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木漏れ日 (7)

 一週間のバイトは、酷暑からの解放、何冊かのスケッチ、ドラマチックではないけれど得難い出会いとやり取りを心に残して、静かに幕を下ろした。
 当たり前だけど下界はまだ地獄の釜の中で、軽井沢の一週間はあっという間に酷暑に圧殺された。大学の制作室も、自主登校して制作に取り組む学生で賑やかになっていた。空調が効いてて涼しいからっていうだけじゃなく、十月の学祭に新作を展示しようと考えている子が多いんだろう。美大の学祭は単なるお祭りじゃない。新人発掘のために画商や美術商が視察に来るんだ。ちゃんと目立っておかないと、出る芽も出ないってことだよね。
 でも。僕は展示用の作品を描かなかった。その代わり軽井沢で描いた一連のスケッチから十六枚を選び、『忘れられない夏に寄せて』と題して出展することにした。渡辺先輩の力作と並べられるのはしんどいけど、僕自身に大きな意味があるならいいと割り切った。
 それと、帰ってからもう一つ決めたことがある。僕の作画の原点は、子供の頃に大好きだった水彩だ。その原点に戻そう。押しの弱さ、個性の乏しさを補うためにくっきりした造形や濃い彩色にこだわるようになっていたけど、一度全部捨てることにする。沼にはまることすらまるごとアート。沓澤さんのアドバイスは、すとんと腑に落ちた。あがきから無理に何かを得ようとしなくてもいい。あがきをポジティブに受け止めるだけでいい。得られるものは自然に身につくし、努力しても身につかないものは結局不要なんだ。
 エネルギー総量の少ない僕が手にできるものは少ない。でも、核みたいなものを失わない限り、いつかは『僕』をきちんと造形できるだろう。その色や形を今急いで決める必要はないよな。

◇ ◇ ◇

 軽井沢で描いたスケッチをもとに、水彩でこれでもかと習作を描き連ねている間に、いつの間にか十月に……そして学祭になった。学祭の展示では、渡辺先輩が描いた少女画の連作が大きな反響を呼んだ。静謐なイメージの少女を描き続けていた先輩が挑むような表情の少女を描いたこと。それが新境地として高く評価されたんだろう。でも、少女たちのモチーフが島野さんだということは誰も読み取れないと思う。
 その一方で、僕の展示作はどうしようもなく地味だった。児戯に等しいと無視されることが多かったけど、沓澤さんと島野さんが変装してこっそり見に来ていた。声はかけなかったけどね。

◇ ◇ ◇

 木漏れ日に彩られた一週間を境に何もかも変わった? いや、日々の過ごし方は全く変わらなかったと言っていい。課題や制作に追いまくられ、根を詰めた絵を薄いなあと酷評され、学業とバイトの両立に苦労し、就職どうしようかと悩む日々が卒業するまで続いた。
 そんな代わり映えしない僕とは対照的に、沓澤さんと島野さんはそれまでの成功の一切合切を鮮やかに捨て去った。沓澤さんが次回作を最後に映画制作から撤退すると宣言し、島野さんが女優引退をアナウンスしたんだ。島野さんの引退理由は表向き病気になっていたけれど、それはプレス向けの煙幕だと思う。僕は信じていない。あの時沓澤さんと島野さんがそれぞれ飲み込んでいたセリフの続きは、そういうことだったのかと納得する。
 沓澤さんが映画から撤退することは予想できた。あの時すでに、映像作家としての原点に戻りたいという意思をはっきり示していたから。映画がしんどいからやめるのではなく、映画制作で得た経験を集約して新たな創作に挑みたいということなんだろう。
 島野さんがなぜ俳優引退を決心したのかはわからない。島野さんはほとんど自身のことを話さなかったから。でも、エネルギー量がはんぱない彼女のことだ。悩みや葛藤の激しさは僕の比じゃないはず。引退は熟慮の末の結論だと思う。
 二人の大きな決断を横目で見ながら必死に卒制を仕上げ、ぎりぎりで就職を決めた。実質馬場さん一人で切り盛りしているアルテアに、仮初かりそめの居場所を作ってもらったんだ。安定しているけれど社員を部品としてしか扱わない……そういう会社に就職したら、僕は身も心も部品になってしまうから。馬場さんには「バイト代くらいの給料しか出せない」と申し訳なさそうに言われたけど、お金のことよりも自分を殺さずに働ける環境の方がずっと大事だった。馬場さんも、二馬力だと仕事の幅や奥行きが増やせると喜んでくれた。

