパターン。
機内アナウンスで到着地の言語が流れてくるだけで、心地よかった。降りた瞬間に包まれる、もわっとした空気と、出発地とはちがう匂い。読めない看板。あ〜きたきた、最高〜と思った。
身体はぐったり、足はぱんぱん。
自分は確かにここにいるけど、家でもオフィスでも旅行先でもないどこかに向かっている感じが好きだった。
肌はいつも絶不調で、もはや時差ぼけなのか不眠症なのか曖昧だった。
本当は、お風呂に入って泣きたかった。
いつだったか、同じ滞在先のホテルに泊まっていた同業の知人たちに、そう言ったら笑っていた。私も笑った。それで少し楽になった。
でも、笑い終わったら、また一人だった。
自宅のベッドで、むくりと笑いながら起き上がったあの夜から、何年後だろう。
完全にバーンアウトしたのだと思う。
四十三歳だった私は、使い古しのタオルで作った雑巾が、もういよいよこれ以上使えないくらい、ずたずたのぼろぼろ、みたいな状態になって、仕事を辞めた。転職もせず、ただ辞めた。
タオル冥利に尽きる。
仕事も、それ以外のことも含めて、自分の中で作られていった歪みとか、ずれみたいなものが大きくなっていた。
それが堆積していって、傷みがすすんで腐ってどろどろになっている部分もあった。
オフィスの毒気に限界を感じていたし、些細なことでQや世間に対していらいらしたり、人の活躍を心から喜ぶことができなくなっていた。
部屋の隅で埃がふわふわと転がっていることに気づいても、掃除機をかける気力すら湧かないまま、埃が増えるだけ。
そういうものを抱えたまま突っ走っていたら、どこに向かっているのかすら分からなくなっていた。

一旦、強制終了するしかない、と感じた。
つい、がーっと走ってはまた走る。それを延々と続けていた。
何でだろう?
疑う理由もなかったし、疑い方も知らなかった。
いつからか、一旦立ち止まってリセットしないと何かやばいかもしれない、という感覚は少しずつ強くなっていた。
でも昔からの習慣で、「私だけじゃないし、生きていればこういう気持ちになることもある」、と思ってやり過ごしていた。
そのうち、その感覚はじわじわとしぶとく続くようになっていた。
「あともう一週間だけ様子を見よう。」
「このプロジェクトが一段落するまで待とう。」
「今年が終わるまで。」
と、なんだかんだ理由をみつけては、何かやばい、への対応を延ばし延ばしにする日が続いていた。
そんなある日。積み立てていた投資をアプリでぼんやり見ていたら、もし明日死んだらこれ1ペンスも使わないままだな…、と気付いてしまった。
気付いたことを気付かなかったことにできるほど、私は人間ができていない。
老後いつかのために、という漠然とした理由で積み立てを続けていた。
でも、いつか、っていつのことだろう?
当然のように明日がくることを前提にしていたけど、保証はない。当たり前だけど、もし明日がこなかったら、いつかもこない。確実に。
考えたこともなかった。
FIREできるような額には全くもって程遠いけれど、大人のギャップイヤーならとれる、そう思った。
めちゃめちゃ長い人生の夏休みをとってやる、そう決めた。何だかうきうきしてきた。

でも、やっぱり。安定も、自分なりに積み上げてきたものも手放すことを想像すると、心臓がばくばくした。年金支給開始まで四半世紀もある。
な、長い。無理無理無理、ぜ〜ったい無理。二十五年どころか、三ヶ月も無理だ…。たぶん、ばらばらになってしまう。
これらの気づきに、ぐいぐいとされていた頃。とある同僚のとある言動と態度に、つんっと最後の一押しをされた。
その瞬間、
もういい、知らん、いっちぬーけた!!
と決めた。
いつものように何か軽く言葉を返すことはもちろん、適当に笑ってあしらうことすらできない。すでに私はそんな場所にいた。
その夜、退職届を書いた。
二ヶ月後、無職になった。

無職生活の日々は、キッチンの戸棚ひとつから始めた。
全ての物を出して、何を、なぜ、手元に残すのか決めた。終わったら次の戸棚。キッチンの次は階段下。時には埃まみれになりながら、すこしずつ家中を片付けた。
値札のついたままの物。渡せないままのプレゼント。入らなくなった服。何でこんなにあるんだろ?収納が少ない家だからと言って、収納グッズをよく買っていた。でも問題は収納じゃなかった。
いらいらが減った。
「明日はきません」、という通知がとつぜん届いたと想定して、一目でいいから会いたい人リスト、をつくって会いに行った。
リストの一番上は、日本の家族。実家に帰って、一緒に何でもない日々を過ごした。
三度目の帰国は、父の葬儀のためだった。
こうなることは私も、誰も、知らなかった。父も。
父の死後、母のそばに二ヶ月いた。
何かに導かれたかのように、そこにいた。
あいだあいだで、気がすむだけ読書をしたり、映画や動画を観て、幽境をふらふらした。
濃い霧のたちこめたイェンバイの山奥で水牛にまぎれ、車山湿原をひとりじめした。なんて贅沢なんだ、と思った。
少し怖かったけど。

