恩返しと自分の生き方と
PTSDと鬱。これらの病とどう向き合うか、これからこの病とどう付き合っていくか。少しでも今までよりも楽に生きられるように、少なくとも自分で自分を苦しめなくて済むように、自分の感じたことや感情、夢、幸せなこと、これからどう生活したいかをロルバーンのお気に入りのノートに書いて書いて書きまくっている。外に出られなかった日、予定があったのにキャンセルしてしまった日、私は「布団からでたくない」と思った。動けなかった。夕方になって少し落ち着いてから私はどうして今日布団からでたくないとおもったんだろうと考えた。今週はそんな日ばかりだったから。直感的にそう思って強い拒否があったのは、きっとやっぱりPTSDが原因なんだろうなと。朝アラームで起きて、外に出る準備をする。外に出て人と会う。話す。そのことを考えると働いていた時のことが思い浮かぶ。今週の予定自体にはストレスを感じるものでなくても、外に出ることで何か怖いことがある。無条件にストレスや恐怖、不安に襲われてしまうことがあるんだとそう分析した。沢山の人の前で吊し上げられるように責め立てられたこと、何を言っても誤解されるばかりで信じてもらえなかったこと、死ぬ気で努力してもなんの評価も得られないどころか過小評価され続け人と目に見えて差をつけられた。仕事も態度も。社会人になってからのことだけではない。信じてもらえなかったことばかりだった。私にしか分からないから違うことを言われても黙って耐えていたこと、私にわかるような陰口、中学の時なんて、なくなって戻ってきた名札には、きもいしねいなくなれと消えないマジックで書いて机の上に置いてあった。私の生きてきたどんな時期もどんな瞬間も自分でいられた時間ってとてもとても少なくて思い出す限り幸せだったことなんて楽しいと思えたことなんて片手で数えられるぐらいしかない。その全てがPTSDの原因であり、「ふとんからでたくない」と思う原因なのだ。
そんな無条件に恐怖を感じてしまう私はこれからどう生きられるのだろう。わたしは何を選んで何を大切にして幸せになったらいいんだろう。
”こう生きたい”という目標は明確にあるものの、それを本当に選べるだけの努力をこれからしていけるのか、そしてそれには優しさを捨てないといけないかもしれなくてそれが私にできるとは思えないんだ。
私はこれからくるであろう、もう軽く認知症になりかかっている祖父母の介護を母だけに任せることはできないし、祖父母の介護が終わる頃にはきっと母の介護の心配だってでてくる。わたしがこう生きたいと思うことを行動するには自分勝手に生きることを選ばなければならない。恩を返したい。その気持ちが強いから、きっと私がこう生きたいのために行動できるのは全てが終わってからなのかなとも思う。でもそれを思うとすこし絶望と諦めの気持ちがでてくる。そんな人生でいいのかなって。
後悔しないために、少しでも幸せな時間や楽しい時間、嬉しい時間を増やしていけるように今はやっぱり向き合うしかないんだと感じる。今月もあと少し、来月の1ヶ月も頑張りどきなんだ。大丈夫と思えている時と休んでいないといられないとき、そういうものを繰り返して良くなっていくんだと先生に言われた通り、自分を責めないトレーニングをしている最中。
がんばるって思ってしまうとどうしても不安と焦りが出てきてしまう。だから頑張るって思わなくてもそんなにストレスに感じなくても大丈夫だよって自分に言い聞かせて最近は夜、眠りにつく。頑張れない日が続いても、そういうものを繰り返して良くなっていくんだよと大丈夫、大丈夫。おまじないのように唱えて落ち着く術を最近身につけ始めたんだ。
私はきっと人生一周目だし、前世はきっとお花だったから人と話すことも人と関係を築くことも苦手なのは当たり前なんだって、そんなツイートを見かけて救われたことがある。私もそう思って生きている。
私は友人がいない。恋人もいない。いなくてもいいと思っている。ひとりで生きていく覚悟もある。人に一度心を開いてしまうとその人だけになってしまうから、依存してしまって相手を苦しめてしまうから窮屈にさせてしまうから、友達になりたいな。連絡とっていたいな。と思う人、本当はいるんだけれど自分からは連絡しないようにしている。連絡が来たら、そんなことは絶対にないんだけれど、もし何かの間違えで連絡が来たら、期待せず落ち着いて長くゆるく関係を連絡を続けられることを一番に考えたい。
来月の22日、私は26歳になる。誕生日を言うと、いい夫婦の日だねとにこにこ言ってもらえることが多くて、それがなんだか嬉しいんだ。歳をとるのは嫌だけど、歳をとることで生きづらさが少しずつマシになるのならそれもいいなって思うんだ
