138.地下鉄サリン事件の朝

本稿は、2020年3月21に掲載した記事の再録です。

3月20日は、地下鉄サリン事件から25年目になるとテレビのニュースが伝えていました。あの日から四半世紀経ったのかと思うと、あっという間のようにも、ものすごく長い年月のようにも感じました。現在還暦の私もあの日は35歳でした。

1995年3月20日。翌日の火曜日は春分の日でお休み、という飛び石連休の月曜日、私は朝一番で顧客を訪問する予定になっていました。その朝、代々木上原駅で小田急線から千代田線に乗り換えました。この電車には乗り慣れていたので、霞ヶ関駅には8:11に到着すること、一番後ろの車両に乗れば霞ヶ関駅で日比谷線に乗り換えが便利なこと、ひと駅先の神谷町駅には余裕を持って8時半前に到着できることもわかっていました。

いつもと同じように千代田線は霞ヶ関駅の大手町方面行きホームに滑り込みました。腕時計で8:11、定刻通りだということを確認した私は、最後尾のドアから出て、下りのエスカレーターに乗って日比谷線のホームに向かいました。下りのエスカレーターは、大手町方面行きではなく、向かいの代々木上原方面行きのホーム脇に乗り場がありました。

人々の流れに乗って日比谷線のホームに行き、神谷町の出口に近いようにとホームの真ん中より少し先まで歩いて行きました。通常ならホームを歩いている途中で日比谷線が入ってくることが多いのですが、あの日は、出口に近い乗り場に着いても日比谷線は入ってきませんでした。

朝の霞ヶ関ですから、千代田線と丸の内線が到着する度に、日比谷線への乗り換え客がホームにどんどんやってきます。本来なら2、3本の電車が来てもおかしくないくらいの時間が過ぎ、ホームには通常考えられないほどの大勢の人が溢れ、事故でもあったのか、顧客の訪問時間に間に合うだろうかと不安になった頃、駅のアナウンスが聞こえました。「本日の地下鉄日比谷線の運転は打ち切ります」という内容でした。

ホームの人々はザワつきました。事故の知らせでも、遅延の案内でもなく、運転を打ち切るという放送は聞いたこともないものでした。普通では考えられない何かが起こっているようでした。周囲には今のアナウンスが理解できない様子の外国人の姿もあり、あちこちで簡単な英語で説明している声が聞こえました。

私は遅刻してはならないと頭がいっぱいで、とにかく地上に出てタクシーを拾うことしました。神谷町に向かう車線でしばらくタクシーを探しましたが一台も来ないので、反対車線、つまり外務省側へ渡り、神谷町方面からくるタクシーをつかまえて、Uターンをして再び神谷町へ向かってもらうことにしました。この時点で8時半になっていて、私は焦っていました。

反対車線に渡るとすぐにタクシーが止まってくれました。Uターンをお願いすると、運転手さんは「神谷町は今、ガス爆発があったらしくて大変なことになってるよ。オウム真理教の仕業なんだよ」と言いながら、それでもUターンをして神谷町へ向かってくれました。ラジオがついていました。

神谷町の駅に近づくに連れて、真っ赤な消防自動車や救急車が何台も止まっていて、相当なガス爆発だったのだと思いました。オウム真理教がガス爆発を起こすとはどういうことなのかと不思議に思いながら、赤色灯があちこちで点滅する神谷町駅前を通り、顧客のもとへ急ぎました。

顧客の会社へ到着すると、顧客の中にもまだ出社できていない社員が何人もいて、オフィスは人がまばらな状態でした。しばらく待っていましたが、予定されていたミーティングは結局延期となりました。


自分のオフィスに戻ると、断片的に様々な情報が入ってきました。日比谷線だけでなく、同時多発的にあちこちで電車が止まっているらしく、築地とか本郷三丁目などという地名が耳に入ってきました。どうやらガス爆発ではなかったということ、そして同僚たちもあちらこちらで足止めされていて、当時はまだ携帯電話は普及していなかったので、公衆電話に長時間並んでようやく会社に連絡してきたという状況でした。そこで、まずは人員点呼をしようということになりました。

しばらくすると、サリンという言葉が聞こえてきました。通勤途中でサリンの撒かれた地下鉄に乗り合わせ、警察官から毒ガスが付いているので今すぐに全員コートを脱ぐように、バッグも中身だけを配布する透明なビニール袋に入れるように言われて、コートもバッグも没収され、3月だというのにコートなしでビニール袋片手に出社してくる同僚も数名いました。

透明なビニール袋の中にはお財布や化粧ポーチがそのまま入っていました。一旦サリンが付着すると、天日干しをしても除去されるまで何千時間もかかるから処分されてしまうということで、ひとりはクリスチャン・ディオールの買ったばかりのバッグなのにと嘆いていました。

連絡の取れない社員も少なからずいました。あとになってみると、事件のことなどまったく知らずに顧客先で仕事に没頭していた者もいれば、病院に搬送され手当てを受けていた者もいました。


