285.方言と共通語
先日、東北地方にお花見を兼ねて温泉旅行に出かけました。東北には、弘前公園、五所川原の芦野公園、角館の武家屋敷通り、北上展勝地、三春滝桜、花見山公園、日中線の枝垂れ桜並木などなど、実に多くの桜の名所があり、このところ毎年、春になるとお花見温泉旅行に出かけています。
今年、私の泊まった岩手県の温泉宿には、宿泊者専用の複数の浴室の他にも地元の方々が日帰り温泉として利用できる浴室もあり、宿泊者はそのどちらも利用できるということでした。
その温泉は、ph(ペーハー)値が9を超えているアルカリ性の温泉で、お湯がとろりとしていて実に気持ちが良く、お湯のとろとろ感を楽しみながらあちこちの浴室へ行きました。どこの浴室にも露天風呂があって、春の日差しを浴びた山桜を眺めながらのんびりとお湯を楽しむことができました。
地元の方々が入れる露天風呂でお湯に浸かっていると、二人のおばあさんがやって来ました。おそらくお二人とも八十を超えているだろうと思われました。お二人は小声で日常のあれこれを話していたようでしたが、その言葉には東北弁の優しい響きがありました。自然と、昔、教科書に載っていた啄木の歌が思い出されました。
ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聞きにゆく
啄木の歌はそれを聞いた途端たちまちその場の光景が目の前に拡がります。おばあさんたちの言葉も、単なる旅行者の私でさえどこか懐かしく、心の安らぎを覚えるような響きに感じられました。お二人の会話を聞くともなしに聞きながら、このような方言はそれほど遠くないうちに消滅してしまうのではないだろうかと感じました。
私が大学に入学した1978年には、地方から上京して来た同級生は言葉でわかりました。特に東北地方からやって来た学生は、母音の発音が東京言葉とは違っていましたからすぐにわかりました。ところが令和の今、最近の若者にはそのような母音の違いは感じられません。
1990年頃にに東北旅行をした頃は、お年寄りの言葉を聞き取るのは非常に難しかったという記憶がありますが、今回の旅行ではそのようなことはまったくありませんでした。私自身が、既に高齢者になっているわけですから当たり前なのかもしれませんが、よく考えてみるとこの十年程は、旅先のお年寄りの話す言葉が聞き取れなかったということがなくなったように思います。
私は今回温泉でご一緒だったお二人と会話をすることはありませんでしたが、もし何かのきっかけで話すことがあったとしたら、きっと私にも理解できる言葉で話してくださったのではないかと思います。けれども今から30年ほど前には、ご厚意で説明してくださる地元のお年寄りの言葉が半分くらいしかわかりませんでした。
私は地元の郷土資料館を訪ねるのが好きなので、昔の農機具や機織り機などを見て回っていると、時々同じ見学者の年配の方々から声が上がり「まあ、なんて懐かしい! 私らが若い頃は、これを肩にかついで田んぼに出かけたものだ」などと、農具や機械の使い方の説明をしてくださることが時々ありました。
こんな時、せっかくの機会だと思いつつも聞き取れない言葉も多く、あまり何度も聞き返すのも失礼かと思い、もっとお話をお聞きしたいのに、言葉が聞き取れないばかりに質問もできなくて、会話を終えざるを得なかったことが何度かありました。残念でした。
以前、シネ・ヴィヴァン六本木について書いた時(085)にも紹介したことがありますが、1982年に公開された小川伸介監督の「ニッポン国 古屋敷村」というドキュメンタリー映画があります。
当時、山形県に当時八軒だけ残った古屋敷村で、冷害と闘いながら、稲作、炭焼き、養蚕を生業として生きてきた村人に丹念にインタビューを重ねた力作です。この映画では村人の言葉ひとつひとつすべてに字幕がついていたのが忘れられません。本当に字幕がなければまったくわからない言葉でした。
半世紀前には、生まれ育った土地の言葉しか話さなかったお年寄りはたくさんおられましたが、今の多くのお年寄りは日常使う方言といわゆる共通語の両方を使い分けていらっしゃいます。
さらに言えば、今の20代、30代の若者たちの共通語のアクセントは、東京の人間が使う言葉とほぼ同じで、私には聞き分けることができません。
最近の青森県の地震や岩手県の山火事のニュースで地元の方々へインタビューしているのを聞いていても、方言のアクセントや母音の違いはまったくと言っていいほど感じなくなりました。かなりのお年寄りでも、何を言っているのかわからないということはありません。
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方言や、アクセント、それに特に母音の発音に関しては、東北に限らず九州でも同じように感じてきました。
今年2026年(令和8年)は昭和100年と呼ばれていますが、私が小学3年生の1968年(昭和43年)は、明治100年と言われていました。
私の父方の祖母は九州の小さな城下町に住んでいました。この年、初めて飛行機に乗って祖母に会いに行ったのですが、その時祖母の話す言葉はほとんどまったく聞き取れず、祖母と同居していた叔母が通訳してくれたことをよく覚えています。
