282.通勤電車今昔

最近、首都圏の電車が停電や架線事故などで運転見合わせとなったり、大雪の影響であちこちの駅が大混雑している映像を見ながら、昔も色んなことがあったと懐かしくなりました。

懐かしいといっても決していい思い出ではなく、国鉄や地下鉄のストライキの時には、あまりにも人が多過ぎて駅のホームから落っこちるのではないかという恐怖すら味わいました。永遠に来ないと思われるバスがやっと来て、ギュウギュウ詰めになって職場に向かったこともありました。

電車通勤通学風景も随分変わりました。そこで今回は通勤通学の電車についてこの半世紀近くを振り返ってみようと思います。

私は東京の西の郊外に住んでいました。1978年からの学生時代は小田急線+国鉄、1982年に就職してからは小田急線+千代田線で通っていました。


1.身長の伸び

私が当時と今とで一番違うと感じるのは、何と言っても日本人の身長です。

私は身長が165センチあり、女性としては背の高い方です。その私が数センチ程度の踵のある靴を履くと170センチ近くになりました。1980年頃の電車内では、男性女性を問わず私は多くの人より背が高かったのです。

日本人の平均身長の推移を見ると、日本人男性の平均身長が170センチを超えたのは1990年を過ぎてからです。戦前、160センチ程度だった平均身長は半世紀で一気に10センチほど伸びて、1990年を過ぎてからは172センチ程度でほぼ横ばいです。

1978年当時、私が大学生になって電車に乗り始めた頃、多くの会社の定年は55歳でした。当時55歳だった方々は、1923年生まれ、つまり関東大震災のあった大正12年に生まれた方々でした。また、当時の高校生1年生は1962年(昭和37年)生まれでした。

大正生まれ、昭和一桁生まれの男性の平均身長はおおよそ160センチです。あくまでも平均身長ですから、私が10代20代の70〜80年代、150センチ台という男性は少しも珍しいことではありませんでした。私は秘書課で働いていましたが、当時の役員の方々で、数センチヒールの靴を履いた170センチの私よりも背の高かった方は数えるほどでした。

ところが最近電車に乗ると、私よりも背の低い男性を探す方が難しいくらい、みんな背が高くなったと感じます。私の親の世代が鬼籍に入り、子の世代が社会の中核になりつつあるからでしょう。

ちなみに、女性の身長も伸びました。女性の平均身長も戦前では148センチ程度でしたが、半世紀で一気に10センチほど伸びて158センチくらいになりました。当時は専業主婦が多く、年配女性が通勤電車に乗っていることはそれほど多くはありませんでしたが、たまに140センチ台の方が人の波の中で溺れそうになっているのを見かけたものでした。

時たま、高校生や大学生に囲まれて視界が塞がれ、身動きが取れないような時には、若かった頃、今の私と同じくらいの年配の女性はさぞや心細い思いをしていたことだろうと思います。

2.足の踏ん張り

さて当時の満員電車は今日の比ではなく、もっとギュウギュウ詰めでした。電車が到着する駅のホームには人が溢れかえっていて、下車する人のスペースなどないように見えましたが、不思議と下車する人の降り立つ場所はあり、ただでさえギュウギュウ詰めで、これ以上誰も乗れないと思った電車に、あのホームに溢れかえっていた人々が乗り込んでいきました。

さらに、電車の制御機能も今ほど高性能ではなかったようで、急ブレーキは今よりももっと頻繁にあったように思います。あまりに混雑していて乗客数に対して吊り革や手すりの絶対数がそもそも足りていないので、急ブレーキのたびに、人波が前へ後ろへ、右へ左へと大揺れになりました。

私は、大揺れになるたびに、もちろん自分でも吊り革を持っていれば全体重をかけて踏ん張るのですが、つかまるものがない場合、周りのおじさん達の頑張りに支えられているのを感じていました。みんな必死になって吊り革の上の棒を両手で握りしめたり、窓に手を突いたりして、なんとか「なだれ」による事故を防ごうと懸命に踏ん張ってくれていました。

