288.1980年のプールバイト
1980年。あの年は記録的な冷夏でした。全国の多くの地域で、例年に比べて平均気温が2〜4度ほど低く、日照時間も6割ほどで、降水量は2倍でした。農作物の被害総額は7千億円近くに及びました(気象庁のサマリーはこちら、福岡管区気象台による詳細なレポートはこちら)。
私はこの年とその翌年に、近所の市営プールでアルバイトをしていたので、あの寒かった夏のことが忘れられません。大学3年生と4年生の夏でした。
気象庁のサイトで過去の気温を調べてみたら、1980年の東京都の8月の日最高気温の月平均値は26.6度で、日平均気温の月平均値は23.4度でした。ちなみに、この直近3年間の東京都の8月の日最高気温の月平均値は、2023=34.3度、2024=33.6度、2025=34.4度、日平均気温の月平均値は、2023=29.2度、2024=29.0度、2025=29.6度です。
私が生まれた1959年から昨年2025年までの67年間の内、東京都の8月の日最高気温の月平均値が30度に届かなかったのは6年だけでした。67年間の内、61年は30度を超えていたのです。(1976=29.1度、1977=28.4度、1980=26.6度、1991=29.1度、1993=28.0度、2003年=29.5度)中でも1980年は26.6度と著しく気温の低い年となりました。
この冷夏の印象があまりにも強かったため、その後も、1991年、1993年、2003年など、寒かった夏には敏感になり、私は、21世紀になってからも地球温暖化現象が「温室効果ガスの増加である」という説がなかなか受け入れられませんでした。もしも化石燃料が原因ならば、なぜ1980年のような極端な冷夏の夏が訪れるのか、太陽の黒点運動など何か他の要因があるのではないかとあれこれ思いを巡らせていたのでした。
今では、地球温暖化の最大の原因は「温室効果ガスの増加」であり、化石燃料の大量消費、森林の伐採、家畜に飼料よるものであるという説を疑うことはありませんが、それにしてもあの夏を思い出すと、気象の特異年というのは確かにあるのだと感じています。
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プールでアルバイトすることになったきっかけは、中学生の頃から仲良しだった4人組の1人が「地元に今年から市営の屋外プールができるらしい、そこで監視員のアルバイトを募集しているという話だ」という情報をどこからか仕入れてきたことでした。私たちは東京の西の郊外に住んでいました。
その建設中の屋外プールというのは、私の家から徒歩10分もかからない所でしたから、二つ返事でアルバイトをすることに決めました。仲良し4人組の内、ひとりは短大だったのでこの時はもう就職していたので、残りの3人で一緒に応募しました。
夏休みのプール。口にするだけでワクワクしました。早速応募して、私たち3人は無事にアルバイトが決まりました。もう記録も残っていませんが、アルバイト代は9:30〜18:30(休憩1時間)で、日給が3,600円か3,800円だったように記憶しています。お給料は、振り込みではなく封筒で手渡しでした。
集まったアルバイト学生は全員で十数名ほどいたと思います。男女の内訳はほぼ半々でした。確か、男子学生は監視員、女子学生は受付事務という名目の募集でした。監視員と言っても、あの当時、応募してきたメンバーで日本赤十字社の「水上安全法救助員」などの特別な資格を持った応募者はおらず、みんな普通の大学生でした。高校生も数名いました。
実際に顔合わせしてみると、直接の知り合いではなくとも、中学の同級生の進学先の高校での同級生だったり、友だちの友だちという人物ばかりでその日のうちにみんな仲良くなりました。
市の担当者は、佐々木さん(仮名です)といって、髪を七三に分け、銀縁のメガネという出立ちの、いかにも「ザ・公務員」という人物でした。我々アルバイト学生一同は、この佐々木さんの指示にしたがってひと夏の市営プールの運営をしていくことになりました。
佐々木さんは笑顔が優しく穏やか人柄でしたが、私たちがおしゃべりばかりしているので、よく「はい、はい、ちょっといいですか? 説明しまーす」と大声を張り上げていました。彼はたった一人で遊び半分の大学生十数名を束ねていかなければならないので、大変だったと思います。まだ小さなお嬢さんのいる三十代の公務員でした。市役所から軽自動車で通っていました。
