273.女ひとり旅

「自分へのご褒美にお薦めの宿特集」とか「女性リフレッシュひとり旅」という広告を時々目にするようになりました。私にはちょっと手が出ないというような高級旅館もあれば、あ、ここ前に泊まったことあるというお手軽ホテルまで様々なプランが目白押しです。

このような広告を見るたびに、私は時代が変わったと感じています。

私がひとり旅を始めた1980年代後半、つまり昭和60年代、私がひとり旅をしているというと多くの人に驚かれたものでした。その代表的なリアクションとしては「女ひとり旅って、自殺すると思われて泊めてくれないんじゃないの?」「夜、ひとりで寝るの怖くないの?」「ひとりじゃ寂しくない?」「ひとりで旅をするなんて、周りから憐れまれるんじゃない?」などでした。

令和の世になって、ひとり旅をする女性にこのような言葉を投げられることはもうないでしょう。高級ホテルでエステ三昧を計画している20代、30代の女性に、かつては「女ひとり旅=自殺志願者」と思われていたのだと話しても、にわかには信じてもらえないかもしれません。

◇ ◇ ◇

私は高校生までは家族旅行しかしたことがありませんでしたが、大学生になるとゼミ合宿や友人たちと旅行をするようになりました。それでも行動範囲は限られていて、大学のセミナーハウスがある軽井沢、伊豆半島、それにせいぜい箱根や房総半島といった首都圏ばかりでした。旅行とは何週間も前からちゃんと予約して、家族や友人たちと行くものだと思い込んでいました。

それが変わったのは、1985年から1年間、フランスに住んでいた時に、あちこちフランス国内を旅行してからのことでした。当時、フランス語会話の初級編に、「今夜泊まる部屋はありますか?」「バスタブの付いている部屋かシャワーのある部屋はありますか?」「その部屋を見せてもらえますか?」という例文があって、実際にこの例文を言うと、本当に泊まれることがわかりました。

帰国してから、フランスでうまくいくのなら、国内でもきっとうまくいくに違いないと思って早速あちこちへ出かけていき、この例文を日本語にしてそのまま使うと、ほとんど場合、まったく問題なくその日の宿を取ることができました。

私は司馬遼太郎の本が好きで、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」などを読んでは、「幕末追っかけ旅行」と名付けて、長州藩、会津藩、土佐藩などのゆかりの地をあちこちまわっていました。百年以上も昔の人を追っかけするなど滑稽なこととは重々承知していましたが、近代日本の礎を作った人々の足跡を歩くことは私にとっては大変意義深く感じられました。

当時はインターネットがなかったので、あらかじめ当地の観光案内所に電話で問い合わせすると、あまり本数のない電車やバスの時刻表や地図、宿泊施設一覧表を郵便で送ってくれたものでした。またよく旅行社の窓口で、担当者と額を突き合わせながら、時刻表片手に便利でお得な周遊券を作ってもらいました。

下調べをするのもワクワクしたし、現地を歩くのも楽しくてたまりませんでした。フランスでは大体二つ星ホテルをめどにしていましたから、国内でも当時、七、ハ千円くらいの宿を探してあらかじめ電話予約したり、当日訪ねて行って泊めてもらいました。

当時は私も二十代でしたから、朝6時には起きて、一番早い時間に朝食を取ると8時過ぎにはチェックアウトして、終日、ひたすら歩き回りました。タクシーなどもってのほかで、バス代さえ節約しながらせっせと歩いていました。夕方くたびれて宿に入ると、お風呂に入って、仲居さんに土地の名物の話などをお聞きしながら夕食を取り、18時53分からの天気予報を見たらバタンキューと眠りました。

あの頃から各地にはボランティアガイドの方々がいらっしゃって、前日や当日の予約でも、お城や街並みを案内してくださる仕組みがありました。ガイドさんはかつて学校の先生をしておられた方々が多く、私はあちこちで元校長先生だったという方に案内していただきましたが、深い知識とわかりやすい説明、それにこちらの質問に的確にお答えいただき、今もお顔を思い浮かべることができます。

私にとってひとり旅は、その地をじっくり歩くことのできる何よりの旅の形態です。宿の仲居さん、ガイドさん、お店の方々とあちこちで少しずつ会話することによって、その土地が自分の中で形作られていくような喜びがありました。たまたま道連れになった同じような旅人との情報交換も思い出に残っています。

国内外を問わず、ひとりで旅した場所のことは、工程や些細なことまでも印象深く覚えています。友人家族と行った旅行では、とても楽しいひと時を過ごしたとして記憶されることが多く、行程などいつのまにかすっかり忘れてしまいます。

