271.王府麺を求めて

1987年(昭和62年)に私は外資系企業に再就職しました。27歳の時でした。当時、私が就職した会社も他の多くの外資系企業と同じように急速に日本市場を拡大していたので、従来の本社オフィスだけでは間に合わず、近隣のいくつかのビルに間借りしていました。私が採用された部署も、一時的に西新橋にあるビルで業務を行っていました。

新橋駅、虎ノ門駅、内幸町駅、御成門駅に囲まれたエリアで、どの駅へのアクセスも良いというのは利点の反面、これと言った最寄り駅がないため私は千代田線の霞ヶ関駅から15分ほどかけて徒歩で通勤していました。大雨の日や酷暑や極寒の日はなかなか大変でした。

私はそのビルにおおよそ一年半通勤しました。1987年秋から1989年春まで、つまり昭和の終わりから平成に年号が変わった頃のことでした。

◇ ◇ ◇

働き始めてしばらくした頃、職場の先輩にオフィスからほど近いところにある「王府」という中国料理店に連れていってもらいました。ランチタイムで、その界隈で働く大勢の人々で賑わっていました。入り口で少し待ちました。活気溢れるお店でした。名物は「王府麺」だということでした。

先輩は、早速その王府麺を注文すると、うっとりした眼差しで「本当においしいのよ」と言い、周りに視線をやると「ほら、あんな風にして食べるのよ」と教えてくれました。見渡すとどのテーブルにも大きな鉢に入った山盛りの麺が置かれていて、みんなが大きなフォークで小鉢に取り分けている姿が見えました。他にもメニューはあるのに、ほとんどお客さんが王府麺を注文しているようでした。

程なくして、私たちのテーブルにも王府麺が運ばれてきました。まずは大きな鉢に入った山盛りの麺です。一般的なラーメンよりは太くて、茹でたてなのか、あるいは蒸し上げたばかりのか盛大に蒸気を上げていました。そして3種類のスープなどが運ばれて来るのです。

①塩味のたまごスープ(大きな鉢入り)
②肉や野菜がたくさん入った茶色いあんかけスープ(大きな鉢入り)
③肉味噌ときゅうりの千切りに小口切りのネギ(お皿)

まずはこの麺を、大きなフォークで手元の銘々の小鉢に移して、そこにどれでも好きな順番でたまごスープやあんかけ、それに肉味噌をかけていただくのです。

私は先輩にならって、まずは湯気をあげている小鉢の麺に、たまごスープを小さなお玉でかけてみました。たまごはふわふわ〜としていて刻んだ白菜やきゅうりが入っていました。スープは鶏ガラのあっさりした塩味で、たまごのふわふわ感が吹っ飛ぶほど、麺自体が驚くほどふわふわでした。他の味はともかく、このたまごスープだけで麺を全部食べ切りたいほどおいしいスープでした。

とは言え、先輩のアドバイスに従って、次はあんかけに挑戦してみました。また大きなフォークでふわふわの麺を小鉢に取り分けると、今度は、あんかけを鉢から小さなお玉でたっぷりとかけました。あんかけには、豚肉、鶏肉、きくらげ、たけのこ、青菜など野菜がたくさん入っていました。トロリとしたあんかけが麺によくからんで口の中にツルツルと入っていきました。あんかけがこれほどおいしいとは知りませんでした。

そして最後に、また大きなフォークでふわふわの麺を取り分けて、今度は肉味噌とキュウリの千切り、それにネギを乗せてさっと混ぜていただきました。これまでにもあちこちでジャージャー麺を食べてきましたが、こんなにおいしい肉味噌には出会ったのは初めてでした。

たまごスープと、あんかけと、肉味噌。どれかひとつを選べといわれても、どれもこれも絶品で、とても選ぶことなんてできないと思いました。選べないからこそ、王府麺には三種類ついているのでしょう。

先輩と二人で、せっせと大きなフォークで麺を取り分けてスープなどをかけて食べていると、店員さんに「麺のおかわりはいかがですか」と聞かれました。二人で食べ切れるかどうかという山盛りの麺なのに、これ以上おかわりなどはとても無理と思いましたが、先輩によると、このお店は際限なく麺のおかわりができるということでした。