プールの仕事の一つに、時間を決めて水質を確認し、定期的に除菌をするという仕事がありますが、佐々木さんは、この除菌がいかに大切な仕事なのかを我々に何度も説明をしたので、佐々木さんには「ササキン(佐々菌)」とあだ名がすぐに付き、ひと夏いえ翌年の夏も皆から「ササキン、ササキン」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。
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さて、アルバイト学生の仕事は、水質検査と除菌、そしてプールサイドの掃除、ビート板などの整理整頓、そして監視と受付業務でした。市営プールは屋外にあって、25mのプールと浅い小さな子ども用のプールがありました。私たちは、プールサイドをデッキブラシでこすったり、ロッカールームを整理整頓したり、入場券の自動販売機に小銭を補充したりして、10時の開場に備えました。
プール自体は7月上旬から始まりました。土日には大勢の子どもたちがやってきて歓声を上げました。子どもたちは、プールが見えるとそれが合図のように必ず駆け出してきます。腰に浮き輪をつけて、あるいはバスタオルをマントのように翻しながら声をあげて駆けてくるのです。
いきなり入り口の入場券の自動販売機が故障して手売りで入場券を販売したり、ロッカールームでは戻ってくるはずの10円玉が戻ってこないと騒ぎになったりしました。当時はゴーグルは割れたら危ないので禁止というルールになっていて、それはおかしいとクレームをつけてくる大人も子どもも大勢いました。私たちの多くも疑問に思っていたルールでしたが、その説明に追われました。
ササキンは、市役所や業者との電話応対にかかりきりとなり、我々学生アルバイトもあちこち走り回っているうちに一日が終わるという忙しさでした。
滑り出しはこのような感じでしたが、本番はやはり夏休みが始まってからだと皆んな心構えをしていました。きっと連日、大勢の子どもたちが列をなしてやってきて、毎日毎日てんてこ舞いの日々が続くことになる、私たちは皆そのように覚悟していました。
ところが、7月の始めはそこそこのお天気でしたが、いよいよ夏休みとなった途端、毎日毎日そぼ降る雨が続いたのでした。
日によっては朝から雨がザーザーとプールに降り注ぎ、プールの水よりも雨水の量の方が多くなったかもしれないと思う日もありました。プールは開店休業状態が続きました。
たまに雨が上がって子どもたちがやってくることがあっても、濡れそぼったテントの下に集うのは、唇を紫色に染めて震えているわずかな子どもたちの姿でした。
記憶が曖昧ですが、プールの水温が25度(もしかすると22度?)に届かない時には、プールの営業自体をやめるという規則もあり、アルバイトに行ったものの、今日は休みという日もありました。それほど寒い夏でした。
私たちアルバイト学生には、プールのマークのついたTシャツに短パンが支給されていました。しかし、あまりにも寒いので、みんな上から思い思いのトレーナーやヨットパーカーを着て、長いジャージを履いていました。足元はビーチサンダルでしたので、鼻緒があるので靴下が履けずに困りました。とにかく寒い夏でした。
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それでも、たまに晴れ上がるとプールには子どもたちの歓声が上がり、私たちも忙しくなりました。
プールでの出来事はたくさんあって、とてもここには書ききれませんが、思い出すいくつかのエピソードを書いてみようと思います。
例えば、明らかに中学生の男子生徒が、入場券自動販売機前のベンチに腰掛けて、これ見よがしにぷかぷかと煙草を吸い出すという「事件」もありました。この時は、監視員をしている仲間が数人でここで煙草を吸ってはいけないと説得しましたが、もちろんやめるわけはありません。彼はわざわざここに来て、一番目立つ場所で煙草を吸って注意されたがっていたのですから。
ササキンが登場して、名前と自宅の電話番号を言いなさいと言ったら、彼は素直に告げました。事務所でササキンが電話をかけたら、彼のお母さんが出ました。事情を話すと「うちの子のことは諦めてますから、放っておいてください」と言って電話を切られました。私もその時事務所にいました。
次に中学校の名前も聞いて電話をかけました。同じように「学校では対応できないから、そちらでなんとかしてください」という返答でした。その喫煙中学生は、きっと寂しかったのだと思います。誰かに本気になって向き合って叱ってもらいたかったのでしょう。私はただ少年を見つめるだけでした。彼は時々やってきて、煙草を数本吸って帰っていきました。
