安易に倫理を騙らずシステムに飲み込まれず、それでもなお無法と搾取に抵抗するストリートフォトを考える
かつて……ルイス・ハインの「社会写真」を前史としつつ、だいたい百年前の二十世紀前半から第二次世界大戦後までのストリートフォトは、単なるスナップ写真を超えて批判的精神を持った都市社会への批評的介入だった。しかし、ジョン・シャーコフスキーがキュレーターを務め、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された1967年の「New Documents」展を契機に、ストリートフォトは批評であり社会的異議申し立ての道具から個人的表現へと決定的に転換した。皮肉なことに、それは日本で中平卓馬や森山大道が参加した写真同人誌『PROVOKE(プロヴォーク)』を生み出す触媒となり、ノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面は既存の写真美学を否定し、反写真的な表現のラディカリズムを追求した。また、同時期に存在した日米安全保障条約改定反対運動や、消費者主義の拡大といった政治的な問題を問う手段としても、中平や森山のストリートフォトは大きな力を持っていた。しかし、沖縄が1972年に本土へ復帰すると政治的な問題意識は急速に冷め、森山大道は深刻なスランプに陥り、中平の表現活動も空回りしていく。それは表現のリアリティの基盤となっていた政治的緊張感そのものが消失したことの現れだった。そして、以降の日本の写真界はプロヴォーク的な政治的緊張を積極的あるいは消極的に排除し、荒木経惟に代表されるエロスと死、私的な日常の断片、都市の欲望といった「個人的なるもの」の詩学へ傾倒する。それはニューヨーク近代美術館の「New Documents」展によって、アメリカのストリートフォトは批評であり社会的異議申し立ての道具から個人的表現へと決定的に転換したことと、驚くほど似通った論理であり、流れだった。
その後、森山大道は「写真時代」でスタイルとしての素粒子、ハイコントラスト、ブレアレボケを再生産するようになり、結局は精神性のない様式だけが残った。にも関わらず「個人の詩学」への転換が批評的外皮をまとっていたこと——荒木に代表される「私写真」は政治的文脈の消失を美学的に昇華したが、その「個人性」はほぼ男性主体のものだ。それは木村伊兵衛賞を受賞したHIROMIXのその後や梅佳代を持て余した二十世紀の話ではなく、現在進行形のブラザーフッドであり、作品を評価するシステムだ。例えば欧州の女性研究者が日本を代表する若手女性写真家として評価する東京るまんどでさえ、公私ともにパートナーの男性によって見出され、それから欧州で再評価された経緯がそれだ。蛇足を承知で書くならば、最近写真評論でも注目を集めている金村修と、彼と二人三脚で活動する編集者のタカザワケンジもまた、男性である。そして、決定的なのは荒木経惟の「ミューズ」として作品モデルとなってきたダンサーのKaoRiが2018年に公表した告発文である。これこそ、撮る権力と撮られる側の納得、あるいは黙認の問題であり、両者の間に権力性があったからこそ、納得の真正性や見えざる強要の有無が問われたのだ。それからさらに半世紀、現在のストリートフォトはライカカルトに代表される富裕層の個人的な趣味であり、同時に迷惑行為を糾弾する社会的圧力は強く、必ずしも法律に基づくとは言えない「規制社会」と、それを回避できるポジションを占める富裕層の権力的欺瞞をもたらしている。この「規制社会」は世界的に広がる傾向で、ストリートフォトグラファーの中には「倫理的な路上写真」を標榜し、規制に迎合するものも現れている。しかし、それは誰が誰を撮るか・誰の許可が必要か・誰の視点が「街」を構成するかという、本質的に政治的な問いを前景化する。その問いこそが、かつてプロヴォークが抱えていた問いの現代的形態だ。あえて言うなら、現代社会において政治と決別した「写真時代」以降の森山大道を賛美しつつ、マージナルな人々にとって年収かそれ以上の金額に相当する高級ブランドのライカセットで撮影しながら、倫理的な路上写真を標榜するのは端的に矛盾であり、自己欺瞞でしかない。
ストリート・フォトグラファーの、路上写真家の名乗りを引き受けるなら、誰が誰を撮るか・誰の許可が必要か・誰の視点が「街」を構成するかといった、本質的に政治的な問いと正面から向き合い、富裕層の玩具に堕した高級カメラを捨て、そして「表現が自らの政治的コンテクストを失ったとき、それはなにであるか」という問い……を現在に接続する知的実践を繰り返すしかないのだ。つまり「誰が街を撮るか」という問いは、権力の問いだ。山谷や豊洲市場に「潜入」して撮影した新納翔の活動に、再検証の必要はまったくないのか? 告発のためなら止むを得ないで関係者との摩擦を切り捨てたのか? あるいは目的を理解したうえでの積極的あるいは消極的な協力関係が存在していたのか? そういう権力性を問わなければならない。
そういった問いを引き受けつつ、女性や様々な在日外国人、セクシュアル・マイノリティなどの写真家たちが、自らの身体と生活空間を自らのカメラで撮るという実践を通して、長年「撮られる側」に置かれてきた主体性を取り戻す試みをいかに評価するか? ケアアートや寄り添いなどという軽い言葉ではなく、当事者性を抱きしめられるのか? 抱きしめているのかが問われる。
デジタル時代におけるストリートフォトの問題は、まさに撮る権力と撮られる側の納得、あるいは黙認との関係なのだろう。






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