質・量ともにこんなに充実していて、値段は千円程度でした。いくらお客さんが押し寄せていると言っても、この内容でお店はやっていけるのかと心配なりました。私が不安を口にすると、先輩は「そうなのよ、本当に心配になるわよね。皆んなはランチタイムの王府麺は採算度外視で、夜の宴会で儲けを出しているんじゃないかって言ってるわよ」と教えてくれました。

確かに、皆んなが心配するほどの質と量と値段でした。

◇ ◇ ◇

虎ノ門・新橋界隈は、安くておいしいお店の激戦区で、私も職場の人たちに今日はイタリアン、今日はインドネシアン、今日はお蕎麦屋さんと、あちこちのお店へ連れて行ってもらいました。人気店は貴重なお昼休みに並ばなくてはなりませんが、それでもみんなお天気のいい日には少し遠くまで遠征していました。

あの頃、昭和の終わり頃、虎ノ門や西新橋の辺りはオフィスビルがどんどん立ち並んではいましたが、路地に入れば普通の家がまだまだ残っていました。私たちは路地から路地へと抜けながら、おいしいお店を探索して歩きました。

そんな私たちが時々耳にした噂に「この辺りには戦後『マッカーサー道路』が通るはずだったのに、何らかの事情で道路計画は立ち消えになった」というものがありました。戦後40年以上経っても、まだマッカーサーの名が語られるのかと、とても印象に残っています。本来なら環状道路になるはずだったのに、結局、立ち消えになってしまったことが、今日の都心渋滞の一因だとも聞きました。

あの当時のあの界隈のことを思い浮かべると決まって思い出されるのが、本屋さんの店頭に、村上春樹の『ノルウェイの森』がずらりと並んでいた光景です。私自身は以前発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の方がずっとおもしろかったと思いながらも、発売まもない『ノルウェイの森』の上巻が赤、下巻が緑のクリスマスカラーの表紙が街を彩っているのはきれいでした。

王府は、日比谷通りから路地を入った目立たないところにありました。王府の入り口は慎ましやかで、黄色い房のついた赤いぼんぼりのようなものが下がっている程度で、外観からは中があのように大勢のお客さんで賑わっているとは想像もつきませんでした。

ところで、これまで心の中で密かに思っていただけで、誰にも確かめたことなどないのですが、日比谷通り沿いのあの辺りは、昔は東京の中華街だったのではないかと私は想像していました。

それというのも、「王府」のみならず、「翠園酒家」「同發」、それにすっかり名前を失念してしまいましたが、私が就職した1987年かその翌年に閉店してしまった大店の中国料理店が点在していました。いずれのお店も、日本人がやっている中華料理屋さんとは明らかに違い、メニューや味はもちろんのこと、内装や調度品がいかにも中国人のお店でした。しかも名店の風格がありました。

それに私は毎日15分かけて駅から徒歩通勤していましたが、あの辺りは大体碁盤の目のようになっていたので、今日はこの路地、明日はあの路地と日ごとに道を変えて歩いていると、ところどころで中国系と思われる一文字だけの名字の表札を見かけました。

しかし、なにしろ勤務先は外資系企業で、しかも一部門だけが別のビルに間借りしているという状況だったため、土地の「長老」がいるわけでもなく、心の中でただ思っていたに過ぎません。虎ノ門、新橋界隈のことに詳しい方がいらっしゃればお尋ねしたいと思いつつも、気がつけば平成も終わってしまって令和の世となっていました。

◇ ◇ ◇

さて、王府はいつも大勢のお客さんで賑わっていました。店内に入ってすぐのホールには、二階へ続くおしゃれな階段があって、お昼時には、待っているお客さんが、階段にずらりと列を作っているのは壮観でした。

お店は一階と二階に分かれていましたが、どちらにも広い円形テーブルや四角いテーブルが並んでいたように記憶しています。私は入ったことはありませんが、個室もいくつかあったように思います。とにかく大勢のお客さんがいて、多くの人々が王府麺を注文していました。