おもしろいことに叔母が私に向かって話す言葉はすべて理解できましたが、叔母と祖母、あるいは叔母が近所の人や息子(つまり私の従兄弟)との会話はさっぱりわからないのでした。
私の父方の祖母も、母方の祖母も、どちらも明治30年(1897年)の生まれでしたが、おそらく2人とも、叔母のように共通語を話すことは生涯なく、話す言葉は、日常遣いの方言だけでした。
父方の祖母は、夫、つまり銀行員の祖父と共に、東京をはじめ神戸、長崎、上海、大連、青島と各地を転々としましたが、言葉はどうしていたのでしょう。もちろん祖母だけでなく、実際に銀行業務に携わっていた祖父の話す言葉はどんなものだったのかと興味が湧いてきます。
祖父は戦時中に亡くなり会ったことはありませんが、外国語を猛勉強をしたとの逸話は伝わっています。しかし、肝心の日本語がどのようなものだったのかは伝わってはいません。九州の片隅から東京の大学に進学した際、その言葉ゆえに、漱石の『坊ちゃん』に出てくるような東京出身者に「田舎者のくせに」と散々言われたのかもしれません。
母方の祖母は名古屋の生まれで、紡績会社に勤務していた祖父の転勤で太平洋戦争中に大阪に引っ越ししました。私は子どもの頃からよく大阪の祖父母の家に遊びに行きましたが、思い起こせば祖父母は、大阪に住んで数十年経っても話す言葉は生粋の名古屋弁でした。
大阪の祖母が近所の方々に話しかける言葉と、私たち遠く離れた東京近郊に住む孫に話しかける言葉はまったく同じで、九州の叔母のように二つの言葉を使い分けることはありませんでした。
あの頃の明治生まれの大方のお年寄りは、方言だけで話をしていたように思います。叔母は大正末年の生まれですが、家族や地域の人と話す言葉以外に、共通語という言語を操るというのは、私の知る範囲では大正時代以降に生まれた人に限ります。
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地方出身の友人と話していると、東京に来たばかりの頃、どうやって方言を隠したらいいかとあれこれ工夫したというエピソードを聞かせてくれることがありますが、私にとって興味深かったのは、岐阜県出身の友人が東京の大学に入学した時、語尾に「〜じゃん」をつけると東京言葉風になることを発見したという話です。
「昨日言ってたじゃん」「こんな風にするじゃん」と、とりあえず何でも「じゃん」をつけるという作戦はなかなか成功したと言っていました。友人の育った地域では「昨日言ってたやろ」「こんな風にするやろ」と言っていたけれど、語尾を「じゃん」に変えた途端に東京っぽくなるというのです。確かにいかにも当時の東京の若者という感じがします。
私の場合は、小学生の頃、語尾に何でも「じゃん」を付けて話していたら、母から「そのような言い方はみっともないからやめなさい」と言われた思い出があります。おそらく「じゃん」言葉は、私が小学生の昭和40年代(1965−74)、横浜の一方言から(一説には山梨・静岡・三河地方の方言とも)一気に若者言葉として流行していったものと思われます。
このように地元の言葉から東京の言葉に合わせようとする傾向は、明治以降の中央集権、近代国家成立、富国強兵などの思想、そして戦前・戦中に国家権力によって標準語を強いてきた歴史的背景もあったのだろうと思います。
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明治維新以来、近代国家建設に向けて、徴税、学校教育、徴兵制、鉄道、新聞出版などを通して、日本語の書き言葉、話し言葉が統一されていったと言われていますが、こと発音に関しては、昭和30年代に一気に普及したテレビによって共通語の発音が広まったと感じています。
内閣府の経済社会総合研究所の主要耐久消費等の普及率(全世帯)いう統計によると(見やすいグラフはこちら)、白黒テレビの普及率は、1957(昭和32)年は7.8%、1958年は10.4%、1959年は23.6%、1960年は44.7%、1961年は62.5%、1962年は79.4%、1963年は88.7%、1964(昭和39)年は87.8%と、テレビは急速に全国に普及しました。
この間に、昭和33年(1958年)の皇太子御成婚、昭和39年(1964年)の東京オリンピックのテレビ中継が、テレビの普及を大いに後押ししたとも言われてきました。
赤ちゃんがどのように言語を習得していくかという研究は、様々な研究がありますが、パトリシア・クール(Patricia Kuhl)博士の研究によれば、赤ちゃんは6〜8ヶ月位までは世界中のあらゆる音を習得するけれど、日々耳に入ってくる音をどうやら統計的に処理し、自分の文化圏の音を選別して習得し、そうでないと音を排除すると述べています。
日本人の赤ちゃんは「ら行」の音はよく耳にするので聞き分けられるようになり、英語の「R」や「L」の音はあまり聞かないので、10ヶ月を過ぎる頃から聞き分けられなくなっていくというのです。また、7歳になるまでは第二言語を習得する能力が大いにあるけれど、思春期を過ぎるとその能力は格段に低下するそうです。(TED: Patricia Kuhlより:字幕を日本語にすることができます)