友人や家族と一緒の時は、同行者同士で世界がひとつ出来上がっていて、それは大抵外界に対して閉じているのですが、ひとりの時は、その土地の自然や人々、それにすべての事象に対して自分自身が開かれているような感覚になります。ひとりだと旅先で色々と声をかけられ、直に土地と触れ合っているのを感じます。

一例を挙げると「幕末追っかけ旅行」の「長州編」をやっていた時、萩の町外れにある久坂玄瑞のお墓に行った帰りに突然大雪となり、これは困ったとオロオロしていたら「どうしたの?」と地元のおばさんが運転する軽トラックが止まってくれて、町の中心部まで送ってもらったことがありました。まるで宝物のような思い出が積み重なっていくのがひとり旅の醍醐味だと感じています。

家族や友人という旅はもちろん楽しいのですが、久坂玄瑞のお墓に行きたいとか高杉晋作の足跡を追いかけて四国の多度津から琴平まで回りたいなどという友人は、なかなか簡単には見つけられません。京都においても、私は少々値が張っても旅館「幾松」(現在は閉館)にどうしても泊まりたいと願っていました。

桂小五郎(のちの木戸孝允)が、後年、妻とする芸妓幾松と共に暮らしたという屋敷が旅館になっていて、宿泊客に限り、新撰組からの襲撃から身を隠すための隠し扉や鴨川への抜け道などを公開するという企画があって、是非ともこの忍者屋敷のような建物を見たいと私としては奮発して泊まりました。このように行程も費用も好きなように計画できる旅を満喫するにはひとり旅が一番でした。

◇ ◇ ◇

そんな私に周囲の人々は、冒頭に書いたようにあれこれと声をかけてきました。

まず「女ひとり旅って、自殺すると思われて泊めてくれないんじゃないの?」というのは、ひとり旅をすると言うと必ず言われた台詞でした。いつ頃から何がきっかけでこのような言説が出回ったのか、一度調べてみたいと思いつつ、今日まできてしまいました。

私の経験では、これまで数知れずのホテル旅館に宿泊してきましたが、ひとり旅だと告げて断られたのは、一軒だけでした。それは飛騨高山にあるお手軽な旅館でしたが「申し訳ないけれど、お一人様はお断りしています」と言われました。自殺志願者だと思われたのか、あるいは一人では効率が悪いので男女問わず断られたのかは不明でしたが、次に電話した旅館では快く受け入れてもらえました。

次に「夜、ひとりで寝るなんて怖くないの?」というのもよく聞かれました。

「女性は誰かに庇護される弱い存在であらねばならない」という当時の社会通念が背景にあったように私は感じていました。その頃私はまだ二十代で、ひとりで出張させてもらえるような責任ある仕事は任せてはもらってはいませんでしたが、こんなことを口にしているようでは、将来、出張の機会などがあったとしても、みすみすそれを逃してしまうのにと感じていました。

これはひとり旅に限らず「私はひとりでは喫茶店に入れない」「私はひとりで外食なんてできない」というように、自立していないことがあたかも「美徳」であるかのような表現を時々耳にしました。もしも男性が「僕はひとりで外食ができない」や「僕は怖いからひとりで寝られない」と言ったら笑われたでしょうが、女性は自ら、自分はそのような存在だと「アピール」していました。

当時、その方が「女性としての価値」が上がると男女共に考えていたのだろうと思います。私は、女性も男性も、人は経済的にも精神的にも自立することが大切だと感じていましたが、多くの女性が結婚や出産を機に退職していました。私から見ると、経済的自立を手放してしまったら、精神的自立も失なってしまうように感じられ、もったいないと思っていました。

「ひとりじゃ寂しくない?」 私自身は先に述べたように、寂しいどころかワクワクの連続でしたが、美しい景色やおいしいものを共感し合えないことが寂しいと思う人は、男女共に一定数いるのだと思いました。私も特に明確な目的を持って旅をするというのではなく、のんびり温泉旅行でもとなったら、やはり家族や友人と一緒の方が楽しいだろうと思うし、実際にそうしています。

「ひとりで旅をするなんて、周りから憐れまれるんじゃない?」というのは、他者に対してそのように思ったことが一度もない私にとっては驚きの発言ですが、一度ならず何度も同じような発言を耳にしたことがあります。私は友人や家族と一緒に旅行していても、ひとり旅の人を見かけると、仲間といる私よりもワクワクしているかもしれないと思うことがしばしばあります。