私は、あちこちのお店へ連れて行ってもらったものの、やっぱり王府麺にかなうものはないと感じていました。あの熱々でふわふわの麺、味に深みのあるたまごスープ、たくさんの具材の入ったあんかけスープ、そして濃厚でありながら切れ味のよい肉味噌。どれをとっても一級品でした。

みんなと食事に行くとあちこち出かけるので、次第に私は、みんなが帰ってきてから交代で行く「遅番」として、ひとりで王府に通うようになりました。「ひとり王府」を始めた理由はいくつかありました。まず、とにかく毎日王府麺が食べたいという強い欲求があったことでした。王府麺に私は心を鷲掴みにされていました。

二つ目は当時再就職が決まったとはいえ、昔から憧れていたフランス企業で働いてみたいという希望がまだ捨て切れていなくて、かなうものならばと一縷の望みを抱いていて、お昼休みにもフランス語の勉強を続けたいと思っていたからでした。そこで、大混雑のお昼時を外して13時過ぎならば、ひとりで行ってもお店に迷惑をかけることなく勉強しながら食事ができると思ったのです。

このようなわけで、いつのまにか私は「遅番ランチ係」として13時15分くらいに王府へ毎日通うようになりました。毎日とは毎日でした。

昔、黒柳徹子さんが脚本家の向田邦子さんを偲んで、「私はNHKでの仕事が終わった後、当時霞町(今の西麻布)に住んでいた向田さんのマンションを毎日訪ねて行ったものです。いいですか、『毎日のように』ではなくて『毎日』ですよ」と語っていたことを思い出しますが、私も毎日のようにではなく、毎日通いました。

毎日13時15分になると、あのお客さんの大波が引く頃に私はひとりでお店に入って行き、できるだけ目立たない端っこや柱の影の席に座り王府麺を注文します。

私は当時日仏学院の通信講座を受けていたので辞書を引いたり、問題を解きながら王府麺を待ちました。しばらくするとひとり分でも麺はたっぷり、たまごスープもあんかけも肉味噌たっぷりと提供されました。麺のおかわりはいかがですかと必ず聞かれました。判で押したような日々でした。

週末、土曜日の朝に目が覚めると、今日は王府麺が食べられない日なのかと思うと、居ても立っても居られないほどでした。電車に乗って王府まで行こうかと本気で思いました。定期券があるから今から行こうかしらと何度も思いました。翌日曜日の朝も目が覚めて、今日も王府麺が食べられないのかと思うと、ベッドの上で恋人を思うように王府麺を思い、身悶えていました。

◇ ◇ ◇

昭和が終わって平成になってすぐの1989年春、私は本社のビルに異動となりました。もはや生活の一部となっていた王府麺と離れるのは耐え難いことでした。しかし、本社のビルからは気軽に歩いて来ることのできる距離ではありませんでした。

異動後、しばらくは環境の変化に慣れるのが大変でしたが、次第に落ち着いてくると王府麺が恋しくてたまらなくなってきました。ある時、新しい部署の同僚たちに王府麺への愛について語っていると、何人かの同僚がその王府麺なるものを一度食べてみたいと言い出しました。

それではと、有志を3、4人募ってお昼休みにタクシーで王府へ行きました。本当は遅い時間の方が並ばなくて良いのですが、3、4人抜けるとなるとやはり12時に出た方が良いと思い、あらかじめ段取りをつけて皆んなで同時にオフィスを出て、タクシーに乗り込んで王府へ向かいました。

当時、まだ20代だった私は、お金もないので夜の王府には一度もいったことがなく、こんな質と量ではお店がつぶれるのではないかと皆んなが心配するほどコストパフォーマンスの高い王府麺しか注文したことのないお客でした。毎日通っていたとは言え、どう考えても上客とはいえませんでした。

そもそも毎日毎日、断っても断っても麺のおかわりはいかがですかと聞かれていたので、常連客という認識すらもたれていないと感じていました。私はできるだけお店に迷惑をかけないようにひっそりと過ごしていたつもりでした。

