昭和6年生まれ|父の人生再構築 1
私の父は昭和6年の生まれです。長身痩躯で家庭では無口な人でした。無口であったために謎めいている部分がある。ASDの傾向もありました。
謎の父の生涯を再構築してみたいと思います。私のASD自叙伝が書きかけですが、平成18年に亡くなった彼の人生を振り返るのもまた興味深いのではないでしょうか。
草津温泉日記 2026年4月25日
今朝は5時に起きました。8時間以上ねむってしまって、こういう日は認知の立ち上がりが弱い。
そんなこともあって、先日から考えていた、父の人生についてのお話を。
序論

父の入社までの道のりをたどると、戦前・戦中・占領・戦後という四つの時代が一続きの層として重なり、その中で父がどのように語学と職業的基盤を形成していったのかがみえてきます。
特に、学生時代に手に入れたイギリス英語の文法書を晩年まで大切にしていたという一点は、父の語学観と階層意識を象徴する重要な手がかりになります。
1.戦前の家と出生

父は昭和6年1月に生まれ、富士川流域の廻船問屋の家系に育ちました。鉄道開通により、家業は壊滅して、祖父は横浜で商売を始めたと聞いています。何を商っていたのかは知りません。が、軍需物資ではなかったのでしょう。
戦時統制で家業は早くに縮小し、家族は田舎へ戻りました。このとき、ある程度の資産はあったようです。祖父は、戦中に狭い村の田地を多く購入した形跡があります。
横浜には、父だけが残ることになりました。長兄に「鶏口となるも牛後となるなかれ」と諭され、横浜第二中学に進学しており、学業を続けるためです。
戦前の階層文化と戦時の不安定さが同時に刻まれた世代です。
2.横浜第二中学での旧制的英語観
昭和17年、父は横浜第二中学に入学しました。都市エリート校であり、英語を「イギリスの教養」とみなす旧制的価値観が強く残っていました。実際に在学できたのは2年内外でしたが、この価値観だけは父の中に深く残ります。
終戦まで、世界第一の覇権国家はイギリスでした。
3.空襲と疎開による断絶

横浜空襲の激化で下宿生活が続けられず、父は田舎の中学へ疎開転校しました。都市の旧制文化から地方の新制的環境へと強制的に断絶され、学歴の連続性は失われます。この断絶が、のちの独学の基盤になります。
父とその前後数年、この田舎中学は一時期だけ疎開生徒のおかげでレベルが上がっていたと聞いています。
4.戦後の進路選択
疎開後も父は横浜高商(現・横国経済)を志望し続けました。都市の商学・経済学への志向が強く、親の援助を期待できない前提で進学を計画します。父の人生の軸には、常に「都市への回帰」「水運への回帰」がありました。
水運が途絶えた、故郷の地に大卒の仕事はありませんでしたから。
5.占領下の大学生活と語学

1949年から1953年までの父の大学生活はほぼ占領下です。父は 親の援助なしで進学しました。学費と生活費を賄うため、GHQで通訳や文書処理・物資管理・戦没兵士の遺体洗いなどのアルバイトをしていたと聞いています。
とりわけ、朝鮮戦争が始まってからは遺体洗いの仕事には高給が支払われ、父は「1年休学して、コレで稼げばあとはアルバイトなしで。。」と考えたこともあったそうです。
英語は「技能」として使われましたが、文化的にはアメリカを拒絶していました。学生時代に購入したイギリス英語の文法書を晩年まで大切にしていたことは、父の語学観の核がアメリカではなくイギリスにあったことを示しています。
6.クイーンズ・イングリッシュの影
父の英語は、旧制的英語観を基礎に、大学で受けた教育に立脚して、独学による読み書きの強化、GHQでの実務経験を重ねて得たものでした。当時の、大学での英語教育はブリティッシュイングリッシュ。
私の大学時代にも、その余韻は残っていました。カセットテープでブリティッシュイングリッシュを学ぼうとトライしたことがあります。
父の英語は、発音や口語はアメリカ寄りにならず、文法の正確さと礼儀正しい態度が特徴でした。
その後、ロンドン長期出張ではアッパーミドル層に受け入れられ、下宿先の東欧系移民の娘に英語を教えたという逸話も残っています。父の英語は、世界の多くの地域で「インテリの英語」として通用するものとなっていました。
7. 花の二八(にっぱち)

出典:Wikimedia Commons
1953年、旧制と新制が同時に卒業する制度移行期で、戦後最悪クラスの就職難でした。平成の「就職氷河期」と比べても、さらに過酷な競争率だったようです。
その中で父は大手損保に入社し、昭和28年入社組は「花の二八」と呼ばれました。少数先鋭の突破組として企業社会へ入ったことになります。
結語
父の入社までの人生は、戦前の階層文化・戦時の断絶・占領下の自力生存、そして戦後の制度崩壊期を突破するという四層構造で成り立っていました。
その中心にあったのは、学生時代に手に入れたイギリス英語の文法書に象徴される、クイーンズ・イングリッシュの影をまとった語学観と、占領下で磨かれた対人調整能力でした。これらが父の人格と職業的基盤を形づくり、戦後日本の企業社会を生き抜く力となっていったのだと思います。
父が就職したころ「金の卵」と呼ばれた人々も就職しています。地方の新制中学校の卒業生でした。こちらは超売り手市場だった。アニメ『サザエさん』の酒屋配達員のサブちゃん。彼はその系統だと思います。
最後に

知っていることと、調べたことを纏めて文章にしてみました。多くを語らない人だったので、わからないことが沢山あります。
祖父の横浜での商売の内容や、父が如何にしてクィーンズイングリッシュの発音まで身に付けられたのか。「クィーンズ」と名乗るからには、上流の英語です。
そういえば、大学の年間授業料が300円だと、のちに聞きました。父の初任給が1万円前後ですから、在学中にインフレが進んだとしても随分と安い。
今、横溝正史の金田一耕助シリーズを片端から読んでいるわけですが、父の青春時代の時代背景が見え隠れして、その面からも楽しんでいます。
なお、父の人生については、纏まり次第、随時投稿する予定です。
ではまた。
これまでの草津温泉日記はこちら。
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