278.8時だョ!全員集合
1970年頃、当時私は小学5年生でした。あの頃、土曜の夜といったら、それはもう「8時だョ!全員集合」を見ることに決まっていました。クラスの中でこの番組を見ていない子なんて一人もいませんでした。みんなとっても楽しみにしていました。
いまさら説明するまでもありませんが、「8時だョ!全員集合」は、1969年(昭和44年)の10月から1985年(昭和60年)の9月まで16年間に渡り、TBSで毎週土曜日の夜8時から放送されたザ・ドリフターズの公開生中継の番組でした。
この番組が始まったのは、私が小学4年生の秋のことでした。Wikipedia によれば、1971年の4月から9月までは休止されていたとありますが、私には中断されていた記憶はありません。中学生になってもしばらくは見ていました。
毎週、毎週、前半部分は大掛かりな回り舞台でのドリフターズのコントがあって、後半部分は、その週のゲストと共に合唱や体操が行われ、最後に全員が揃ったところで、ババンバ、バンバンバン、はぁビバノンノンの歌に合わせてカトちゃんが「宿題やったか?」「お風呂入れよ!」「歯、磨けよ!」「風邪、ひくなよ!」などと声をかけてくれて番組は終わりました。
子どもながらに、大人5人が舞台狭しと駆け回ったり、頭から水をかぶったり、金ダライの直撃を受けたり、セットと共に2階から転落したりと、随分体を張った演技で、なんて大変なのだろうと思っていました。リハーサル・本番を通じてドリフターズのメンバー全員、青痣の消えることがなかったのではないか、今回は怪我をしてしまったのではないかと心配していました。
私が小学生や中学生の頃のドリフターズのメンバーは、リーダーのいかりや長介、荒井注、高木ブー、仲本工事、加藤茶の5人でした。荒井注は「ハゲ注」というあだ名で「ハゲ」を売り物にし、「なんだバカヤロウ!」という捨て台詞で人気を博していました。
リーダーのいかりや長介よりも年上だったので、1974年3月に体力の限界ということでドリフターズを引退しました。代わりに加入したのが志村けんです。ちょうど中学3年生になる時だったので、荒井注と一緒に私も「8時だョ!全員集合」を卒業してしまい、志村けんの大活躍は知らずにいました。
2020年2月に志村けんが亡くなった時の追悼番組で、彼がどれほど多くの子どもたちに愛されてきたかを知りましたが、「東村山音頭」「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」などは社会現象とも言える大ブームを引き起こしていましたから、さすがに私も知っていました。国民的コメディアンの突然の死は、新型コロナウィルスのパンデミックの大いなる警鐘となりました。
このような訳で、今の50代やそれより下の世代とは「8時だョ!全員集合」の認識が多少違うかもしれませんが、初期の「8時だョ!全員集合」の大スターはなんといっても加藤茶でした。
加藤茶はカトちゃんと呼ばれ、道化役を一手に引き受けていました。小学生には絶大な人気がありました。カトちゃんぺッと言いながら鼻下のつけ髭を押さえる仕草から、やったぜカトちゃん、そして定番のシモネタも大喝采を浴びていました。子どもはどうしてあんなにシモネタが好きなのでしょう。男子は学校でもカトちゃんの真似をよくやっていました。
PTAから低俗番組だと名指しされていることを、登校仲間と小学校への通学路で話した記憶があります。1970年頃には既にパイ投げなどをして食べ物を粗末にするということ、シモネタを連発すること、それからハリセンで相手を叩いたり、ヤカンや金ダライなどを落とすというギャグを子どもたちが真似をしたら困るというような内容でした。
まだ子どもだった私たちでも、大人たちが、子どもがギャクと実生活の区別もつけられないと思っていること自体に驚きと失望を感じました。うちのママたちは大丈夫でよかったけれど、そういう親を持ったら子どもも苦労するよねぇというのが我々小学生女子の見解でした。
そんな「8時だョ!全員集合」でしたが、やっぱりなんといっても一世風靡したのは、カトちゃんの「ちょっとだけよ〜」です。
突然舞台の照明が落とされて、一ヶ所だけに赤いスポットライトが当たり、妖艶な音楽がかかると、カトちゃんの顔が何かに取り憑かれたようになります。そして床におもむろに仰向けになると靴下のまま片足を上げ、それを両手で撫でるような仕草をし、さらにセクシーポーズを決めながら「ちょっとだけよ〜」と言うのです。会場中からヤンヤの喝采が巻き起こりました。
当時、もはや日本中の小学生で知らぬ者はいないというほど、津々浦々までこのギャクは浸透していたのではないでしょうか。そして、カトちゃんはむっくり起き上がると、大騒ぎの会場に向かって「あんたも好きねぇ」と言うのです。これは小さな子どももおそらく全員が、ストリップ劇場を真似したギャクだとわかっていました。
この時の曲は「タブー」という曲で、1930年代に作られたキューバのラテン音楽でした。当時キューバ音楽を耳にすることなど滅多にないことでしたが、これは誰にとっても忘れられない曲となったことでしょう。