仲の良かった同僚のひとりは、日比谷線に乗っていて、六本木を出たところで車内の様子がおかしくなり、皆んなが口々に「窓を開けろ」と叫び、次々に窓が開け放されていくうちに神谷町に到着し、多くの人々がホームに倒れ込むという事態に遭遇しました。

彼女は、座席から立ち上がった瞬間、空気の濃度が変わったように感じたと言っていました。乗り合わせた見知らぬ人と2人で、ふらつく人を両脇から支えながら、パズルのように倒れている人々の合間をぬって地下鉄の階段を昇り、地上に出たところで力尽きて倒れていたら「もう救急車は一杯だから、このライトバンに乗りなさい」と言われ、病院に搬送され、数週間入院することになりました。

彼女はまだ意識のある内に、救急隊の人に名刺を渡して、会社に連絡してくれるよう頼んだということでしたから、おかげでご家族にも連絡を取ることができました。けれども身元不明のまま入院された方も多かったようです。あの日は人員点呼の難しさを痛感させられました。

その日は帰宅して夜のニュースを見て初めて全体像がぼんやりわかってきました。そして、春分の日をはさんだ翌々日にカナリアの籠を先頭に、大勢の警察官が上九一色村のオウム真理教のサティアンに突入し、事件の全貌が次第に明かになっていきました。

驚くことが次々に報道されていきましたが、私にとって一番の衝撃は、8:11に霞ヶ関駅の助役さんが代々木上原行きの電車の先頭車両にあったサリンを処理しようとして亡くなったということでした。代々木上原行き電車の先頭車両ということは、その目の前を、私は下りエスカレーターに乗るために通っていました。

私は大手町方面行きの電車の最後尾に乗って霞ヶ関駅に着いた時、腕時計で8:11の定刻であることを確認したのをきちんと覚えていました。報道によれば、助役さんがサリンを処理してくださったのは、まさしく同時刻、8:11でした。何度も記憶の糸を手繰り寄せてみましたが、私は下りのエスカレーターに乗ることばかりに意識が向いていて、新聞紙に包まれたサリンの容器ビニール袋や、それを素手で運んで多くの人々の命を救ってくださった助役さんを見た記憶はありません。

けれどもあの時、高橋助役の行動がなければ、さらに大惨事になっていたことは間違いなく、大勢の乗客の命が守ってくださったことに深く感謝し、四半世紀、霞ヶ関駅のエスカレーターを昇り降りするたびに、地下鉄サリン事件が報道されるたびに、心の中で手を合わせてきました。

今年は、25年間後遺症に苦しんで来られた方が亡くなられたという報道もあり、心が痛みました。この事件で亡くなられた14名の方々を始め、後遺症で苦しんできた方々に降りかかった災難は決してひとごとではなく、紙一重で私自身の運命にもなり得たことでした。亡くなられた方々に謹んでご冥福をお祈り致します。


友人は幸い後遺症も残らず社会復帰することができました。後日談になりますが、事件から時が経ったある日、その友人から「村上春樹っていう作家知ってる?」と聞かれたことがありました。彼女はスポーツ好きで文学書などは読まないので、本好きの私に聞いたのだと言います。

村上春樹は、数々の文学賞も受賞している有名な作家だと答えると、「じゃあ、変な電話じゃなかったんだ…」と呟きながら、実は出版社から電話があって、村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者から直接話を聞いて、この事件のことを作品にしたいので取材させて欲しいといわれたのだそうです。

その後、彼女は熟考の結果、このインタビューを断ったそうです。その理由は、あの日のことを思い出すだけで苦しくなるからというものでした。それからしばらくして、『アンダーグラウンド』は出版されました。あのインタビューに応えた被害者の証言がどれだけ貴重なものかは、彼女の葛藤を通して私にも感じられました。

四半世紀の間、私がずっと不思議に思っていることは、あの朝タクシーの運転手さんは、8時半の時点で、ガス爆発とはいえ、どうしてオウム真理教による事件だと言ったのかということです。できるものならば、一度運転手さんに会って聞いてみたいものです。

(2021年6月20日追記)
地下鉄サリン事件 警察無線を地図で再現 前編(Youtube
同上 後編(Youtube


<再録にあたって>
この2年間で、神谷町駅前の風景も大きく様変わりしました。虎ノ門・麻布台プロジェクトが急ピッチで進められています。64階建のビルを始め、六本木ヒルズに匹敵するほどの大プロジェクトで進んでいます。

地下鉄サリン事件の朝に私が訪ねたのは、ホテル・オークラやスペイン大使館近くの顧客でしたが、あの頃はあの辺りは一本入るとまだ木造の民家が立ち並んでいて、洗った子どもの長靴が垣根に逆さまになって干されているのをよく見かけたものでした。


000.還暦子の目次へ

いいなと思ったら応援しよう!