◇ ◇ ◇

このように、今から40年くらい前には、女ひとり旅は珍しいことだと捉えられていたと私は感じていましたが、随分あとになって、民俗学者の宮本常一の本を読んだ時に、ある種の衝撃を受けました。

今では岩波文庫に収録されている宮本常一の『忘れられた日本人』には、1959年に発表された「女の世間」という章があって、ここには各地を旅をする女たちの姿がイキイキと描かれています。この本は、民俗学者の宮本常一が全国各地の農村漁村を歩いて、土地の風俗について聞いてまわったことが収録されています。

ところで脱線ですが、私は長い間最も好きな言葉のひとつが「風俗」という言葉でした。「風俗」という文字を見聞きすると勝手に心がウキウキしてきて、世界各国の様々な民族、国内でも様々な地方に住む人々の気候や地形に合わせた知恵と工夫による風習や行事が浮かんできて、心がときめいたものでした。

それが、1984年に大改正された略称「風俗営業法」を機会に、「風俗」と言えば「性風俗」を意味するようになり、私はなぜよりによって「風俗」という言葉が選ばれたのかと、大変残念に思ってきました。(脱線終わります)

この宮本常一の聞き取りによれば、女ひとり旅、あるいは同じ地域の女同士で、あちこち旅しているのが次のように描かれています。

 「はァ、昔にゃァ世間を知らん娘は嫁にもらいてがのうての、あれは竈の前行儀しか知らんちうて、世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけにのう、わしゃ十九の年に四国をまわったことがありました。十八の年に長わずらいをして、やっと元気になったら、四国でもまわったら元気になろうってすすめられて、女の友達三人ほどで出かけた事がありました。(中略)
 はァ、女の組はわしらばかりでなく、ずいぶんよけいまいておりました。まいているのは豊後の国の者が多うて、わしら道々何ぼ組も豊後の女衆にあいました。つい道連になって、あんたはどちらでありますかってきいてみると、「豊後の姫島であります」とか豊後のどこそこでありますと言うて、お互に名乗りおうて、それからは二、三日いっしょにあるく。そのうちに何かの都合ではなれて、ほかの組といっしょになるというように​。​わしら金も持っておらんので、阿波の国と土佐の国の境まであるいて、また戻って来ました。金をもっておらんので船へ乗ることはできませだった。歩く分には宿には困る事はありませだった。どこにも気安うにとめてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食うものも十分にありました。お接待というのは親兄弟が死んだようなとき、供養のために、遍路に食うものを持って来て施しをしよりました。そりゃ方々から来ていたもんで、宇和島の方へは豊後からたくさん来ておりました。お寺の境内に置座の上に物をおいて、「豊後の国どこそこの者であります。お接待じゃけえうけて下され」ちうて遍路に皆くれます。三津ケ浜のあたりは周防の国からよけえ行っておりました。食うものがなくなれば、和讃や詠歌をあげてもらいものをして、家を出るときは二円じゃったか持って出たのが、戻るときには五円にふえておりましたで」
 「食うものばかりではなかったんですのう」
 「はあい、いろんなものをくれました。伊予の山の中では娘をもろうてくれんかと言われて……何をさせて使うてくれてもかまわん。食わして大きうしてくれさえしたらええと言うておりました。よっぽど暮しに困っておりましっろう。遍路の中にも子供の手をひいてあるいているのがたくさんおりました。たいがいはもらい子じゃったようであります。この方にも昔は伊予からもらうて来た子供がよけえおりましての。十人も二十人もいた事があります。中には買うて来た子もいたが、たいがいは親がよう育てんからもろうてくれといわれてもろうて来たもんであります」
 「叔母さんらのつれは大てい四国をまわりましっろか」
 「まわりましたのう、四国をまわらんものは出雲へ行きました。これは十日あまりの旅で、そう長うもなく、途中には大島郡の者の定宿もあったという事であります」
 「それでも旅は苦労の多いもんでありましっろ​」​
 「はァ、そりゃ今にくらべれば、つろうもあったが、それでも旅をせにゃあならんことにして、したもんでごいすから、それほどでもなかったんで、そりゃ今の旅は極楽じゃが​」

宮本常一著『忘れられた日本人』岩波文庫(以下同じ)

このような調子で、宮本の故郷の山口県の周防大島で聞き取った話が展開していきます。

 「昔の旅のたのしみは何でありましっろうか」
 「はァ、道づれでありましっろうの。歩いていると、ひとりでに連れができてそれで気安うなって​」
​  「夫婦になったりする者もありましたろう」
 「はァい、ありましたのう、あんたは知ってじゃろうが、この西に二宮という家があって、あそこに旅から来た婿がおりました。丹後の宮津の者じゃというて! あれは出雲へまいる途中でねんごろになったという事でありました」
 「女の旅は物参りが多かったんでごいしょうか」