少し脱線ですが、1975年になって日本テレビで放映された土曜日夜10時からの「テレビ三面記事 ウィークエンダー」で使われたクインシー・ジョーンズの「アイアンサイド」やチェースの「ボッチャワ」なども刺激的な音楽でした。この時私は高校生になったばかりでしたが、テレビ局の制作スタッフの音楽センスはなんて凄いんだろうと心の中で感心していました。
さて、そのカトちゃんの「ちょっとだけよ〜」ですが、これは私が中学生になった1972年頃に始まりました。各教室にある給食台を舞台にして、ひょうきん者の男子がよく「♬たんたら、らったん、たたた〜」と歌いながら、仰向けになっては片足を上げていました。
男子は周りを取り囲んで、指笛を吹いたり、拍手をして盛り上がっていましたが。女子は「いやぁねぇ」「まったくしょうがないわねぇ」といいながら無視をするというのが定番の鑑賞作法でした。
ただ、この給食台でのショーには「はい、はい、もうやめやめ〜」という、リーダーのいかりや長介役がいないので、「いいぞ〜」「もっとやれ〜」の声援の中、いつまでも悶えていなくてはならずやっている方も大変そうでした。
「8時だョ!全員集合」の人気コーナーには、その週のゲストも一緒に白い上っ張りを着て教会の聖歌隊になったり、体操のマット運動をするというのがありました。このコーナーでは、普段、澄まし顔で歌を歌っている姿しか見せない歌手たちの、思わぬ素顔を覗き見ることができました。中でも由紀さおりと前川清が私の中では印象深く記憶に残っています。
仲本工事は、体操コーナーで美しいフォームで華麗なお手本を見せてくれました。彼は学習院大学の卒業生だそうで、皇室のイメージの強い学習院と、ドタバタコメディのドリフターズの対比がおもしろく感じました。高木ブーは、いつもニコニコしていて、太った体で懸命に走り回り、目立たない存在でありながら、それでいてグループにはなくてはならない存在でした。
ずっと大人になってから、ドリフターズは1966年のビートルズ来日に際に、武道館コンサートの前座を務めたこともある音楽バンドだったと知りましたが、私たちが小学生の頃は、コント55号と並んで子どもたちに大人気のコントグループでした。
小学生の頃、私の家では子どもは8時になったら歯を磨いて寝ることになっていましたが、土曜の晩だけは特別でした。明日は日曜日で学校がないので「8時だョ!全員集合」を最後まで見ることが許されていました。親に言われたら渋々でも、カトちゃんに「歯を磨けよ」「早く寝ろよ」と言われたら、それはもう素直に歯を磨き、布団に入ったものでした。
ただ、実はこのあと「8時だョ!全員集合」のあとテレビをつけっぱなしにしていると、9時から「キイハンター」というちょっとカッコいいテレビドラマが始まるのでした。登場人物は、丹波哲郎、野際陽子、川口浩、谷隼人、大川栄子、千葉真一らで、冒頭の音楽も艶かしくてカッコよく、是非見てみたいという番組でした。
しかし、我が家では土曜日と言えど、子どもは9時には寝なくてはならなかったので「キイハンター」は見せてもらえませんでした。同級生も大体同じでした。けれども、中にはお兄さんやお姉さんのいる子が「キイハンター」がどんなにカッコいいのかと話す子がいて、私はいかにもうっかり消し忘れたふりをして「キイハンター」の冒頭の曲を聞いたりしていました。
中学生になってからは両親との交渉の結果、土曜日は10時まで起きていて良いことになり「キイハンター」も見ていいことになりました。でもたまに結婚式などで両親がいない時に、こっそり「キイハンター」を見た小学生の時の方がワクワクしておもしろかったような気がします。
また、先に触れた「テレビ三面記事 ウィークエンダー」は、私が高校生になってから始まった番組でしたが、いくら土曜日でも夜10時からのテレビ番組を見せてはもらえませんでした。とはいえラジカセで深夜放送は聞いていたので、その名も「テレビ三面記事」という通り、子どもには見せたくない内容だったから、就寝時間を口実に禁止ということだったのかもしれません。
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思い起こせば、まるで昨日のことのように瞼に浮かぶコントの数々ですが、あれからもう半世紀以上経ってしまったとは本当に驚きます。
あの頃を思い出すと、土曜日の解放感は今とは比べものになりませんでした。1970年(昭和45年)頃の日本では、土曜日の午前中に学校や仕事があるのは当たり前でした。ですから明日学校がない、仕事がないという解放感を味わえるのは、週にたった一度、土曜日の晩だけだったのです。
番組が始まった頃の日本人にとっては、週休二日制など夢のまた夢という時代でした。まだ「半ドン」という言葉も普通に使われていました。「花金」なる言葉が生まれるのもずっと後の1980年代のことでした。
当時の労働省(現在の厚生労働省)が1985年(昭和60年)に発表した労働白書によれば、第 II 部の2「労働時間短縮への条件と課題」という項目において、1970年(昭和45年)における完全週休二日制の適応を受けている労働者の割合は、わずか4.5%でした(p.12、第2-10図)。これは企業規模30人以上を対象にした調査ですから、実際にはさらに少なかったと思われます。
