276.食べ物のこと

先日、20代の若者と食べ物の話をしていた時、私が「ハンバーガーを初めて食べたのは中学生の時だった」「しゃぶしゃぶは就職して初めて食べた」と言ったら、「え?! 子どもの頃、ハンバーガーなかったんですか?」と大層驚かれました。

そこで、ふと思いついてその青年に「子どもの頃は知らなかったけれど、大人になってから初めて食べたものってある?」と聞いてみると、彼はしばらくくうを見つめて考えてから、「ないですね。スタバの新商品くらいっすかね!」と笑っていました。

私など、子どもの頃には見たことも聞いたこともなかった食べ物などいくらでもありますが、20代の若者にとっては、スターバックスでさえ、1996年に日本進出しているので、物心ついた頃にはそこにあったという世代なのかと思いました。


ハンバーガー

前にも書いたことがありますが(115.新宿ピカデリー)、中学生の時に、母にエクソシストという当時大ヒットしていた映画に連れて行ってもらった帰りに、私は生まれて初めてマクドナルドでハンバーガーというものを食べました。セルフサービスという「ナウでヤングな雰囲気」を味わいました。

小さい頃、テレビでポパイのアニメを見ていると、太ったおじさん(ウィンピーのことです)がいつもハンバーガーを食べていて、あれはどんな食べ物なんだろうとずっと気になっていました。日本にマクドナルドが第一号店を銀座に出店したのは1971年7月のことでした。

先日、たまたま弟と映画館で観る映画について話をしていたら、弟もエクソシストとマクドナルドのことを覚えていて、1970年代前半の中学生や小学生にとっては、生涯忘れられないほどの出来事だったのかと感じました。

しゃぶしゃぶ

しゃぶしゃぶは、大学を卒業してから1982年に新卒で就職した会社の人たちに連れて行ってもらったのが最初でした。私の家ではすき焼きは子どもの頃からよくやっていましたが、しゃぶしゃぶというのは一度も食卓にのぼったことはありませんでした。私が食べたことがないと言ったので、職場の忘年会でしゃぶしゃぶを食べに連れて行ってくれることになりました。

建て替えられる前の赤坂のTBS会館の地下にあった「ざくろ」というお店でした。いきなり脱線ですが、旧TBS会館にはTop’sというお店も入っていて、就職したばかりの私にとっては憧れのレストランでした。カレーにトッピングが付いていて、これがまた通常の福神漬けやらっきょうのみならず、フライドオニオン、レーズン、チーズなど数種類あって、もうそれだけでご馳走でした。

さらにデザートに胡桃の入ったチョコレートケーキもあって、心の中でクリームがたくさんのっているカドっこがきますようにと願いながら注文していました。仕事帰りに仲間と連れ立ってTop'sに行くのは当時の私にとって贅沢で心ウキウキする時でした。

そんな風にTop'sに行く時に、奥の方により贅沢な雰囲気を醸し出しているのが「ざくろ」でした。唐草模様に囲まれた店名のランプから想像するに高級そうで、Top’sのカレーとケーキが大御馳走の私にとっては、とても自分でお金を払って行けるようなお店ではありませんでした。会社の忘年会ならではの贅沢なお食事会でした。

お店に入ってみると、各テーブルの上には、なんと表現したら良いのかわかりませんが、メキシカンハットのような形をした銅製のお鍋が置いてありました。これはまた奇妙な形だと思いながらも、私は真ん中の筒状になっている部分に、ジンギスカンのように肉を押し当てて焼きながら食べるのかと思いました。

ところが実際に食事が始まると、上司は真ん中の筒状の部分ではなく、周りの凹んだ部分のお湯に牛肉をつけて「こうやって『しゃぶしゃぶ』しながら食べるんだよ」と教えてくれました。では一体この真ん中の筒状の代物は何のために存在しているものなのかと不思議に思いました。

AI検索によれば、しゃぶしゃぶ鍋の真ん中にある筒状のものは、主に熱効率を高めるための『煙突』のような役割を果たしているそうで、これにより、スープの温度が下がりにくく、全体に熱が伝わりやすくなるためなのだそうです。また、熱が筒の方に逃げるため、具材をしゃぶしゃぶする際に手が熱くなるのを防ぐ効果もあるとありました。私は今回初めて知りました。

またAI検索は、昭和30年(1955年)に港区赤坂で創業した「ざくろ」が関東で初めてしゃぶしゃぶを提供したとも教えてくれました。また諸説あるけれど、しゃぶしゃぶと命名したのはミヤコ蝶々であるという説も出てきました。あの時点では、東京にしゃぶしゃぶが登場してからまだ30年も経っていなかったということになります。

最近では、メキシカンハット状態のお鍋を見かけることはほとんどなくなり、食べ放題のカジュアルなお店もあちこちで見かけるようになりました。

納豆

私は東京の西の郊外で育ちましたが、両親は2人とも関西の出身なので子どもの頃、食卓に納豆が出たことはありませんでした。私が初めて納豆というものを見たのは、小学校の修学旅行の朝食ででした。