ところが、いつの頃でしょうか。私が30代も半ばになる頃、あまり頑張らない人が増えてきたと感じるようになりました。何がなんでも絶対になだれの事故は起こさない、自分の体重は自分で支えるという一人一人の気概が薄れて、だって急ブレーキなんだから仕方ないよというように、人波に体を預けるような人が増えて、人波の振り幅が大きくなったように感じました。

思い起こせば、それは大正生まれ、昭和一桁生まれが定年を迎えて通勤電車から引退した頃だったように思います。

3.新聞

新聞が日常生活から急速に姿を消しつつあります。2026年現在、電車の中でで新聞紙を広げている人を見かけることはまずありません。もちろん電子版を契約していて、スマホやタブレットで新聞記事を読んでいる人はいるでしょうが、電車内の光景はすっかり変わりました。

私が電車通学・通勤を始めた1970年代後半から80年代90年代にかけては、朝の通勤電車と新聞紙は切っても切れない関係でした。スーツを着た勤め人の多くが新聞紙を縦に半分に折ったり、さらにもう半分に折ったりして、狭い車内の空間でなんとか工夫して読んでいました。

大混雑した電車内で新聞を読むためには、吊り革につかまって新聞紙半分の空間を確保する必要がありました。ギュウギュウ詰めの車内では、自分の新聞が拡げられずに、他の人の新聞を後ろから覗き込んだり、あるいは反対側から裏面の記事を読んだりしている人もいました。覗き込んでいる人が読み終わったかどうかを配慮してくれる親切な人もいました。

大きな事件や事故があると新聞の大きな活字があちこちで踊り、新聞社ごとの見出しのつけ方の違いも一目瞭然で、ただ電車に乗っているというだけで社会の様子がわかりました。

昔、横須賀線の通勤風景というモノクロの写真を見たことがありました。何か賞を受賞した作品だったと思います。一車両に乗っている人全員が日経新聞を読んでいるという写真でした。

あの頃の新聞は、もっと活字は小さかったし、印刷のインクの質も悪くて、読んでいるうちに指先が真っ黒になったものでした。

◇ ◇ ◇

一方、最近はめっきり目にしなくなりましたが、夕刊紙の存在も大きなものでした。帰りの通勤電車の中では、オレンジ色の「夕刊フジ」(2025年1月で休刊)や「日刊ゲンダイ」の文字があちこちで翻っていました。

駅の改札口やホームには、今よりももっと多くの駅の売店、kiosk があり、毎日のように夕刊紙のオレンジ色の大見出しが踊っていました。えっ?!、そんな事件が起きたの?と驚いて近づいてみると、かなり小さな活字で「か?」という疑問符がついていたり、化かし合いのような販売でしたが、みんな眉唾物と知りながら購入していたようでした。

各種スポーツ紙も人気でした。私はスポーツ音痴でスポーツ紙の種類はよくわからないのですが、あの頃は扇情的な記事ばかりを掲載していて、「日付以外はすべて誤報」と揶揄されたスポーツ紙もありました。

帰りのそれなりに余裕のある電車内で、スポーツ紙やタブロイド版の夕刊紙を大きく拡げて読んでいる人は大勢いました。当時、私にとって不快だったのは、読んでいる紙面の反対側に印刷されている女性のヌード写真や、連載の官能小説の挿絵でした。オススメの性風俗店の紹介記事なども、電車内という公の場で、当たり前のように読まれていました。

時々「あなたが知りたいのは、野球や相撲の勝敗の結果かもしれませんが、その記事の裏側には女性のヌード写真が全面に印刷されていて、あなた自身がこういう記事に興味がある人だと思われかねませんよ。私は先ほどから目のやり場に困っています」と注意したいと思ったことが何度もありました。

