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【学び系・子育てエッセイ】#13 子どもは “思い出すように” 学ぶ〜『数学する身体』から考える子育て〜

こんにちは、みずかです。

5歳(年中)の女の子と、1歳半の女の子、そして妻と一緒に毎日を過ごしている、パパです。

子どものいる日々のほころびを、noteを書きながらほどいていく生活を送っています


『数学する身体』というタイトルに惹かれて

数学する身体』(数学をテーマとした著作・講演活動などを行なう日本の「独立研究者」による著書)。
このタイトルに惹かれて本を買ったのは、もう7年も前になりますか。

この間、子どもの成長に合わせて、我が家では2回の引っ越しがあったわけですが、その難関をくぐり抜け、今もなお本棚のわりと目立つところにいたこちらの本。

しかしながら、すぐそこ、手の届くところにあって何度か読もうとはするものの、その都度、日常生活の大きなうねりに弾き飛ばされてきた “積読常連” でもある1冊。


僕は昔から、日常の中で起きたちょっとした出来事を、すぐ抽象化してしまう?(目の前で起こっていることから頭が少しどっかにいきやすい)タイプのようで、

たとえば、長女のいっちゃんがブロックで家を作っていて、途中で「やっぱりこっちの色の方がいい!」と、できたものを崩して作り直すとき。

その様子を見ながら、「あぁ、人って“完成よりも過程に惹かれる生き物”なんだよな」とか「そういう細かなところへの“こだわり”を通して、自分を知っていくんだよなぁ」などと、つい頭の中で考えてみたり。

そんな僕にとって、“数学” と “身体” が並ぶこのタイトルは、どこか他人事とは思えず、ワクワクしながら購入したのですね。

そして今回、何度目かのトライをし、読み進めるうちに、「これは子育てにも通じるかもしれない」と感じる場面がいくつも出てきたので、noteにまとめてみようというわけですね。


油断をすると、目の前の子どもとの生活や、普段の仕事に関する情報だけに偏っていきがちな視野。

一見、子育てとは直接的に関係がなさそうなものにじっくりと触れることで、その視野をストレッチする機会にしてみたいと思います。


「学び」とは、はじめから自分の中にあるものを掴みとることであり、すでに知っていることを思い出すこと

本書のなかで特に印象に残ったのが、“mathematics(数学)” という言葉の語源について触れた、次の部分です。

 mathematicsという言葉は、ギリシア語のマテーマタ*1(学ばれるべきもの)に由来する。それは本来、私たちが普通「数学」と呼んでいるものよりも、はるかに広い範囲を指す言葉であった。
(中略)
 ハイデッガーは、そんなマテーマタ*1という言葉について、(中略)興味深い議論を展開している。
 マテーマタ*1が「学ばれるべきもの」という意味だというのはよいとして、そもそも「学ぶ」とはどういうことか。
 学びとは、はじめから自分の手許にあるものを摑みとることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを誰かに与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で摑みとるように導くことだ。
(中略)
ハイデッガーのいうことを、私はこんなふうに理解している。すなわち、人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。(中略)何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているのだろうか」と自問すること。(中略)それがハイデッガーのいう意味でのmathematicalな姿勢なのではないだろうか。

引用『数学する身体』第一章 森田 真生
*1マテーマタと表記した部分は、本書ではギリシア語でそのまま表記されている

この部分を読んだとき、僕の中で “学び” と “子育て” の距離が、すっと縮まった気がしました。

僕ら大人は、子どもに “新しいことを教える” という意識を持ってしまいやすいのではないでしょうか。

けれど、ハイデッガーの言うように、「学ぶ」とは “もともと持っているものを、自分で掴みとる” ことだとすれば、親の役割は “知識を与える人” ではなく、“気づきを引き出す人” なのかもしれないな、と思いました。


「知っていること」を掘り出す力

たとえば、子どもが「これなに?」と聞いてきたとします。

そんな時、僕らはすぐ答えを言ってしまいがちだけれど、実はその瞬間、子どもはすでに “何かを知っている” 状態から出発しているのだ、ということを忘れないように関われるといいんでしょうね。