「これが時々耳にする納豆というものなのか」と感慨深く思いました。周りのみんなと同じようにお箸でぐるぐるとかき混ぜて食べてみましたが「ふーん、こんな味なのか」と思っただけでした。嫌いでも好きでもありませんでしたが、好んで食べたいとは思いませんでした。

1980年頃、大学生の時、最寄りの駅近くに「洋麺屋五右衛門」という和風スパゲティのお店ができて、仲良しの友人と行ったら、メニューに納豆スパゲティというのがあって、友人が「わー、私、納豆、大好物なのー!」と、それを選んだ時私は今でも忘れられないほど驚きました。彼女にとっては、小さな頃から慣れ親しんだ味で、毎日のように食べているということでした。

私の育った家では「納豆」と言えば「甘納豆」を意味していました。私が三十歳くらいの1990年頃、健康ブームがやってきて「体にいいから納豆を食べましょう」と言われるようになって、母は、好きじゃないけど体にいいからと購入するようになり、父は亡くなるまで納豆を口にすることはありませんでした。私も出されれば残さずいただきますが、自分では買うことはありません。

スパゲティ/ドリア

スパゲティと言えば、幼児の頃からマカロニはよく食卓にのぼりましたが、スパゲティというのは、小学校の高学年、つまり1970年代に入ってから食べるようになりました。あの頃、スパゲティというのはミートソースとナポリタンの2種類しかありませんでした。

カルボナーラやボンゴレ、バジリコなどが登場したのは80年前後でした。この頃からなぜかスパゲティはフォークとスプーンを使って食べるようになってきました。後年、イタリアに行った時、誰もスプーンを使っていないのが奇異に思われました。そして、この頃からピラフやドリア、それにピザなども日常的に食べられるようになってきました。

私は、今でも夢でもいいからもう一度食べたいほど忘れられない食べ物があります。それは御茶ノ水駅前のジロー(GIRAUD)というお店のドリアです。私は1978年から1980年代半ばにかけて断続的に御茶ノ水のアテネ・フランセにフランス語を習いに行っていたのですが、その行き帰りに食べたドリアが今も忘れられません。

カレーピラフの上にホワイトソースがかかっていて、銅製の器の縁に沿ってマッシュドポテトがまるでデコレーションケーキを縁取るように搾り出されていました。それをオーブンで熱々にすると、マッシュポテトやホワイトソースの所々に焦げ目がついて、それはそれは美味しそうなドリアでした。

今思い返しても、アテネ・フランセに通っていたのかジローに通っていたのかわからないくらいでした。このドリアをいただきながら感じていたのは「至福の時」という言葉でした。カレーピラフとホワイトソースの絶妙な組み合わせは素晴らしいものでした。ホワイトソースに関しては、自分でも何度も挑戦してみましたが、あの味を再現することはできませんでした。

ジローグループは今では様々な形態でレストラン事業を展開していますが、私の知る限り、御茶ノ水でいただいた、あの懐かしいドリアを見かけることはもうありません。叶うものならば、あの頃のコックさんにあのレシピでもう一度作っていただきたいと思っています。

もんじゃ焼き

もんじゃ焼きは、35歳くらいの頃、つまり阪神大震災やオウム事件のあった1995年に初めて同僚に食べに連れて行ってもらいました。その頃働いていたチームの仲間が下町出身の人が多く、私がもんじゃ焼きを食べたことがないと言うと、大層驚かれて、それはいけない今夜にでもすぐに行かなきゃと、六本木のおしゃれなもんじゃ焼き屋さんに連れて行ってもらいました。

お好み焼きは子どもの頃から家でも外でも何度も食べてきましたが、もんじゃ焼きというのはほとんど聞いたことさえありませんでした。

お店に入って鉄板の前に座り注文すると、店員さんがお好み焼きのような容器に入った具を持ってきてくれました。お好み焼きのタネよりもかなり水分の多い生地でしたが、それをいきなり鉄板にすべてあけてヘラでジャッジャッと炒めると、「こんな風に周りに土手を作ってくださいね」などと言いながらエンゼル型のババロア容器をひっくり返したような形を作りました。

一緒に行った同僚が言うには、自分たちが子どもの頃は十円玉を持って近所の駄菓子屋さんに行くと、店先にある鉄板におばさんがキャベツの切れっぱしが2、3本入った小麦粉を溶いただけの液体を流してくれたものだったから、土手なんて作りようもなく、子どもたちみんなで小さなヘラで鉄板をつついて食べてたんだよということでした。

私が連れて行ってもらったお店では、野菜も魚介類や肉など具がたっぷりと入っている超豪華版のもんじゃ焼きでした。とてもおいしくいただきましたが、同僚たちはどこかちょっと不満そうでした。

お寿司

お寿司は、子どもの頃はお客さんが来た時に出前で取るものというのが我が家にとっての位置付けでした。黒い寿司桶に入った「特上」と呼ばれるお寿司は、普段の親子丼や天ぷら蕎麦の出前とはちょっと格が違っていました。

