286.夏の校内合宿

先日、学生時代の友人と話をしていた時、GW最終日に起きた高校生の部活バス事故の話題になりました。大人たちの杜撰な遠征計画で高校生が命を落とすという大変痛ましい事故でした。

事故後に大人たちが責任を押し付け合う様子は、本当に情けないものでした。関係者のみならず、記者会見を見た多くの人々が憤りを覚えました。しかしその背景には、年々増加する部活の遠征にかかる費用を少しでも抑えて、保護者の負担をできるだけ減らしたいという善意があったのだとも言われており、表面的な当事者非難だけでは済まない社会課題があるようです。

この話をしていた時、友人が「私も高校生の時に、セミナーハウスに行って合宿したことを思い出したわ」と言ったので私は大変驚きました。「え? セミナーハウス? そんなもの高校にあったの?」と驚いたのです。友人は都心の私立高校出身で、私の驚きに対しててキョトンとした顔で「え? セミナーハウス、なかったの?」と逆に問い返されました。

私は東京の西の郊外の公立高校に通っていましたが、セミナーハウスなるものは聞いたことすらありませんでした。大学に入学して初めて、大学にはセミナーハウスというしゃれたものがあるのかと思ったくらいでした。

すると友人に「じゃ、部活の夏の合宿はどうしていたの?」と聞かれ、「それはもう普通に校内で合宿だったわよ」と答えると「校内? 学校で?!」と大変驚かれました。お互いに当たり前だと思っていたことが全然異なっていたまま、半世紀近くつきあっていたのでした。

◇ ◇ ◇

私は高校生の時、体操部に入っていました。今日の私からは誰も想像することはできないでしょうが、当時は平均台に段違い平行棒、それに跳馬も跳んで、音楽に合わせて床運動もしていました。

私たちが高校2年生の夏休み中に、ちょうどモントリオールオリンピックが開催されていて、私たちはまさに校内合宿の最中でしたから、顧問の先生が体育館にポータブルテレビを持ち込んでくださって、みんなで体育館の床に車座になってコマネチの、あの10点満点を連発した演技を見ていたことをよく覚えています。

私たちは、コマネチの演技をただうっとり眺めているだけで、同じ体操競技とは思えないような演技の練習をするだけでしたが、コマネチの演技に影響されてみんな人が変わったように真剣に練習したものでした。以前にも書いたことがありますが(五輪の思い出)、後に漫才ブームが起きて、コマネチが漫才のネタにされた時は、私は自分の青春の思い出までが穢されたようで悲しい思いをしました。

あの合宿では体育館の天井から吊り下がっている太いロープの早登り競争がありました。子どもの頃からお転婆だった私はいち早くロープに飛びつき登り始め、あっという間に天井まで登り切って一等賞だと喜んだのも束の間、天井から皆んなが声援送ってくれる下を見たら、その時初めて自分が途方もなく高いところにいることに気づき怖気づきました。今もあの時の光景がスナップショットのように瞼の裏に残っています。

さて、その合宿ですが、もはや半世紀も前のことであり、詳細までは覚えていませんが、大方は次のようなものでした。

期間は、約一週間。モントリオールオリンピックの開催期間が1976年7月17日から8月1日だったことを考えると、私たちが2年生の時の体操部の合宿は夏休みに入ってすぐの7月に行われたものと思われます。

校内合宿は何回かに分けて行われ、最初の一週間は体操部と陸上部とテニス部、次の一週間はバスケットボール部と剣道部とバンドボール部、さらにその次の一週間は…というような具合っだったように思います。同じ体育館を使用する体操部、バレー部、卓球部などが同期間に重ならないように、また校庭や武道室も利用部同士が重ならないように調整した覚えがあります。

夜、寝るのは、家庭科の授業で使用する「被服室」でした。被服室には洋裁や和裁ができるような大きな机があったので、それを全部教室の後ろ半分に隙間なく寄せて、その上に貸布団屋さんから届いた布団を敷き詰めるのでした。その上に、各自家から持ってきたシーツを敷き、タオルケットかバスタオル(これも持参?)をお腹に掛けて寝るという、いわゆる雑魚寝でした。