 ああ……これでまだあがくことができる。僕は本当に嬉しかったんだ。

◇ ◇ ◇

 社会人になったと言っても、絵の具や塗料まみれの日々が続くのはこれまでと変わらない。オリジナリティがどうの芸術性がどうの……そんな高尚なこととはほとんど無縁だけど、僕はいっぱい描けるだけで満足だった。無心に筆を動かす日々は本当に充実していたんだ。
 映画や演劇の美術サポートだけでなく、看板、壁絵、本や雑誌の挿絵、ポップなど「描く」という要素のある小さな仕事を貪欲に引き受けることで、馬場さんも僕もだいぶ収入が上向きになったと思う。

 そして、社会人としての日常がやっと体に馴染んできた三年めの早春。アルテアに大きな変化が降ってきた。

◇ ◇ ◇

「えええっ? 馬場さん、結婚されたんですか?」
「ははは。黙ってて済まんね。なんか、彼女に押し切られちゃったと言うか……」

 照れ笑いにも苦笑いにも見える微妙な笑顔を浮かべた馬場さんが、誰かを手招きした。事務室に入ってきた奥さんの顔を見て、腰が抜けそうになった。

「監督!」
「いやあん、もう監督はやめてよう」

 ま、まあ、軽井沢での運命の出会い……ってことになるんだろうな。でも、沓澤さんが馬場さんに惹かれた理由わけはすぐにわかった。馬場さんはクリエイティビティが高いのに、アーティスト特有の癖とかエゴの強さがないんだ。温厚でとっても懐が深い。なんか、ゆったり泳がせてくれるっていう安心感があるんだよね。僕がもし女性なら間違いなく惚れる。
 仕事中だからか、馬場さんはそれほど照れたり惚気たりしないで、さっと話を進めた。

「まあ、そういうことになっちまった。妻はこれまで通り制作に専念するから、ここには絡まない。で、俺はこれからしばらく結婚絡みでちょいプライベートが立て込むんだ。三村さんだけだと仕事こなすのがしんどいと思う」
「あ、はい」
「それでな。社員扱いの三村さんと違ってバイトという形だけど、男の子を一人サポメンとして雇うことにした。了承してほしい」
「僕は全然かまわないですけど。学生さんですか?」
「今はな。もうすぐ卒業予定なんで、そのあとはフリーターってことになる」
「まだ就職先が決まってないんですね」
「うーん、そうじゃなくてね」

 腕を組んだ馬場さんの表情が今いち冴えない。沓澤さんはにやにやしてるけど。

「彼はここに就職希望なんだよ。でもうちの稼ぎ的に、三村さんだけで手いっぱいなんでなあ」
「はあ……」

 なるほど。そらあ渋い顔になるはずだわ。

「とりあえず、今の業務をこなすことが最優先ですよね」
「だな。先のことは一段落ついてから考えるか。じゃあ、新入り込みで打ち合わせをしよう」

 思考を仕事モードに切り替えた馬場さんが、事務室のドアに目をやった。

「あれ? もう来てるんですか」
「そう。仕事はびっしり詰まってるからね。田谷たやさん、入って」
「はい!」

 聞き覚えのある声がして、グレーの作業服を着たひよこ頭の細っこい人がひょこっと入ってきた……けど。おいおいおいおいおいっ!

「ちょっと馬場さん、冗談きついですよ! 島野さんのどこが男の子ですか!」
「男の子だ」

 茶化すでも笑うでもなく、馬場さんは真顔で言い切った。それで僕にもわかったんだ。あの時に島野さんが何を「決めた」のかが。なるほど。そういうことだったのか。


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