284.残業時の出前
最近の会社員は、残業時の食事はどうしているのでしょうか。
私の場合、一時期、毎日会社で夕食をとるのが当たり前だった時期がありました。新卒で入った会社では、残業のために特別に食事をとったという記憶はありませんが、転職した外資系の会社では、ほぼ毎日、残業食の出前をとっていたことがありました。
1989年の春、ちょうど平成が始まって世の中はバブル景気の真っ最中ことでした。その頃、私は本社ビルの中の部署に異動することとなりました。その部署は、月末月初になると猛烈に忙しくなり、連日、夜10時、11時まで残業し、時には日付が変わって終電に飛び乗って帰る時期がありました。
その頃、私の勤務先では、19:30を過ぎて残業する場合には、出前を取ったら、確か1,200円くらいの上限はあったものの、経費で落とせるという制度がありました。そこで、19:00を過ぎると誰からともなく、今日は何にしようかという話になりました。
何にしようかというと、いくつも選択肢があるかのようですが、実際には、松竹梅の「梅」に相当する安いお寿司か、近所の町中華のつゆそばか焼きそば、夏なら冷やし中華くらいしか選択肢はありませんでした。
大抵、一日置きに月水金は「梅」寿司、火木はラーメン/焼きそば、翌週の月水金はラーメン/焼きそば、火木は「梅」寿司、といった単調な繰り返しでした。
お寿司とは名ばかりのいわゆる残業食で、巻物も鉄火巻きではなく、かんぴょう巻きでした。町中華の方は、多少のバリエーションがありましたが、それでも、ラーメン以外には、野菜タンメン、天津麺、ソース焼きそばかあんかけ焼きそばというところでした。
繁忙期には、派遣スタッフをお願いして入力作業に当たってもらっていましたが、その派遣スタッフさえも一日置きの梅寿司と町中華の出前にうんざりした顔をしていました。
そんなに不満ならば、お腹が空くのは少し我慢して帰りに自分で好きなものを食べればいいのにと思いますが、皆んな、不服そうにしながらも、毎日毎日会社で梅寿司か出前の中華メニューを頼むのでした。
おもしろいと思ったのは、ある人は疲れてくるとさっぱりしたものしか喉を通らなくなると言い、ある人は疲れてくるとしっかりお腹に溜まるものでないと力がでないと言っていたことです。
こうして当時のことを思い出していると、「ちわーっ」という挨拶で、高く積み上げた寿司桶を肩に担いでくるお寿司屋さんの姿や、厨房の油まみれの白衣をまとった町中華の店主自らが汗を拭き拭き複数の岡持を運んでくる姿が目に浮かんできます。
先に述べたように、この部署では月末月初こそ猫の手も借りたいほどの忙しさなのですが、繁忙期を過ぎてしまえば残業するほどの仕事はないのです。それでも、このような日々が続いていくうちに、いつしか夕方になると、「ま、梅寿司でも喰ってから帰るとするか」とか、「ラーメンの出前、遅いな。なかなか帰れないじゃないか」とか、残業出前の本末転倒がしばしば起きるようになっていきました。
それにしてもワンパターン、いえ、正確には数パターンでしたが、日々決まりきった残業食を食べ続けていたので、たまに、家で週末にお寿司でも食べに行こうかと言われると、私は「え〜、またお寿司?」と思うほどでした。けれども実際にお店で食べるお寿司には普段見かけない中トロがあったりして、一日置きの梅寿司とは違いまし、た。
そんな残業時の食事でしたが、今、思い起こせば「同じ釜の飯を食う」というのは、実に連帯感が生まれるものだったと感じます。一緒に食事をとりながら、非効率な手順への不満や見直し案、それに現場を知らない上層部への苛立ちや提言など多くの課題を語るともなく語り、そして解決の糸口を見つけていきました。チームワークが良かったのも、あの梅寿司や町中華のおかげだったかもしれません。
ランチと違って、会社の経費で、してもいない残業のための食事をみんなで食べるというのは、ちょっとした背徳感もあって、よりチームワークが高まっていったのだと思います。
あの頃は、会社にも社会にも余裕がありました。「経費削減」という掛け声はそれ以前から声高に言われていましたが、それでも、薄給でこき使われているのだから、せめて梅寿司くらい無料で食べさせてくれよと、みんな思っていたのだと思います。
ところが、そんな梅寿司黄金時代もバブル終焉と共に消えてしまいました。
その頃まで上長の許可など必要なく、19:30を過ぎて会社の残っていれば無条件で経費で落とせた残業食は、残業の事前申請と共に上長のサインが必要となりました。そんなことは当然だと思われるかもしれませんが、バブル期までは私の職場はこんな感じであらゆることがゆるゆるでした。
暇な時でも、なんとなく19:30、20:00頃までダラダラ会社に残っていた同僚たちも、出前が経費で落とせなくなったのを機に、繁忙期を除けば18:00過ぎには帰宅して行きました。
ちょうどその頃、私は別の部署へ異動になりました。そこの部署では、おもしろいことに、夕方18:00過ぎになると、決まってピザのデリバリーが届くのでした。ピザの「Lサイズ」の箱が大抵5、6箱届きました。みんなピザが来ると、箱の周りの集まって、それぞれ一切れ、二切れ口に入れ、また仕事の続きにかかるのでした。
なるほど、こちらの方が梅寿司よりも安上がりで、しかも短時間で食べられて便利だと思いました。このピザの代金を誰が支払っていたのかは不明ですが、おそらく桁違いの給与の出ていたエキスパットと呼ばれる外国人部門長がポケットマネーで支払ってくれていたと思います。
けれども、このピザでは、職場の課題を話し合ったりすることはありませんでしたから、もしかすると職場改善という意味においては、梅寿司・町中華の出前の方が効果的で、結果的には安上がりだったかもしれません。
ところがそんなピザの出前も、90年代半ば過ぎにはなくなってしまいました。部門長が異動したからかもしれません。
しかしながら、どこの会社も「経費削減」は、いよいよお飾りのスローガンではなくなって、本気でやらねばならない時代に入っていました。北海道拓殖銀行や山一證券が破綻したのは1997年、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行が国有化されたのは翌年の1998年でした。
◇ ◇ ◇
失われた30年と呼ばれる歳月が流れ、当時の勤務先があった辺りもすっかり「開発」されて、風景は一変しました。あの梅寿司のお寿司屋さんも移転してしまったのか、もうその姿は跡形もありません。ところが、ピカピカの高層ビルのすぐ近くに、今も尚、色褪せた看板を掲げて営業を続けているあの「町中華」があって、無性に懐かしくてたまらなくなります。
実は、私はこのお店には一度も入ったことはなく、お世話になったのはいつも出前ばかりでした。あの油まみれの白衣の店主は、今もまだ現役なのか、それとも引退なさったのか、お元気でいて欲しいと願っています。