ところが、同僚と共に店内に入ると、お店の方が向こうから「どうしていたのかと心配していました」と近寄ってきてくれました。私が実は人事異動があって別のビルへ引越ししてしまったこと、もう歩いて毎日は来られないこと、今日は新しい部署の同僚とタクシーでやってきたことを告げると満面の笑みを浮かべて席へ案内してくれました。

私のことを覚えていてくれたとは嬉しい驚きでした。ランチタイムのひとり客だったのでお店にとって迷惑ではないか、しかも目立たない席とはいえテーブルで勉強するなど失礼ではないかとずっと思っていたので、歓迎してもらえて心の底からほっとしました。

久しぶりに王府麺に対面して私は感激しました。同僚たちもこんなに豪華だとは思わなかった。とてもおいしい、また来たいと言ってくれました。私は王府麺が褒められて我がことのように喜びました。そうでしょう、そうでしょう、王府麺は特別なのよと誇らしく思いました。

するとそこへ、お店の方から「わざわざタクシーで来てくれてありがとう」と、サービスで点心のシュウマイが運ばれてきました。涙が出そうになるくらい感激しました。私は王府麺以外のお料理を食べたことがなかったのですが、シュウマイもふっくらとしていてとてもおいしくいただきました。

帰りにレジで並んでいた時に初めて気がついたのですが、レジのカウンターに料理長が執筆した書籍が置かれていて、王府の料理長は長年雑誌「暮らしの手帖」の中国料理を指導していたという紹介がありました。

雑誌「暮しの手帖」は戦後まもなく発行された家庭向け生活総合雑誌です。創刊時の編集長は花森安治。2016年には「とと姉ちゃん」のタイトルで、NHKの朝の連続ドラマで高畑充希演じる主人公が立ち上げようとする雑誌のモデルになりました。商品テストで一世を風靡し、私が子どもの頃は我が家にも、母の買った「暮しの手帖」がありました。

王府麺とは、戦後日本における中国料理の草分け的存在の料理長が作っていたということを、私はその日初めて知りました。毎日通っていた時は遅ランチだったので、レジに並ぶこともなくすぐにお会計を済ませていたので気がつきませんでした。あの雑誌の中国料理指導者だったとは、なるほど名店中の名店なんだと思いました。

今回、この稿を書くにあたってインターネットで調べてみたら、王府の料理長・戰美樸氏について、次のような一文を見つけました。

《中国山東省生まれ。1954年に来日、香港飯店に入店。1957年から『暮しの手帖』の中国料理を指導、1965年に独立し、西新橋に中国料理店王府を開店》  また、《王府の戰美樸さんは、1957年から40年以上も暮しの手帖のために中国料理を考えて下さいました》という書籍の紹介文も見つけました。

レジ係の方も私のことを覚えていてくれて、久しぶりに会えて嬉しい、わざわざタクシーで来てくれてありがとうございましたと言われました。これからは頻繁にというわけにはいかないけれど、時々は機会を見つけてまた来ます、ですから今日のようなサービスはこれっきりにしてください。心置きなく何度も来たいのでとお願いしました。

それからは、ひと月に一度、あるいはふた月に一度くらい、同僚とタクシーに乗って王府麺を食べに来ました。同僚の口コミが拡がってタクシーが2台になったこともありました。90年代前半は、それでもしばしば訪れていましたが、しかし、一年、二年、三年と経つうちに、次第と足は遠のいていきました。

90年代も半ばになると、私自身の社内でのポジションも変わり、お昼休みに同僚たちとタクシーでランチというわけにはいかなくなりました。

90年代の終わりだったと思いますが、ある日、夫に王府麺に対する私の愛を語っていたら、その日は土曜日だったと思いますが、それでは王府へ行ってみようということになりました。土曜日の王府は家族連れで賑わっていました。夫は初めての、私にとっても久しぶりの王府でした。