私が高校生活を送った1975年から1978年には、公立高校には職員室も含めてエアコンなどという冷房装置はありませんでしたから、窓は開けっ放しで寝ました。網戸は当然なく、多分、一晩中窓のそばに蚊取り線香でも焚いていたのだと思います。

そう言えば、被服室には女子生徒しかいませんでしたから、男子生徒はまた別の部屋だったのでしょう。そこの記憶は欠落しています。被服室は女子生徒ばかりで、普段あまり交流のなかった他の学年やクラス、それに他の部活の生徒とも親しくなりました。

食事は、これまた家庭科で使う「調理室」でカレーを始め、豚汁やら野菜炒めやらを作って食べました。大釜でご飯を大量に炊き、出来上がったものは、中庭のようなところで顧問の先生や男子生徒も一緒になって食べました。朝やお昼はどうしたのか、記憶が抜けています。買い出しの記憶もありません。メモでも残っていれば良いのですが、残念ながらありません。

お風呂はどうしたかというと、それは日が完全に落ち切って真っ暗になってから入る「夜のプール」でした。高校のプールには、お湯などというものはなく、ただ単に冷たい水の出るシャワーと、プールそのものしかありませんでした。そして驚くべきことに更衣室を含むプールには「電気設備」が皆無だったのです。それはドライヤーのためのコンセントがないというようなことではなく、明かりそのものがないのでした。

私たちは、夜、真っ暗闇の中、手探りで更衣室へ入って行って、汗に塗れた体操着を脱ぐと裸になって水のシャワーを浴びるのでした。シャンプーもリンスも石鹸すらありませんでした。誰も持って来てはいませんでしたが、そもそもシャワーの蛇口がどこにあるのかも見えない真っ暗闇の中の手探りなので、仮に石鹸があったにせよ、使いようがなかったと思います。

1年生の時は、みんなおっかなびっくり状態でしたが、2年生ともなると真っ暗なプールに入って、適当に泳いでいました。私の記憶では、素っ裸でプールに入ったと思うのですが、それを友人に話したら、男子が覗いているかもしれないのだから、いくら真っ暗闇とは言え水着くらいは着ていたのじゃないか言われました。

確かにお説ごもっともで、いくら真っ暗闇とは言え月明かりくらいはあっただろうから素っ裸ではなかったに違いないというのもその通りだとは思うのですが、私の記憶の中には、一糸纏わぬ姿で夜のプールを泳ぐ快感が刻みつけられています。

昼間は、冷房装置の一切ない蒸し風呂のような体育館で、朝から演技の練習をして汗だくになり、家庭科の調理室で自分たちで調理して食事を作り、お湯の出ないプールの水シャワーで体の汗を流したり、冷たいプールで泳ぎ、夜は窓を開け放した「被服室」で雑魚寝という生活を一週間送るというのが我々の校内合宿でした。

初日、2日目は汗まみれで不快なのですが、3日経ち、4日経ち、5日も経つうちに、体そのものが段々とこのような状態に馴染んでいくのが自分でも不思議に感じられました。私は食事のメニューや男子がどの部屋に泊まっていたかなどはすっかり記憶から落ちてしまいましたが、この汗まみれの状態で髪もシャンプーをしないでいるというのに、次第に不快感が薄れていく不思議な感覚は今も忘れることはありません。

一週間の合宿が終わって帰宅し、家のお風呂に入り、シャンプーをして体を石鹸で洗うと、原始人から文明人に変化した感覚に包まれたこともよく覚えています。その時に感じたのは、私は一週間でこの生活は終わってしまったけれど、少し前の時代までは、一週間や二週間くらいの体を洗わないでいるなんていう生活は、決して珍しくはなかったのだろうということでした。

私たちの頃は、毎年合宿の時には卒業生が、ジュースやお菓子を持って訪ねて来てくれるという不文律があり、私も卒業してから数年くらいは手土産を持って高校を訪ね、先輩風を吹かせて後輩を鼓舞していました。

今日、このような校内合宿をしたらあちこちから苦情が噴出しそうですが、あの頃は私たちはこれが当たり前だと思っていて、費用もあまりかからない年に一度のこの合宿を楽しみにしていました。夜のプールすら文句を言いながらも楽しい思い出になっています。


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