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立つ鳥跡を濁せず

働いていると、それなりに充実感がある。
汗とともに、悪いものが流れ出ていくかのよう。
持病の痛みと疲労が混ざり合い、快楽物質に変わる。
超回復が起きている。
いや、超回復は起きているが、それより手前で、痛みに対し、肉体、または神経の敷居が上がっている。
痛くなくなっている。

これは気の持ちようではない。
疲労が混ざり合うことにより、明らかに痛みが軽減している。

一方で、どうしてもなくならないものもある。残滓が如く残り続ける。
他人だ。
どうにも人の目が気になる。
人の目が気になる自分がいる。
“他人の中の自分”を意識せざるを得ない。

多くの日本人がそうだろう。
他人の中に自分を置く。
ただその中で、「リベラル」というやつは、“自分は自分”という意地を持つ。その手の素晴らしさという言説を、90年代にどばどばと浴び続けてきた。
従って、「他人の中の自分……いや!」が“右軸足・左ピボット”としてある。
おそらくこれは、個人という以上に世代としての傾向があり、世代間によって差異がある。

澱が溜まるのだ。
澱が溜まる――。
痛みや疲労ではない。
働くことで澱が溜まっていく自分を感じる。
人の目があるからこそ、怠け者でも労働が成るというのは、事実として残念ながらある。
「自由」を求めながら、「不自由」を求めている。
「自由」の手前に、「不自由」という敵がいる――。

ラブ&ピースじゃない。
ラブ&ピースが恥ずかしい。
ずっとずっと恥ずかしい。
四十を越え、なお恥ずかしい。
マイク・タイソンとオリエンタルラジオの中田敦彦。

まだ「Sports Graphic Number(文藝春秋)」を熱心に追っていた頃、ボクシングを特集していた号の中で、当時すでに引退していたか、または元だったか伝説の王者タイソンの記事があり、“タイソンは強靭な精神力を背景にその功績を残してきたわけではなかかった”とする一節を見た。
モハメド・アリとの対比だったか、時代と戦い、社会、または権力と戦い、ジョージ・フォアマンの剛腕を耐え抜いたアリの精神力に対し、タイソンの強さは環境に大きく左右されていると――。
その意味を当てた英単語が何だったかは忘れてしまったが、ボクシングでもボクシングでなくとも、歴史に名を残すトップオブトップのアスリートは、緩まぬ努力を絶えず自身に課し、周りに流されることなく自分を持つことなど当たり前の中の当たり前だ――「中学部活でさえその程度のことには気付くだろ?」――と、容認しづらい記事だった。
ただ、タイソンにとり、カス・ダマトが存命だった頃と後とでは、同じタイソンでもタイソンでないというのが、事実と呼べるまでに定説化している。
ネットが発達した現代において、当時の自分よりタイソンの人物像を濃くイメージ出来ている十代は多いだろう。自分自身、タイソンの全キャリアをつぶさに後追いしたわけでもないのに、“ダマト前後”で、タイソンのキャリアが分断の憂き目を見ているとする批評は、適切だと思っている。
アスリートにおけるキャリアの分断は、一般的に大きな怪我・故障(女性アスリートなら結婚・出産もあるだろう)が大半であるだろうに、トレーナー(コーチ)の死が転落の原因となるのは、弱いという言葉を当てたくはないが、強いという言葉を当てるべき精神力ではなかったのだろう。
環境に引き摺られてしまう人間、及び精神。

「武勇伝」にはさすがに劣るが、中田さんが述べてきた言葉の中で、最も印象に残っている言葉が“大学時代のバイトは、働きに行くというより友達(バイト仲間)に会いに行くような感覚だった”というものがある。
知る人ぞ知る以上には知られているだろう中田さんは、中学生時代“イケている学生”ではなかった。そんな中田さんにとって、大学時代のバイト先が初めての青春だったようで、のちの相方である藤森慎吾さんとも、このバイト先で出会ったらしい(もしくは、一緒に働いていたらしい)。
労働だが労働でない。
学園祭の準備のような――気持ちの話である。

翻って自分は、そういう気持ちで働いてはいない。
日雇い契約における気楽さに浴しながら、楽しいという気持ちだけで働くことはない。働きに向かうことはあり得ない。
羨んでいるのだ。
多分、その発言を目にした当初も、羨んでいたのだろう。
「武勇伝」のその中身はまるで覚えていないくせに、このエピソードは覚えてしまっている。

自分はモハメド・アリではない。
もちろんマイク・タイソンでもない。
ただ、アリかと言えばタイソン寄りだ。
藤森側でなく中田側だ。

はじめからこうなるとわかってたのに
宝物のありかはわかっていたのに

おそろしくいい天気だ わかってたのに
宝物のありかはわかっていたのに

もう1日だけでいい 僕のとなりで笑っていて

最近、適当に諳んじている。
スピッツの「海ねこ」を。
疎覚えだから、まず歌詞は違うだろう。
ただ、独り言みたいなものなので、その辺りのことはどうでもいい。
東京から離れるに辺り、口説こうかと思っていた女性を、ついぞ口説くことさえなかったことに比べれば、どうだっていい。

日雇い労働。
一期一会を重ね掛け。
どの程度、気があったかもわからない。
ただ、四十を過ぎながら、それを気にしていたら先へは進めない。こと自由恋愛を望むのなら不可能だ。
しかし、その辺りのことこそが気になって、後一歩が出なかった。
が、結局、「好き」がよくわからない。
何故口説こうと思ったか――。
やさしかったから。

やさしかったから好き――なのか?
とのことであるようなので、踏み出すこと出来ず。「好き」と言い切れるものならば、結果に拘ることなく口説けただろう。
どうせ東京から離れるのだから――東京から離れようと思っていたくせに。

“コンビニ店員さんがやさしかったから”以上のふれ合いはあったはずだが、恋愛感情、恋人関係に移行していくほどかと考えると読めなかった。
ハラスメントを訴える敷居が低い世代ではなかったはずだが、現代における風潮を意識した。自分の感情――「好き?」――にさえ責任が持てていないのだし。
“どの道、もう会うことはないし”という逃げ道があったくせにもかかわらず。

一人暮らしをしていて、食事は毎日自炊で、個人的に休日のシフトまで知るという流れが、あくまで積み重ねによる断片情報として集まりながら
「たまには外食でもしたら。行く?奢るけど」
を為せなかった。

澱を感じたのならば、食事だけで終わればいいのに。
それさえ我慢出来ないのか――?
澱が溜まるビジョンしか見えない?
澱が溜まるかもしれないことを、相手のせいにしてしまう?

性欲に乏しいから愛情がない。
少なくとも包容力はない。包容力が絶望的にない。
――澱を感じた時に掃いて捨ててしまうかもしれない。
愛情のない自分が、それを態度に出さずにいられるのかな?

はじめからこうなるとわかってたのに
宝物のありかはわかってたのに

おそろしくいい天気だ 寂しそうに
流れていく わた雲を追いかけて行こう

今日一日だけでいい 僕のとなりでうたっていて

スピッツ(草野正宗)/海ねこ

自己愛肥大中。
他人の中の自分。
自分の中の自由。

そう考えると、やはり「好き」という感情ではなかったのだろう。「生きる」という感情ではあったのだけれども。

おっぱい揉みたかったなあ

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