それから、性風俗店やキャバクラに勤めている女性の写真付きの記事があっちでもこっちでも拡げられているのを見て、このお嬢さんは取材を受ける時に、まさか電車全体で自分の写真がこれほど大々的に見られるとは想像していなかったのではないかと心配になったりもしました。

いずれにしても、毎日毎日、仕事帰りに公然と、男性の剥き出しの欲望を見せつけられるのは敵わないと思っていました。

1996年(平成8年)の秋、日本航空、全日空、日本エアシステムが、機内での 『週刊ポスト』『週刊現代』の無料配布を中止すると発表しました。その理由は、外国人乗客から「これらの週刊誌には女性のヌードグラビア(特にヘアヌード)掲載に不快感を覚えるという苦情があったからだということでした。「機内という閉ざされた空間で読まれると配慮が必要」という航空会社側の判断で「機内から外した」という対応がなされたと報じられました。

私はこの報道に接した時、黒船現象はここでもかという思いと共に、滅多に乗らない飛行機のことよりも、毎日乗っている電車内の夕刊紙は、このまま野放しでいいのかと憤りを覚えました。中学生も高校生も毎日乗っている電車内で、表紙の付いている週刊誌よりももっと周囲に影響の大きい夕刊紙がヌード写真や挿絵や性風俗店記事を辺り一面に見せつけているのでした。

結局、この問題は、インターネット・ケータイ電話の普及に従って、新聞紙自体の衰退によって自然消滅するまで、野放しにされたままでした。

ところで、主に夕刊紙でしたが、それ以外の新聞や週刊誌も読み終わったら網棚の上に置いておくという興味深い不文律がありました。そしてそれに気づいた人はその新聞・雑誌を手に取って読み、自分の降りる駅でまた網棚の上に置いていきました。千代田線、小田急線ではよく見かける光景でした。

女性が網棚の上の新聞や雑誌を手に取って読んでいる姿を私は一度も見たことはありませんでしたが、男性はごく普通にやっていたように思います。なかなか便利な互助システムだと感じていましたが、今は当時とは随分と衛生観念が変わってきているので、最近の若者は他人の読んだ新聞なんてと敬遠しているかもしれません。

4.雑誌の中吊り広告

今ではすっかり見かけなくなりましたが、1970年代後半から2010年頃までは電車に乗れば必ずと言っていいほど週刊誌の中吊り広告が下がっていました。車内の週刊誌広告によって今日が何曜日かわかるほどでした。

新聞社系の主な週刊誌には次のような雑誌がありました。
週刊朝日(創刊1922年、以下創刊年の西暦下二桁のみ)、サンデー毎日(22)、週刊読売(43)(現在:読売ウィークリー)、週刊サンケイ(52)(現在:SPA!)、朝日ジャーナル(59、92年に廃刊)、AERA(88)など。

出版社系の主な週刊誌には次のような雑誌がありました。
週刊新潮(創刊1956年、以下創刊年の西暦下二桁のみ)、週刊文春(64)、週刊現代(66)、週刊ポスト(69)、Focus(81、2001年休刊)、Friday(84)、FLASH(86)など。

主な女性誌には、週刊女性(創刊1958年、以下創刊年の西暦下二桁のみ)、女性自身(58)、女性セブン(63)、an・an(70)、Hanako(88)など。

月刊誌では、中央公論(創刊1922年、以下創刊年の西暦下二桁のみ)、文藝春秋(23)、世界(46)、NON-NO(71)、JJ(75)、MORE(77)を始め大小様々な出版社が発行していました。

朝夕の満員電車の中で吊り革にも手すりにもつかまれず、揺れた拍子に片足の置き場がなくなり、バッグも手から離れてその辺りで浮いているなんていう状況の中では、新聞も文庫本も読めないので雑誌広告は有り難い存在でした。世の中の動きが実によくわかりました。自分の興味のあるトピックスが掲載されている雑誌は、ホームの売店でよく買ったものでした。

