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分からないと言える人でいたい

みんなが知っている前提で、話は始まっている

SNSで何かが話題になる。

たとえば、新しいAIツールが発表された翌日。
タイムラインを開くと、もう多くの人が使っていて、比較していて、評価まで終えている。

「思ったより使える」
「これは前から言われていた流れだ」
「結局こういうことだよね」

誰かに責められているわけではない。それでも、みんなが知っている前提で話が進んでいると、自分だけが会議に遅れて入ってきたような感覚になる。すでに議論は始まっていて、前提も共有されていて、今さら「それ、何ですか」とは聞きにくい。

知らなかったこと自体が、なんだか悪いことのように感じてくる。

けれど、冷静に考えればおかしい。

毎日流れてくるニュース、技術、制度、トレンド、炎上。それを全部追える人間など、どこにもいない。
情報の量は増え続けているのに、なぜか人は以前より、「知らないこと」に厳しくなっている気がする。

情報が増えたのに、知らないことに厳しくなった

本来なら、逆のはずだ。

情報の量が増えれば、一人の人間が知らないことの割合も増える。
だから「知らないことがあって当然」という空気になっていくのが、自然な流れのように思える。

ところが実際には、そうなっていない。

「検索すれば分かるでしょ」
「AIに聞けばいいでしょ」

調べる手段が増えたことで、知らないことへの許容度は、むしろ下がった。
知らないのは、調べる手間を惜しんだからだ、という扱いになる。

ひと昔前は「ググレカス」という言葉が流行った。そんなことは自分で調べろ、という突き放しだ。
最近はあまり聞かなくなったが、「AIに聞けばいい」という空気は、たぶんその延長にある。

一方で、AIに聞けば一瞬で済むことを、あえてSNSで聞く人もいる。答えが欲しいというより、反応が欲しいのだろう。

知らないと責められることもある。知らないことが反応を集めることもある。
どちらにしても、知っているかどうかだけが、理解の深さとは別のところで見られている。

ただ、情報にアクセスしやすいことと、実際に全部知っていることは、まったく別の話だ。

便利になったことで、人は賢くなったというより、知らない人に厳しくなったのかもしれない。

そして、その厳しさは、いつのまにか自分にも向く。
知らないと言いにくい空気は、他人を責めるためだけでなく、自分の口を重くするためにも働く。

若い頃、「分かりません」が言えなかった

新卒で会社に入って、銀行の大きなシステムに関わっていた頃のことだ。
お客さんの前で、私はなかなか「分かりません」と言えなかった。

理由ははっきりしている。若かったからだ。

若いということは、それだけで信用が足りない。実績も、年齢も、肩書きも、相手を安心させる材料がまだ何もない。そういう状態で「分かりません」と口にしたら、頼りないと思われるんじゃないか。この人に任せて大丈夫か、と思われるんじゃないか。

そう考えると、曖昧なことでも、曖昧なまま答えてしまう。

「たぶん大丈夫です」
「できると思います」
「そんなにかからないはずです」

本当は確認できていない。影響範囲も読めていない。
それでも、その場で頼りなく見えることのほうが怖くて、知っているふりに近い返事をしてしまう。

知らないと言えないのは、知識が足りないからではなかった。知らないと言ったときに、自分の立場が崩れるのが怖かったからだ。

若い頃の私にとって、「分かりません」は、能力の不足を認める言葉ではなく、信用を失う言葉だった。

経験を重ねると、別の理由で言えなくなる

では、経験を積めば言えるようになるのか。

そう思っていた時期もあった。実績ができて、立場ができれば、堂々と「分かりません」と言えるようになるだろう、と。

実際には、そう単純ではなかった。

経験年数が増えると、今度は別の圧力が出てくる。「この年齢で、それを知らないとは言えない」という感覚だ。

若い頃は、知らないと信用されないのが怖かった。今は、知らないと言った瞬間に、これまで積み上げてきたものが崩れる気がする。

20年以上この仕事をやってきて、技術顧問という立場で人前に立つこともある。
そういう場で「それ、知りませんでした」と言うのは、若い頃とはまた違う重さがある。

知らないと言えない理由は、消えたわけではなかった。
年齢とともに、形を変えて残っていた。

若手の頃は「まだ何も持っていないから言えない」。
経験を積むと「もう持ってしまったから言えない」。

結局、どの年代にも、知ったふりの罠は形を変えて置かれている。これは若い人だけの問題ではなかった。むしろ、積み上げたものが増えるほど、それを守りたくて、知らないと言えなくなっていく。

知らないことより、知ったふりのほうが危ない

この知ったふりは、仕事ではかなり危ない形で表に出る。

エンジニアや経営者が、知らないことを認めずに話を進めると、結果として、お客さんに嘘をつくことになる。

悪意のある嘘ではない。その場をうまく収めたいだけだ。それでも、結果は同じになる。

仕様の影響範囲を分かっていないのに、「大丈夫そうです」と言う。技術的な制約を確認していないのに、「できます」と言う。工数を読めていないのに、「それほどかからないと思います」と言う。

確認していないことを断言すれば、相手はそれを前提に判断を始める。

予算を組む。スケジュールを引く。社内に説明する。相手の中で、こちらの曖昧な返事が、確定した事実に変わっていく。

怖いのは、その場では嘘をついた感覚がほとんどないことだ。

むしろ、場を止めなかった、相手を不安にさせなかった、うまく返せたような気さえする。

ただ、あとから振り返ると、あの曖昧な一言が期待値を作っていたのだと分かる。

その場は、丸く収まる。

でも、あとで必ずどこかが崩れる。見積もりが合わなくなる。納期がずれる。期待値だけが先に上がっていて、現実が追いつかない。

知らなかったこと自体が問題なのではない。
知らないと認識できていれば、調べてから答えればいいだけだ。

問題は、知らないのに、知っているふりをして答えてしまうことのほうにある。
知らないことより、知ったふりのほうが、ずっと遠くまで被害を運んでいく。

分からないと言える人でいたい

「分かりません」と言うことは、能力がないことを認める言葉ではない。

むしろ、そこが学びの始まりだと思う。

分からないと認識できれば、人は動ける。調べる。聞く。確認する。仮説を立てて、確かめにいく。分からないという自覚があるからこそ、次の一手が打てる。

逆に、分かったふりをした瞬間に、学びは止まる。もう調べる必要はないと、自分で思い込んでしまうからだ。知っているつもりの場所には、新しいものが入る隙間がない。

分からないものを、分からないと認識できること。

それは、思っているよりずっと難しい。若いと信用が足りなくて言えない。経験を積むと、積み上げたものが惜しくて言えない。年齢を問わず、知ったふりの誘惑はいつでもそこにある。

それでも、分からないと言える人でいたい。

謙虚でいたい、という話ではない。分からないものを分からないと認識できる人だけが、その先に進めるからだ。

知っているふりは、その場の自分を守ってくれる。
けれど、その場で守った自分のぶんだけ、次の自分は少し止まる。

分からないと認めることは、立ち止まることではない。
そこからもう一度、学び始めるための姿勢なのだと思う。

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