やりたいことをやっていると、腐ってどろどろになっていた部分が消えていった。
あんなに大好きだと思っていたお酒も、あっさりやめた。皆もびっくりしていたけど、私本人が一番びっくりした。
やめたら、どれだけアルコールが自分を膜に包んだり、感覚を鈍くしていたのかがまじまじと感じられるようになった。
人は好きなのに、人といることが続くと泥のように疲れる。
大したことじゃない、とずっと言い聞かせてきたけど、いろんな音が混ざるのがやっぱりきつい。
パブでパイントを片手に集まることも、いつからか苦痛になっていた。仲が良いと思っていた友達と、かならずしも共通点が多いわけじゃなかった。
でも無意識のうちに気付かないふりをして、自分じゃない誰かを演じていたらしい。
そういうことを掻き消すように、いつだってもう一杯頼んでいた。

膜がはがれて残ったのは、歪みでもずれでもなく、もともとの自分だった。
ひとりになりたい。
どうしてもベッドから起き上がれない日や、ぐるぐる、ぐるぐる、終わったことが、頭の中で何度も勝手に再生されてしまう日も、数え切れないくらいあった。
あの時の、あのやりとり。全然うまく伝わってなかった。何度、正しい言葉を探そうとしても、見つからない。結局、何の意味があるんだろうと感じてしまう。
ああでもないこうでもないと、時には半べそどころかまじ泣きしながら、時にはそういうことかと納得しながら、ずーっとさぼっていた夏休みの宿題に、ようやく向き合うような、そんな時間だった。
こんな日々を過ごしていたある日、三十年以上も前のことをふと思い出した。
私は十一歳の頃、急に視力が落ちた。一晩で、とまではいかないけれど、ずこーっと落ちた。
慌てて眼科へ母に連れていかれて、先生からは、遠くや緑のものをできるだけ見て、少し休むように、というアドバイスをもらった。ペースを落としたら、視力はきちんと戻った。
それだけのことだ、と思っていた。
いま振り返ると、その後も身体はありとあらゆる形で何かを伝えようとしていた。だけど、ほとんどは診てもらうほどではない、ちょっとした不調。
私はそれまでの生活や人生を単にこなしていたのだと思う。
タスクのように。
学校を卒業したら、働く。仕事もプライベートもできるだけ楽しむ。時が来たら年金生活をする。何があるか分からないから、できるだけ備えもちびちび増やしていきたい。
誰かに命令されたわけでもないのに、不格好にもがき苦しみながらも、そうやってきた。
それ以外にどんな生き方があるのだろう、と思ったことすらなかった。
でも、私よりもっと忙しい友達や同僚を見るたびに、
「皆はもっと色んなことしてるのに、なんで私はこんなに疲れるんだろう?」
「なんでこの子の家みたいに、もっとすっきり綺麗にできないんだろう?」
と、頭の片隅で思っていた。仕事と、それ以外のことをちょっとするだけで、ぐったりだった。
誰かに聞くにも、それだけで疲れるの?と思われたり、同業者に話した時のように笑い話になるだけかも、と思うと、こわくて言い出せなかった。
得体のしれない歪みとかずれ。
そとから見たら、仕事も人間関係もプライベートも、それなりに上手くいっているように見えたかもしれない。でも表面下では、いつもぎりぎりだった。
ただただ、必死にがむしゃらにここまで来ただけだ。
どうも上手く調和していない。気付くのに三十年以上かかってしまった。
生活や人生をこなすことをやめて、自分を生きないとだめになると思った。
というか、既に一度ばらばらになりかけたし!
自分を生きる。
そのうち、夜中に目が覚めても、自分がどこにいるかすぐ分かるようになった。
私の中で何かがくしゃっと握りつぶされるような、あ〜あ、という、ちょっとだけ泣きたくなるような、でも誇らしいような気持ちがじわじわと滲みだした。
次は道中、力尽きないように、大きく壊れないように。
今朝、家の庭にあるミニチュアユーカリの木の手入れをした。
この子は名前の通り、それほど大きくはならず165cmくらいの高さだ。
この冬は特に雨が多かったせいか、枝先が黒ずんでいるものが多く目についた。でもそれは木の半分側だけだと、剪定を始めて気付いた。
反対側を見てみると、黒さは殆ど見当たらず小さな浅緑の葉が出始めていた。
心のなかでごめんね、といいながら鋏を入れていく。たくさんの新しい葉が育つように。もっとバランスよく栄養が行き渡るように。

「もっともっと」、「まだできる」、「まだいける」と先に進んだ。
がむしゃらに、必死に。
「あと一回出張が終わったら、旅行!」
「次の大きなプレゼンが終わったら、友達の結婚式。」
「あ〜もう、あともう一年また頑張るか。」
「もっともっともっと。」
「だって仕事だし。」
「だって人生って大変なもんだし。」
「だってみんなやってるし。」
だから私にもできないはずはない。
もっともっともっともっと。だってだってだって。
生活をこなすことをやめて自分を生き始めたら、流れが変わった。
流れが変わったら、水脈ができはじめた。
水脈がどこへ行きたいのかーそれを感じながら、流れる先を少しずつ拓いている。
生活をこなすだけだったあの頃の私は、どうやら誰かが作った水路を漂流していたらしい。

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