このあと、物参りのみならず、綿つみや稲刈りなどの働きに出た女たちの話も続きます。さらに、逃げ出した娘の話もありました。

 昔は、若い娘たちはよくにげ出した。父親が何にも知らない間にたいていは母親としめしあわせて、すでに旅へ出ている朋輩をたよって出ていくのである。娘たちは盆、正月になると戻って来る者が多い。その時しめしあわせておく。藩政時代には萩の城下へ行く者が多かったが、一方船便を利用して伊予の松山へ行く者も少くなかった。そうして逃げ出した一人の娘がいた。帆船へ便をかりての事で、うまく家は出たのだが、大島のすぐ東にある津和地島まで行って逆風にあってどうしても伊予地へわたる事ができない。とうとう一月も滞在して、船はかえることになった。娘もそのまままた戻って来なければならなかった。せっかく伊予で下女奉公しようとしたのに残念でたまらない。旅へ出ていき、旅の文化を身につけて来て、島の人にひけらかすのが、女たちにとっては一つのほこりなのに、その娘はたった一ヵ月で津和地から引きかえさなければならなかった。

本書では「娘たちは旅に出て他郷の言葉を身につけたりして、島の者の持っていない知識をもっていることを誇りにした」などとあります。

21世紀の今日では子どもをもらってくるなどという考えられない旅などが紹介されていますが、この章は、当時80代の女性たちに聞き取りをして、私の生まれた1959年に雑誌「民話」と「読書新聞」の発表されています。彼女たちは概ね明治初年頃の生まれであり、語られた風俗は明治、大正、昭和前期の頃のものだったと思われます。

この「女の世間」と名付けられた章は「田植のときは女の方がえろうてのう、男を追うのが面白かった。男が甲斐性なしで苗とりがはかどらずに、あんまり人手をかりると、今度は早乙女がドベ(泥)を持ってのう、手伝いの男にぶちかけて、しまいには田の中へ突込んだりしたもんで」​という勇ましいインタビューで始まり、最後は「夜這い」のエロ話で終わります。

彼は「女たちのこうした話は田植の時にとくに多い。田植歌の中にもセックスをうたったものがまた多かった。作物の生産と、人間の生殖を連想する風は昔からあった。正月の初田植の行事に性的な仕草をともなうものがきわめて多いが、田植の時のエロばなしはそうした行事の残存とも見られるのである。そして田植の時などに、その話の中心になるのは大てい元気のよい四十前後の女である。若い女たちにはいささかつよすぎるようだが話そのものは健康である」と書きます。

さらに「無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している」とし、締めくくりは著者の「女たちのはなしをきいていて、エロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている。何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである」という言葉で終わります。

私たちが古くからのしきたりや常識だと思い込んでいたことが、実はほんの数十年、せいぜい百年程度の歴史しかなかったということは他にもたくさんありますが、女性は自立していないことが美徳であるとか、女ひとり旅をする者は自殺志願者であるとかいう言説もいつどうやって出来上がってきたのかと不思議に思います。

◇ ◇ ◇

2001年には岩下久美子著「おひとりさま」が、2007年7月には75万部のベストセラーとなった『おひとりさまの老後』が出版され、2009年にはTBSテレビドラマ「おひとりさま」が放映され、2019年には朝井麻由美著『ソロ活女子のススメ』が出版されて2021年テレビ東京でドラマ化されました。女ひとりで活動することに市民権が与えられ、「女ひとり旅」の社会的認知度も変化してきたようです。

一方、私自身も変化しつつあります。今では六十代も半ばを過ぎ、とても朝から夕方まで終日歩きっぱなしというような旅はできなくなりました。短い距離でも体力温存のためにタクシーに乗ったり、駅から遠い風情のある旅館よりも駅ビル内のホテルを選んだり、最初の宿泊施設にあらかじめ宅急便で荷物を送っておき、初日から手ぶらで観光したりとより安楽な旅をするようになってきました。

昨日と今日の間には大きな違いがあるとは思わないものの、十年、五十年、百年と経つうちに、人々のものの考えや常識はすっかり変わってしまいます。私が子どもの頃は、旅行といえば社員旅行や町内会主催の団体旅行が多かったようですが、今日ではそのような旅行はほとんど見かけなくなりました。

今後、女ひとり旅がどのように変化していくのか、密かに楽しみにしています。


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