私の父が若い頃、たまたま入った駅前のカウンターでお寿司を適当に握ってもらったら、ひと月の給料分ほどの料金を請求されたとかで、我が家ではカウンターでお寿司を注文するのはご法度でした。ですから我が家ではお寿司はもっぱら出前でした。

大人になるまで私は回転寿司の存在は知りませんでしたが、これまたAI検索によれば、回転寿司自体は私が生まれる年の前年、1958年に大阪で始まり、70年代に大阪万博などで徐々に認知されるようになり、80年代には都市部を中心に店舗数も増え、90年代には百円均一などで大衆化し、2000年代には、自動給茶装置や寿司ロボットなどの技術革新が行われて行ったようです。

最近の回転寿司は、高級な寿司ネタを注文で握ってもらうというサービスも珍しくなくなりました。私の父はお寿司が大好きでしたから、長生きしてこういうお店でいくらでも握ってもらって、値段など気にせずにお腹いっぱいに食べてもらいたかったと思います。

焼肉

焼肉も子どもの頃は食べたことがありませんでした。昭和40年代、小学生の頃は、お金持ちの家を描写する漫画には、必ずと言っていいほど「鶏の丸焼き」が登場していましたし、「ビフテキ」という言葉にもお金持ちのニオイがしました。小学生の私たちが「鶏の丸焼き」や「ビフテキ」を実際に口にすることはまずありませんでした。

まだまだ多くの日本人にとっては、日常では肉より圧倒的に魚が多く食されていたのだと思います。

焼肉という文化を私が知ったのは、おそらく大学生になった1980年前後のことだったと思います。仲良しの女の子が、彼氏とデートで焼肉店に行ったと聞いて、焼肉ってどんな風にして食べるものなのだろうと思った記憶があります。

それから何年か後に、私が初めて焼肉屋さんに行った時に一番驚いたのは、煙がほとんど出ずに、無煙ロースターに煙が吸い込まれていくことでした。

1988年に、搭乗した大韓航空機が濃霧のために遅延して、ソウルのホテルに一泊したことがあると以前にも書いたことがありますが(074.濃霧と大韓航空)、その時初めて本物のキムチを食べました。それまでは日本の唐辛子で漬けたと思われる火を吹くほど辛いキムチしか食べたことがありませんでした。

このエピソードからも、私自身は1988年頃までは、一度か二度くらいしか焼肉店には行ったことはなく、今の若い人たちのように気軽に足を向けるということはありませんでした。

エスニック料理

大学を卒業して就職してから初めて食べたというお料理もたくさんあります。今、エスニック料理と見出しをつけましたが、今の10代、20代の若者から見れば、普段の食事の一部をなぜわざわざ変な呼び名で呼ぶのだろうと思われるかもしれません。

私は1980年代になって、自分で色んな国に旅行するようになって初めて知った食べ物はたくさんありました。例えば、エジプトで食べたピタパンやモロッコで食べたクスクス。当時日本では見たことも聞いたこともありませんでした。

またベトナム料理の生春巻き、フォー、それにバインミーなどは、パリのベトナム料理屋さんでしか食べたことはありませんでした。(そういえば、1987年にパリのお寿司屋さんで初めてサーモンのお寿司を食べた時には驚いて、外国ではサーモンも寿司ネタにするのかと思いました。日本でサーモンを寿司ネタとして見かけるようになったのは1990年以降のことです)

また1990年代に、シンガポールに出張してシンガポールチキンライスを食べた時にも、こんなにおいしいものがあるのかと驚きました。日本では見たことがなかったので、シンガポールに出張する時は、必ずチキンライスを食べに行きました。今では東京にいればいつでも食べられるようになりました。

2000年代、20代の若い友人と一緒にいた時、彼女がこれから待ち合わせして人物がたまたま共通の知人とわかり、良かったら一緒にと誘われて行った先がタイ料理店の屋台だった時にも驚きました。

その頃の私の感覚では、気軽に友人と待ち合わせするのが屋台ということにまず驚きました。そして彼女たちはガパオライスやパッタイやトムヤンクン、グリーンカレーなどをごく当たり前にオーダーしていて私は内心驚きました。

ナンと一緒に食べるインドカレーも就職してしばらく経ってから知りました。

食生活の変化

このように振り返ると、この半世紀で食生活が大きく変化したと感じます。そもそも、私が小学生くらいまでは、外食をすることは滅多になくて、デパートの最上階のお好み食堂に連れて行ってもらえるのは子どもにとっては最大級に嬉しいことのひとつでした。

外食する機会も大幅に増え、一時期盛んに言われた「食生活の欧米化」どころか「食生活の国際化」を実感します。

私は近代文学を読むのが好きなのですが、戦前の生活描写には「お父さんだけはおかずにお魚がついています」などという描写をよく見かけました。食生活もこの60年ほどで大きく変わったと感じます。野菜の種類も増えました。ブロッコリーなど子どもの頃にはありませんでした。これから気候変動など様々な要因で益々食生活は変化していくことでしょう。

冒頭に出てきた青年が60代になった頃には、一体どんなものを食べていることでしょう。草葉の陰からこっそり覗いてみたいと思います。


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