写真家のまなざしをまなざす思想のまなざし
仏現代思想の「まなざし(le regard)」は単に「見ること」ではなく、多層的かつ複雑な思想の集積なんだけど、日本語における語感から誤用が極めて多い。代表的な誤用は作品から作家の「まなざし」を、つまり心理や思考を逆算するというものだけど、もともとのまなざし論とはもはや無関係なレベルまでこじれている。では、現代思想における「まなざし」とはなにかって話になるけど、これが論者によって全く異なる思想や理論なので、どの系譜かがわからないと話にならない。主要どころだけでも、サルトルの他者による対象化の暴力としての「まなざし」にはじまり、ラカンの「私が世界を見る前に、私はすでに世界に見られている」という順序の逆転。そしてフーコーは権力の内面化装置として「見られているかもしれないという可能性だけで主体は自己規律化すると論じ、さらにメルロ゠ポンティの肉(chair)概念における共通の地平で可逆的に絡み合うものとして捉える「まなざし」では対象化の暴力性より、身体的な相互浸透を強調する。自分の作品はサルトルの対象化の暴力性にはじまり、ラカンをへて、メルロ゠ポンティという三層構造だけど、すでに難解だわな。




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