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真剣にストリートフォトへ取り組んでいると表明する人物がライカで撮影する違和感について

恐ろしく高価なライカでも、生成する画像情報の比較ではほかのカメラと大差なく、特にソニー撮像素子を使用する機種同士では人間の感覚で判別不能なのは、多くの人々が検証した事実だ。それはRAW処理にとどまらない(ライカの担当者自身がフランスのイベントでRAW処理を否定し、撮って出しを強く推奨している)。レンズについても大差なく、この程度の差でこの価格差と突っ込むのは検証サイトの定番ネタだ。だが、ライカユーザーおよびライカ社は「数値に現れない差が存在する」と主張する。それはあたかも、希少な楽器の奏でる音が、数値に現れないなにかをまとっているかのように。しかし、その「数値に現れない差」とやらが下げているプライスタグの数値は、それで正当化できるのか? 確かに、希少な楽器のいくつかは、信じがたいほどの資産価値を有し、その希少性や価値は、演奏会の集客に寄与するほどだ。しかし、そういう演奏会は基本的に富める人々の娯楽であり、社交の場であり、楽器も含めて庶民と無縁の世界だ。対してライカはシグマと協業のほぼ同じレンズでもライカのバッジをつけて倍の価格に設定し、素人には描写の差がわからないコシナや中華レンズの数倍から十倍の値段をつけている。とはいえ、それがブランドアイテムを誇示する富裕層の戯れというのなら、趣味はともかく個人の自由だ。しかし、ライカはストリートフォトとの結びつきを、その真摯に社会的な問題意識の表明を、頻繁にブランドイメージとして援用する。もちろん、企業戦略の自由はあれど「社会の矛盾を写真という客観的な媒体で抉り出すストリートフォト」のイメージを独占するかのような振る舞いや、数値に現れない魅力を売る踏み台にするのは、どこか居心地の悪さを感じないだろうか? そのイメージを独占するかのようなブランディングは、もしかしたら庶民、あるいは周辺の民が感じる苦境や社会的矛盾を軽んじていないか? 例えば社会の矛盾を追求し、思想の大切さを語る人が、超高級時計を巻いた腕で庶民や周辺の民になにかを訴えたとして、そこに違和感は生じないだろうか? ライカの高級な奢侈品の実態とは裏腹の、客観的な社会正義の追求者というイメージを身にまとって個人の趣味を超えた表現活動の看板に架け替え、違いのわかる通人を気取る。あるいは写真界の巨人たちと肩を並べたかのような幻想に浸る。そんな精神性の象徴であり、庶民の年収に迫るプライスのライカで撮るストリートフォトは、あなたの行為や思想と調和するのだろうか?

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Morihiro Matsushiro ¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!