夫は王府麺の素晴らしさはわかったけれど、このような名店のチャーハンも食べてみたいと言い、夫は王府麺ではなくチャーハンを注文しました。

そういえば、私が通い始めた1987年時点では麺のおかわりは際限なくできましたが、88年の暮れか、89年には、麺のおかわり制度はなくなりました。おそらくいくらなんでもあれでは本当に採算が取れなかったのだと思います。実に出血大サービスの王府麺でした。心密かに私は王府ために、おかわり制度がなくなったことを喜びました。

夫がチャーハンを注文した時、私の王府麺をシェアしてはルール違反になるのではないかと一瞬心配しましたが、あぁそういえば、もう麺のおかわり制度はないのだから、注文した品をどのように食べても大丈夫だと安心したことを覚えています。この時、私は初めて王府麺とシュウマイ以外のお料理を口にしました。チャーハンも絶品でした。でもやっぱり王府麺でした。夫も同意見でした。

◇ ◇ ◇

さらに月日が流れました。2000年代になったある日、友人のひとりとおしゃべりしていた時、私は性懲りもなく王府麺への愛を語っていました。とにかく素晴らしくおいしいのだと熱を込めて語っていたら、是非とも王府に連れて行って欲しいと言われ、それではと日を改めて王府へ向かいました。

道々、王府麺を讃えながら西新橋のお店へ向かいました。場所は日比谷通りの新橋四丁目の交差点のすぐ近くです。あの「殿中でござる」の「浅野内匠頭終焉の地の碑」が立っている場所と、日比谷通りを挟んでちょうど反対側の路地を入った所に王府はありました。早速路地を曲がりました。

すると、一体全体どうしたことでしょう。王府が見当たらないのです。なくなっているのです。ありえないことでした。ただ茫然とお店だった建物の前に立ち尽くしてしまいました。場所を間違えるなどということはあり得ませんでした。なにしろ一年以上「毎日」通っていたのです。タクシーでも何度も来ました。

あまりの衝撃に正気を失いかけていた私ですが、王府の玄関のちょうど正面にあった会社の「移転のお知らせ」の貼り紙が目に飛び込んできました。考えるまもなく勝手に手が折りたたみ式の携帯電話を取り出して、貼り紙の移転先の電話番号を押したのでした。「突然のお電話で誠に不躾ではございますが、今、王府の目の前に立っております。王府も御社と共に、どちらかへ移転されたのでしょうか」

すると、電話の向こうから「あぁ、残念ながら王府さんは閉店なさいました。本当にかえすがえすも残念ですよねぇ」と優しいお言葉が返ってきました。「業務に関係のないことで、誠に失礼致しました。教えていただきありがとうございました」と告げると、「お気持ち、よくわかりますよ。本当に残念です」と言ってくださいました。

思い出そうとしてもそれが正確には何年のことだったかわからないのですが、2001年から2005年の間のことでした。20年以上前のことでよく思い出せません。その日は友人に慰められて別の場所に食事に行ったと思いますが、どこへ行ったかは覚えていません。

◇ ◇ ◇

時は21世紀。インターネット時代に入っていたので、私はインターネットで「王府」並びに「王府麺」を検索しました。

すると、なんと、大阪のリーガロイヤルホテルに入っているの中国料理店で王府麺が提供されていることがわかりました。店名は正確ではないかもしれませんが確か「天壇王府」だったと思います。当時のネット情報では、西新橋の従業員の一人が大阪で王府麺を再現したと書かれていたと記憶しています。

早速、例の友人に連絡して、大阪で王府麺を発見した! 良かったら大阪まで一緒に行かないかと聞いてみると、二つ返事で是非行きたいと言うのです。それでは善は急げと、すぐに新幹線と宿がセットになっている激安パックに申し込み、二人で大阪リーガロイヤルホテルへ向かいました。

この稿を書くにあたって、先日、友人と当時のことを語り合いました。彼女も2001年から2005年までの間であることは確かだけれど、それ以上はわからない。しかし大阪リーガロイヤルホテルには2泊して、朝早く東京を出た1日目の昼食と、最終日の昼食に2回王府麺を食べたことを覚えていました。私の記憶と一致していました。