それが「いちご」という名前であるということはまだ知らないとしても、「りんごとは大きさが違うな」とか、「りんごとは色がちょっと違うな」とか、「りんごとは匂いが違うな」とか、“それまでに見たことのある何か(りんご)とは違うものである” ということを知っているということなんだね、などと受け止めてみる。

そしてその “すでに知っていること” を、「りんごっていう名前なんだね、おもしろいね」とか、「りんごってまんまるじゃなくて、丸いけどへこんでるんだね」などと、自分なりの言葉や感覚で掘り出していく過程こそが、まさに “数学する身体” としての営みということなんだろうなと感じました。

そう言われると、子どもの「わかった!」という表情は、いつも“思い出した”ような顔をしている気がしてきます。

知らなかったことを新しく知るというよりも、心のどこかで「そうだ、これだ!」と、再び結びつくような瞬間といえるのかもしれませんね。


「数学する身体」は、日常にひらかれている

数学と聞くと、どうしても “教室の中の世界” を想像してしまうけれど、本書のいう「数学する身体」は、むしろ生活のあらゆる場面に開かれているということなんだと思います。

子どもが積み木を並べてバランスを取ろうとする。

線路をどこまで延ばせるか試す。

なんらかの順位を決めたり、パターンを見つけたりする。

それらはすべて、「はじめから知っている世界の法則」に身体で触れようとする行為なのかもしれない。

そして親である僕らは、つい “正しい遊び方” を早い段階で提示したくなるけれど、もしかしたら必要なのは、“法則に触れている最中の子どもたち” を、ただ観察することなのかもしれない。

僕らが「これはこうやるんだよ」と言うたびに、子どもの身体は、ほんの少しだけ “数学する力” を閉じてしまう。でも、僕らが「どうしてそう思ったの?」と尋ねるとき、その力はもう一度、静かに開きはじめる。

そういうことなのかもしれませんね。


「数学する身体(学ぶ身体)」としての親と子育て〜ナラティブの編みなおし〜

本書のタイトルをあらめて味わうと、“数学する” のは子どもだけではなく、僕ら大人の身体もまた、学び続ける存在なのだということに気づかされます。

子育ては、日々の小さな「わからなさ」に満ちている。

どう関わるのが正しいのか、どこまで介入すべきか、いつ手を放すのか。

そのひとつひとつの問いの前で、僕らの身体もまた、世界を “測り直し” ているんだと思います。

「数学する身体(学ぶ身体)」とは、公式を覚えることではなく、世界に向かって “もう一度考えようとする” 姿勢といってもいいのかもしれません。

子どもに教える前に、まず自分自身の “数学する身体(学ぶ身体)” を磨いていくこと。

そこから、日々の関わりが少しずつ変わっていくのかもしれないなと、今回の “学び” を整理してみた今、そんなふうに感じています。


前回の学び系・子育てエッセイを書くことでみえてきた、我が家における “子育てで意識するポイント” の一つである、

“いろんな気持ちについて、たくさん話をしよう!”

という語り(ナラティブ)と近い表現にもなるけれど、


“自分の感じたことや気になることにしっかりと向き合って、いつまでも学び続けよう”

自分なりの言葉や感覚で、学んだことを整理していこう

“教えすぎるのではなく、相手が気づけるような関わりを大切にしよう”


これが、今回たどり着いた、我が家にフィットした語り(ナラティブなのかなと思います。

でも、3つはちょっと欲張りすぎかなぁ、、、
まぁ、ひとまずいいよね。ふふふっ。


世界は、“すでに知っていることや気づいていることを、知ろうとすること” で豊かになるのかもしれませんね。






↓今回、紹介した書籍
まだ半分くらいしか読めていないので、この流れを離さずに引き続き読んでみます。


2025年8月から始めたnote投稿に関して、月報という形で、実際のアクセス状況のデータにも触れながら、これまでの振り返りと、今後について書いた記事を集めたマガジンです↓


↓前回書いた “学び系・子育てエッセイ” です。
子育てに関する書籍や他のnoterさんの記事紹介も入ってます。



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