私には英語の「æ」も「ʌ」も「ɑ」も「ɑː」も「ə」も「ɐ」も「a」もすべて単なる「ア」にしか聞こえないのはそういう訳だったのかと大いに納得する説ですが、この説に寄れば、東北の赤ちゃんは聞こえてくる音をせっせと統計処理をしてしていく中で、昔は「一つ仮名(じ=ぢ=ず=づ)発音」のみを習得していたものが、テレビの普及で「二つ仮名(じ=ぢ≠ず=づ)発音」も合わせて習得するようになったのではないかと思っています。
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しかし、話し言葉というのは、現代は映画やドラマなどの録音機能はあるにはあるけれど、あっという間に変化して、過去にはどのような言葉が話されていたのかはなかなか後世には伝わらないものです。
以前、ドナルド・キーン著『明治天皇』を読んだ時、非常に興味深く感じたのが明治天皇の話し言葉でした。本書があまりにも面白かったので、著者の講演会にも何度か足を運びましたが、キーン氏は「明治天皇の言葉を耳にした外国人は、声の大きさなどについては本国にレポートとして書き記しているが、日本語がわからないので言葉遣いについては書いていない。そして日本人は、天皇のお声を耳にしたということで感涙に咽んでおり、言葉については畏れ多いということで書き記していない」と語っていました。
興味深い一例を挙げると、慶應4年(1868年)の外国行使引見については、次のように描かれています。
二月三十日、フランス公使ロッシュ、オランダ代理行使ファン・ポルスブロックが参内し、明治天皇に謁見した。二人は恐らく、日本の天皇をちらりとでも見た最初の西洋人であろう。(中略) (引用者注:英国行使の)パークスと書記官ミットフォードの謁見は、三月三日に行われた。(中略)パークスとミットフォードは謁見の間に案内された。目の前に明治天皇がいた。ミッドフォードは記している。(中略)「我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった。彼は白い上衣を着て、詰め物をした長い袴は真紅で婦人の宮廷服の裳裾のように裾をひいていた。被り物は廷臣と同じ烏帽子だったが、その上に、黒い紗で作った細長く平らな固い羽根飾りをつけるのがきまりだった。私は、それを他に適当な言葉がないので羽根飾りと言ったが、実際には羽根のような物ではなかった。眉は剃られて額の上により高く書かれていた。頬には紅をさし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並大抵のわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、間もなくは若い帝王は、これらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れのもろもろと一緒に全部追放したということである」
このような装束に身を包んだ明治天皇は、「貴国帝王安全ナルヤ朕之を喜悦ス、自今両国之交際益親睦永久不変ヲ希望ス」と勅を賜ったそうですが、この時、明治天皇のイントネーションがどのようなものだったのか、その装束から想起させられる御所言葉だったのか、それとも御所言葉とは違う言葉だったのかは不明なのだそうです。
明治天皇は1852年生まれ。先帝の孝明天皇が35歳の若さで亡くなった1867年1月30日(慶應2年12月25日)には、まだ14歳でした。慶應4年の外国行使との引見の時は16歳の若者だったということになります。
明治時代は、歴史上最も大きな変化のあった時代のひとつですが、明治天皇は、帝国議会や条約改正、そして日清戦争、日露戦争の開戦などの場面でどのような言葉を発していたのか、聡明だったと言われる明治天皇は、思春期を過ぎても各藩からやって来た明治の元勲たちと会話する共通語を習得したのか、興味は尽きません。
明治天皇の話し言葉も伝わっていないというのは、話し言葉を後世の伝えるということが、いかに難しいかを表しているように感じます。毎年、新語・流行語が生まれていく一方、失われていく言葉もさぞや多いことだろうと思います。言葉は生き物、日々変化しています。世界には消滅危機言語が2,500語ほどあると聞きますが、話し言葉は一旦失ってしまったら、もう取り戻すことはできません。
多くの人が共通語を話すようになりましたが、それほど遠くないうちにドキュメンタリー映画「ニッポン国 古屋敷村」で話されていた言葉や、私の祖父母たちが話していた強いアクセントのある方言は、この世から消滅してしまうだろうと思います。
もう誰もお歯黒や引眉を、懐かしんだり惜しんだりすることがないように、きっと方言の響きもそのうちすっかり忘れられてしまうのでしょうか。
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目には山桜、耳には岩手の方言という至福の温泉に浸かりながら、子どもの頃からの方言にまつわる思い出や、これまで言葉についてあれこれ考えていたことなどが、走馬灯のように駆けめぐりました。