2日目の中日はUSJに遊びに行ったので王府麺は食べられませんでした。あまりにも安いパックだったため、ホテルの部屋はほぼ2台のベッドを置けば一杯で、足の踏み場がないほど狭かったということを思い出して二人で笑い合いました。

愛する王府麺は、よくぞここまで正確に再現してくださったと思うほどでした。友人もおいしい、おいしい、大阪に来た甲斐があったね!と喜んでくれました。さすがに頻繁に来ることはできないけれど、また機会を見つけて来ようねと約束しました。

しかし、それからしばらくして、王府麺は大阪リーガロイヤルホテルからも姿を消しました。

私は習慣のように、時々「王府麺」を検索して存在確認をしては安心していましたが、いつの頃からかリーガロイヤルホテルのメニューには見当たらなくなり、その後、大阪の個人の中国料理店のメニューとして紹介されるようになっていました。ネットに投稿される口コミや写真を見れば、それは「あの王府麺」に違いありませんでした。おそらく、料理人が独立されたのだろうと想像していました。

しかし、なかなか大阪へ足を運ぶ機会もないままに、王府麺はどうやらこの世からその姿を消してしまったようでした。ネットの口コミを検索しても、2010年代中頃までは写真入りで王府麺についての口コミを見かけましたが、もうこの十年ほどは新しい投稿を見かけることもなくなり、お店も閉店してしまいました。

大阪にあったお店についても、様々な情報が出てはインターネットから消えていきました。元々は大阪が発祥の地なのだと書かれてる文章を読んだこともありますが、真偽のほどは不明です。わかっていることは、私はもうこの十年間、王府麺を見つけ出すことができずにいるということだけです。

◇ ◇ ◇

王府麺が私の視界からその姿を消したのは2014年のことでした。まさしくその同じ2014年に、一本の道路が完成しました。正式名称は「東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」、通称「環二通り」、あの「マッカーサー道路」がついに完成したのでした。

しかしながら、GHQの最高司令官のマッカーサーはこの道路と直接関係はないようです。なぜ俗称としてマッカーサー道路と呼ばれるようになったのかについては諸説あるようですが、少なくともマッカーサーはこの道路の計画には携わってはいなかったようです。

新橋 - 虎ノ門区間の地上部道路、通称「新虎通り」は、特にマッカーサー道路と呼ばれました。この年、虎ノ門ヒルズが開業した時、私はあの辺りを散策に行きました。もしかすると、王府はマッカーサー道路建設のためにお隣の会社などと共に移転を余儀なくされたのではないかと思ったからです。

しかし、王府のあった一角はギリギリで道路にはなっていませんでした。今回、改めて確かめに行ってきましたが、やはり間違いありませんでした。新虎通り、虎ノ門ヒルズができて、あの辺りの雰囲気は大きく変わりましました。斜めにカットされた特徴的な形の虎ノ門ヒルズには2020の東京オリンピック・パラリンピックの大きなロゴがついていました。

築地市場の豊洲への移転が延期され、新虎通りの先に伸びるはずだった「オリンピック道路」がオリンピックに間に合わなくなると大騒ぎになった時、私はまさかあの頃噂で聞いていたマッカーサー道路が再び息を吹き返し、実際に完成することになるとは、しかも築地市場が移転してその跡地にまで伸びることになるとは想像だにしなかったと感じました。

さらに言えば、そもそも二度目の東京オリンピックが開催されることも、夢にも思わなかったと感じました。街はどんどんその姿を変えていきます。考えてみれば、王府のあったあの辺りは、三百年前には浅野内匠頭が無念の切腹を果たした武家屋敷が並んでいた場所だったのです。

平家物語ではないけれど「諸行無常」。いかなるものも常に変化し続けるものなのだと感じる今日この頃です。それでも、20代の終わりに、あの辺りの路地を抜けながら王府麺を毎日食べていた日々を思うと、改めてなんて幸せだったのだろうかと思います。

初めて連れて行ってもらって以来、私は恋に落ちたように王府麺のことを思い続けてきました。料理長の戰美樸さんを始め、王府の方々には心より御礼を申し上げます。感謝しています。本当にありがとうございました。


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