今週、引きこもりがちだったから今日はカフェを2軒はしごしてきた。1件は期間限定の金木犀のミルクティーが飲みたくて。金木犀の香りがとても好きで懐かしい気持ちになって気持ちがとても落ち着いた。(ここでnoteを今書きはじめています。)そして2軒目はよく行くカフェ。メニューはとてもシンプルでコーヒーやエスプレッソがメイン。そこの珈琲がとてもとても好みで冬はとくにカフェモカがとてもいい。カカオの深みと甘み、珈琲としての苦味もしっかりあってホットが飲めるようになったこの季節には頼みがち。今日はカフェラテとコーヒーを頼みました。毎回ついつい2杯目も頼んでしまうほどだいすきなお店です。
最近よく思うのです。書くことが本当にすきだなって。書くことで気持ちが整理されて、病に悩まされてからは自分の感情を分析したりするようになってだいぶ心が楽になる。病気になっていなかったらこんなにも自分を分析して脳内フル活動で自分に向き合うことも忙しさを理由にして、していなかったかもしれない。だから休んでいるこの期間があったからこその結果やこれからに繋がるよう、しっかり向き合い続けたい。
誰かに伝える文章を書くにはまだ未熟で、書いてもこれじゃ伝わらないかなってなんか違うなって思うことばかり。私の言葉と気持ちが合っていなくて何の言葉を選んでも嘘に聞こえてしまう気がしてセンスがないなといつも落ち込む。SNSでもだいすきな推しに伝えたいこと、ラジオのポストなどしていてもコンテンツに合った応援の仕方のほうが喜んでもらえるきがして、私は飲んでいる薬の関係でラジオのリアタイがなかなかできないし、次の日に聴いてポストしていてもありきたりな言葉しかでてこなくてこんなんじゃ伝わらないかって薄っぺらく感じとられるかなってすごく不安に感じることがある。他の方のポストを見ていつも落ち込むんだ。もっとセンスある表現をしたいし、だいすきな推しや私のSNSが目に入った人たちに私の雰囲気が伝わったり、自然に心を動かせるような言葉を使いたい。推しや、見ている人がついいいねを押してしまうようなポストがしたい。そんなSNSの使い方を模索したり、しきりに本を読み漁ったりしている。けれど、誰かの言葉を取り入れすぎるのも良くなくて、私は人の色に染まりやすいから自分の色を他人の色に染めすぎないためにも自分の言葉と心と向き合う時間が毎日一定時間必要なんだと思う。
人の色に染まりやすいのは私の特性。いつか言ってもらえた言葉あって、聡明だって言ってくれた人がいた。こんな私のことを。人の意見や感情が手にとるように分かるし些細な言葉や話し方、行動、語尾そんなものでいろんなことが分かってしまう。そんなことで分かられてたまるかって思われるかもしれないけれど直感が鋭すぎる私はだいたい合っていることがほとんどだ。人といるととくにそんなものが心や頭に無条件に流れ込んできてしまうしだからこそ”自分”が一時的に分からなくなってしまったりする。けれどだからこそ人よりも沢山の感情を知っている気がする。そのたくさんの感情を受け流し上手に生きていくことはとても苦手だけど、私は私なりに一度全てを受け止めてそこから大切なものを忘れないようにしていく作業と、心にあると厄介なものを流していくという作業がスムーズにできるようになればいいなと思うんだ。私は私が嫌いに思うことも沢山あるけれど、特別で誰にもないものを持っているとも思うから大切にしたいとおもう。そう思えたのは私と今関わってくれていたり繋がってくれているひとのおかげです。私は弱いって思われることがほとんどだけれど自分では弱いけど強いんだって思ってます。今までのこと、乗り越えられて今があって、今のことも乗り越えようと進んでてだから大丈夫。沢山人生の普通というなの平凡なレールを踏み外しては自力でまっすぐ戻ってきたんだから。今回だって大丈夫なんだと思う。私は子供の頃から沢山の挫折をして人に傷つけられて、時には傷つけてしまって、一生消えない傷を山ほど作り、惨めに感じてしまっていた人生だった。でも、なにも間違えていないのにどうして惨めに感じるんだろうと思い直せた最近で、ちゃんと前に進めています。地獄をみたからこその”これから”があるはずだって信じて。みんな、ありがとう。
そして、”書くこと”に自信もセンスもないけれどすきだという気持ちだけで、これからもノートやnote、そしてSNSに書いて書いて書きまくろうと思います。”私らしさ”がひしひし伝わるような文章を心がけてそして目標に、心を込めて…”
このnoteの最後に
金木犀のミルクティーと
カフェラテ、珈琲の写真をどうぞ…”



これからも見守ってくれたら嬉しいです。
読んでくれた方、ありがとうございました🌱
