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朝鮮半島史㉞ ~李承晩と四月革命~

1948年の南北分離独立後、韓国初代大統領に就任したのは反共親米を掲げた李承晩であったが、広く国民の支持を得られたわけではなかった。就任から2ヶ月で早くも軍の反乱に遭い、戒厳令を布告している。朝鮮戦争が始まると再び戒厳令を出して自らに反対の立場を示していた多数の国会議員を逮捕し、憲法を自身に都合のいいように改正して大統領再選を確実にした。戦争で国民を守ることよりも、自らの地位を守ることを優先したのだ。

戦後は更に独裁色を強めながら韓国の復興を進めようとしたが、経済政策には疎く、国民の生活水準はなかなか向上しなかった。そもそも、彼が権力を握る過程において、南北合同での独立を主張していた呂運亨や金九などの有力運動家が暗殺されており、証拠はないものの李承晩が裏で糸を引いていたのではないかという説が根強くある。また1954年の議員選挙では自身の支持基盤である自由党の議員を当選させるために大掛かりな不正を行った。米国は朝鮮戦争で打撃を被った韓国経済を支えるために資金や物資の援助を行ったが、彼はそれを自らに近い特定の企業に優先的に回して利益を得た。それが後に財閥の形成へとつながっていったのだ。つまり彼の能力は自身の権力を保持するという点に特化されたものであり、こうした人物がトップに君臨したことが戦後韓国の不幸であったと言えよう。

李承晩の外交姿勢は徹底した反日であり、彼の在任中の日韓関係は冷え切ったままだった。1951年には一方的に海洋主権国家を宣言して、通称「李承晩ライン」と呼ばれる日本海から東シナ海にかけての境界線を引いて領有権を主張した。その際の韓国側の領域に竹島(独島)が含まれていたのだ。日本も米国もこれに抗議したが、彼はそれを無視して実効支配を続け、李承晩ライン周辺で操業する日本漁船を次々と拿捕した。日本に対して強く出ることで、国内の支持を得ようとしたのである。

内外における彼の独裁的かつ利己的な振る舞いに米国も愛想を尽かし、国民の間にも不満が鬱積していった。1960年の選挙では、またも大掛かりな不正が行われ、ある地区では自由党の得票数が有権者数を上回るという事態さえ起こった。各地で反政府デモが発生し、鎮圧の過程で死傷者が出ると国民の怒りは爆発し、デモはさらに拡大して一部では暴動にまで至った。李承晩は戒厳令を出して鎮圧を図ろうとしたが、現場の軍隊はもう動かなかった。軍にも見放された彼はとうとう辞任を表明し、ハワイに亡命したのである。

李承晩を辞任に追い込んだ1960年4月19日の大規模なデモは、現在の韓国の憲法前文にも、三・一独立運動と共に明記されている。独裁者を倒した民主革命の成功体験は、今もなお韓国において、デモの力を信じる原点となっているのだ。しかし李承晩政権崩壊後の新政権は安定性と指導力に欠け、長くは続かなかった。混乱の中で、翌年には軍部のクーデターが起こり、韓国はまたしても新たな独裁者を戴くことになるのである。

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