プールが始まってすぐに思わぬ反響がありました。それはプールのすぐ近くにお住まいのお宅からの苦情で、今年突然プールができて、大声で騒ぐ子どもたちの声で、家で療養中の病人が眠れなくなってしまったというものでした。ササキンや市がどのように対応したのかは覚えていませんが、後に公園の騒音が社会問題となった時、私が最初に接した騒音問題はこのプールだったと思いました。
忘れられないのは自閉症の中学生くらいの男の子がよくやってきたことです。彼はプールの入り口で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、自動車の車種と会社の名前を次々に口にしました。彼は皆んなからマーくん(仮名です)と親しみを込めて呼ばれていました。
彼は周囲と言葉ではうまくコミュニケーションを取ることはできませんでしたが、独特の仕草をしながら、ぴょんぴょんと跳ね、車の名前を私たちに教えてくれました。マーくんはプールの雰囲気がとても気に入っているようでした。開場前から私たちを待っていて、私たちの姿を見ると駆け寄って来て車の名前を教えてくれることもありました。
後年、ダスティン・ホフマンが演じた「レインマン」という映画を観た時、私は人種も年齢も超えたマーくんに再会したような気がしました。レインマンは仕草といい、表情といい、マーくんそのもののでした。
彼は疾風のように現れて、しばらくプールの受付のところで私たちと心を通わせているかと思ったら、突然、また疾風のようにどこかへ行ってしまうのでした。今思うと、マーくんは、あのプールにはなくてはならない存在でした。彼が元気に飛び跳ねる姿は、市営プールの友好的な雰囲気の象徴のようでした。
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1980年の夏はとても寒かったので、私たちアルバイト学生は暇でした。なにしろ雨ばかり振っていて、気温が低く、お客さんが来ないのです。開店休業の日々が続きました。
暇を持て余した我々は、雨が止んだ隙に、目の前にあるコンクリートの駐輪場であの頃流行っていたスケートボードの練習をしたり、原付バイクの練習を兼ねてみんなのお弁当を買いに行ったりしました。
スケボーは、ゆるやかなスロープでも思いがけないスピードが出て、全身をしたたか打ち付けました。何度も転んで膝や掌などもあちこち擦りむきました。あっという間に上達する子もいれば、私のように大怪我をする前に「引退」を決めた者もいました。
「ほか弁」と呼ばれた、あたたかいお弁当の登場はコロンブスの卵でした。それまでお弁当といえば、駅弁にしろ自宅から持ってくるお弁当にしろ、冷えているのが当たり前でした。ところが、このほかほかのご飯を詰めた作り立てのお弁当というのは当時としては画期的なことでした。
調べてみると、「ほっかほっか亭」が埼玉県草加市で創業したのが1976年、1981年にフランチャイジーを募り始めたとありますので、もしかすると「ほか弁」を買いに行ったのは翌年の1981年のことだったかもしれません。「のり弁」が安いと評判で260円か270円だったと思います。私は幕の内弁当が好きでした。唐揚げ弁当やハンバーグ弁当も人気でした。
それからもうひとつ大人気だったのは、モスバーガーでした。1971年にマクドナルドが銀座に第一号店をオープンしてから、マクドナルドはあっという間に全国に広がっていきましたが、モスバーガーも1972年に第一号店を板橋区の成増駅前にオープンしました。こちらは日本人の味覚に合うハンバーガーをと店舗を増やし、1980年には約100店舗を展開していました(現在では国内に1,312店舗、海外に441店舗、合計で1,753店舗です)。
時々、出前も取りました。近所のお蕎麦屋さんに、寒い日が多かったので温かいお蕎麦が中心でしたが、夏なので冷やし中華も頼みました。この時、マヨネーズを付けてくださいとお願いして良いのか否かのか論争がわき起こり、二手に分かれての大論争になったことを懐かしく思い出します。
私はそれまでマヨネーズをかけたことはありませんでしたが、マヨネーズ派の強いお勧めに従ってかけてみたらなかなかイケると感じました。まだマヨラーという言葉のない時代でした。
それから、プールとは直接関係はありませんが、監視員仲間の数人が、近くの高校の夜間警備のアルバイトもやっているということで、私たちまで夜の学校に行って、一緒に懐中電灯を持って夜の校舎を一回りするという、お化け屋敷もどきの体験もしました。
早朝からアルバイト仲間の出場する草野球の応援に行ったり、仲間のお誕生日にはデコレーションケーキでお祝いしたり、ディスコパーティを開催したりしました。ササキンはノリのいい、なかなか話のわかる人物でした。