ちなみに1970年当時の労働白書には「労働時間短縮」などという項目は存在せず、労働力の需要・供給、賃金、物価などの項目ばかりが並んでいます。
また、1985年の労働白書では、1970年に4.5%であった完全週休二日制適用労働者は、1973年は9.9%、1974年は16.4%、1975年は21.4%と急速に増加したが、その後鈍化し、1984年でも27.0%と約4分の1の労働者が完全週休2日制の適用を受けているに過ぎないとあります。(原文は昭和表記)
会社の規模別にみると、1984年においても1,000人以上の大企業で49%、100人〜999人規模で16%、30〜99人規模で4.2%、尚、自営業者は5%となっています。大企業ですら完全週休二日制が導入されている会社は、半分にも満たなかったということになります。ちなみにこの白書が発表された1985年というのは、「8時だョ!全員集合」の放送が終了した年です。
もうひとつ気づくのは、当時の子どもの寝る時間は、今よりもずっと早かったということです。
今述べてきたように、私の家では小学生の間は夜8時になるとテレビを消して歯を磨いて寝ることになっていて、周りも大抵そんなものでした。「8時だョ!全員集合」が終わる夜9時までテレビを見ていても良いのは、土曜日という週に一度の特別な日だけでした。
ところが、今日の小学生の就寝時間はずっと遅くなっています。
2015年に発表された文部科学省の統計「睡眠を中心とした生活習慣と子供の自立の関係性に関する調査の結果によれば、次の日に学校がある日の就寝時間は、小学生は午後9時より前が7.8%、9時から10時より前が41.9%、10時から11時より前が36.2%、11時から午前0時より前が10.9%、午前0時以降が3.7%となっています。約8割の子どもが9時から11時の間に就寝しています。
2014年9月調査の学研教育総合研究所の統計には、学年別の就寝時間がでていますが、これによると小学生1年生の就寝時間の中央値は21:00(平均値は21:30)であり、6年生の中央値は22:00(平均値は22:22)となっています。
比較的新しく2020年に行われたニフティの統計によれば、小学生の就寝時間は「10時ごろ」が38%で最も多く、次いで「11時ごろ」が23%、いずれも「9時ごろ」の20%を上回りました。尚「8時ごろ」はわずか3%でした。
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私が初めて「8時だョ!全員集合」を見た1969年は、我が家のテレビはまだ白黒テレビでした。翌年、1970年になってカラーテレビになり、そこで初めてドリフターズ面々の着ている半被がカラフルだったことを知りました。思えば、1970年頃は高度成長期で、多くの日本人は土曜日も一所懸命働いていました。祝日の日数も11日で、2024年の21日のおよそ半分でした。
令和6年就労条件総合調査の概況によれば、「完全週休2日制」を採用している企業割合は56.7%、「何らかの週休2日制」を採用している企業は90.9%となりました。
「8時だョ!全員集合」の最高視聴率は、1973年4月7日に記録した50.5%でした。ゲームもYoutubeもない時代、子どもたちが何より楽しみにしていたテレビ番組でした。
2000年2月、ドリフターズを退団後もタレントや俳優としてテレビに出演していた荒井注が、肝不全で亡くなりました。71歳でした。
いかりや長介が、がんで亡くなったのは、2004年3月のことでした。長年、ドリフターズのリーダーとして愛され、番組が終了後してからは俳優として活躍し、その演技も日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞するなど高く評価されていました。72歳でした。
2020年3月、志村けんが新型コロナウィルス感染症による肺炎で急死した時には、日本中に激震が走りました。70歳でした。
2022年10月、仲本工事が不慮の交通事故による急性硬膜下血栓で亡くなりました。番組終了後も俳優として活躍し、CMでもよくその笑顔を見かけました。81歳でした。
加藤茶は、番組終了後も多方面で活躍し続け、1990年代には高額納税者に名を連ねました。2011年に長男と同い年の若い女性と結婚して芸能ニュースを沸かせ、82歳の現在も様々な番組に出演するなど元気に活躍されています。
高木ブーは現在92歳。番組終了後はウクレレ奏者としても活躍し、今年2025年8月14日に戦後80年特別企画として「爆弾下の高木ブー」の動画を配信しました。軍国少年だった小学生の高木ブーが、1945年4月13日の巣鴨の夜間空襲で自宅が焼け落ちる中、布団をかぶって避難したことなどを語り、お元気な姿を見せてくれました。
2024年にザ・ドリフターズ結成60周年を記念して「結成60周年記念 ザ・ドリフターズ展 〜発掘!5人の笑いと秘宝たち〜」の特別企画展が東京の松坂屋上野店を皮切りに始まりました。今年も全国各地を巡回中で、2025年10月1日からは群馬県の高崎高島屋で、11月12日からは鹿児島県の山形屋文化ホールで開催されます。
日本中で愛された番組でした。
あの頃は、日本中が元気だったような気がします。