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プールのアルバイトは、冷夏のため、思ったようなアルバイトにはなりませんでしたが、毎日が修学旅行のような雰囲気でした。私があまりにも楽しそうに嬉々として出掛けていくのを見ていた三歳下の弟は、翌年1981年に自分も大学生になると、監視員に応募して一緒にアルバイトすることになりました。楽しいアルバイトだったので、卒業した数名を除けばメンバーもほとんど同じでした。弟の他に数名、やはり監視員の兄弟が加わりました。
1988年にレインマンが封切られた時、私も驚きましたが弟も大層驚いたようで、もう二人とも就職していましたが、久々に姉弟が顔を合わせた瞬間に、二人ほぼ同時に「レインマンってマーくん…!」と言い合うほどでした。映画のレインマンはサヴァンとして驚異的な才能を発揮する様子が描かれていますが、マーくんも数え切れないほどの車種を暗記していました。
1981年も冷夏と言われました。前年に比べれば多少日照時間は増えたものの、5月から9月にかけて全国的な低温と8月の長雨によって特に北日本では2年連続での冷害の被害を受けました。
翌年のプールバイトで忘れられない思い出は、ある日、数人で休憩室で当時大ベストセラーになっていた黒柳徹子さんの『窓がわのトットちゃん』を読んでいたら、一人の監視員の男の子が部屋にふらりと入って来ました。ふと見ると、その子の額から大量の血が流れているのです。
思わず「大変! 額から血が出てるよ」と言ったら「え? そう? 今、飛び込んだ拍子にプールの底に額ぶつけちゃったからかなぁ」とのんびり答えました。その場にいたみんなが「これは大変だからすぐに病院に行った方がいいよ」と言ったのですが、「ああ、でも大丈夫だからいいよ」と本人はいたって平気で椅子に腰掛けようとしました。
周囲は慌てて、タオルを取りに行ったり、車にエンジンをかけに行ったりしましたが、本人は「大丈夫、大丈夫、心配ないって」と笑っていたのですが、みんなに引き摺られるように洗面台の鏡の前に連れて行かれて鏡を見た途端、顔面蒼白になって、卒倒しそうになりました。プールから上がったばかりで、出血した血液が髪からしたたり落ちるの水でせいで二倍にも三倍にも見えたからでした。
大急ぎで仲間の車で病院にいきました。物凄い大出血に見えましたが、実際には額を縫うこともなく、無事に戻って来ました。私は今でも『窓ぎわのトットちゃん』と聞くと、あの流血事件を思い出してしまいます。浅いプールでの飛び込みは本当に危険です。
学生時代、私はいくつものアルバイトを掛け持ちしながら、授業料や生活費、それに自動車教習所の学費を稼いでいましたから、プールの短期アルバイトをしながらも時々はお休みを取って、土木工事の会社の図書係や、オフコンと呼ばれていたコンピュータのオペレーター、それに百貨店の売り子さんという、いつものアルバイトにも出掛けていました。
そんな私もいよいよ就職することになりました。あの頃は就職協定が見直されたばかりで、企業訪問は大学4年生の10月から、入社試験は11月からと決まっていました。そこで応募書類に貼る写真は、夏の終わりに近くの写真屋さんで撮ってもらったのですが、白いブラウスの上にのっている私の顔の色は真っ黒で、もはや日本人離れしていました。
あの頃の四年生女子学生の就職は氷河期以前という状態でしたが、その上、こんな写真を貼っていては、一社からも合格通知が届かないのではないかと心配しました。今になって思えば、1981年も冷夏だと言われていましたが、1981年の東京都の8月の日最高気温の月平均値は30.0度(前年は26.6度)で、日平均気温の月平均値は26.2度(前年は23.4度)でしたが、私の顔がすっかり日焼けしてしまうほどの日照時間はあったものと思われます。
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私の冷夏の思い出は、お気楽な楽しい学生アルバイトでしたが、冒頭にも述べたように、1980年の冷夏による農業被害は、大変深刻なものでした。
全国的な低温、多雨、日照不足によって、水稲の作況指数は87となり「著しい不良」となりました。(翌年1981年は96で「やや不良」)夏野菜も生育が遅れ、品質も低下し、豆類、芋類、果実もいずれも大きな被害を受けました。
農業被害だけではありません。食品業界も大打撃を受けました。ビール、清涼飲料水、アイスクリームなど販売は低迷し、半袖シャツ、水着、扇風機、エアコンなどの商品売り上げも販売不振となりました。各地の花火大会やイベント中止となり、旅行需要も落ち込み、日本経済全体が大きな影響を受けたのです。
猛暑、酷暑が続く今日からは考えられないような夏の思い出です。