Focus の発行で一世風靡した写真週刊誌は、一時期「3FのET(三階のET)」と呼ばれたほどで、Focus、Friday、Flash、Emma、Touch と大手出版社の特ダネ合戦でした。芸能人の私生活を暴くような記事が多く、評判は芳しいとは言えませんでしたが、私自身は、いつまでも日本が戦争とは無縁に、こういう記事の是非が問われる時代が続いて欲しいと願っていました。

私は視力が良く、隣の車両の中吊り広告まで読めるのが密かな自慢でした。そのため、細かな広告の見出しもすべて読むことができたので、政治経済を始め、ファッション、趣味、健康など社会のあらゆる情報が目に飛び込んでくる中吊り広告のおかげで、多くのことを学ぶことができました。

「出版不況」と言われるようになって久しいですが、2000年頃までは右肩上がりで出版点数は伸びていました(推移はこちら)。私は70年代の終わりから、80年代、90年代と雑誌が一番元気だった時代に通勤通学していたので、電車の中吊り広告には本当に楽しませてもらいました。

しかし、2010年頃から少しずつ中吊り広告から撤退する雑誌が増え始め、2021年8月、遂に業界トップの週刊文春も中吊り広告を終了すると発表しました。同時期に週刊新潮も車内広告を終了しました。この終了宣言によって、ほぼすべての雑誌の中吊り広告は電車内から姿を消しました。ひとつの文化の終焉を感じました。

5.読書

行きのギュウギュウ詰めの電車ではなかなか本を読むことすら難しい状況でしたが、それでもなんとか工夫を凝らして読書にいそしむ人はいました。文庫本、新書、それに図書館で借りてきた単行本、資格試験の参考書、旅行のガイドブックと、さまざまでした。帰りの電車では比較的ゆったり、読書にふけっている人があちこちにいました。

私は視力が良かったので(その為か40歳位から始まった老眼に今は苦労していますが)、周囲の人たちがどんな本を読んでいるのかもよく見えました。

あの頃、一番印象的だったのは、多くの勤め人が司馬遼太郎の著書を読んでいたことでした。10代、20代の頃の私は不遜にも、日本人の大多数は農民だったのに、どうしてこれほど多くの人々が、戦国時代の豪傑や、明治維新の志士たちの物語を夢中になって読むのだろうかと不思議に感じていました。

ところが、自分が30代になって実際に司馬遼太郎を読んでみると、眠る時間も惜しいほどになりました。文庫化されている著書はすべて読破したほどです。1996年2月、司馬遼太郎の訃報が報じられた日、私は霞ヶ関駅のホームの売店で、彼が所属していた産経新聞はもちろんのこと、朝毎読日経の全部の夕刊を買って電車に乗り、記事を読んでいるうちに涙がこぼれて仕方がなかったことを覚えています。

電車の中では時のベストセラーもわかり、同じ車両で同じ本を読んでいる人を見つけるとちょっと嬉しい気分になりました。芥川賞、直木賞、群像新人賞など文学賞に輝いた作品は本当によく売れていました。

6.マンガ雑誌

また、マンガ雑誌が電車内で読まれるようになったのも、1980年前後、丁度私が電車に乗り始めた頃です。今日においてはサブ・カルチャーどころか、もはや日本のメイン・カルチャーともなっているマンガですが、あの頃、電車内でマンガを読む大学生は「低俗」呼ばわりされていました。新聞の読者欄でも「近頃の若い者は」とよく批判されていました。

70年代半ばまで、1959年に創刊された「少年マガジン」や「少年サンデー」などのマンガ雑誌というものは、小中学生が自宅で読むものとされていました。1968年に「少年ジャンプ」が発行され、読者が成長するにつれて、マンガ雑誌は電車内でも読まれるようになっていきました。1968年に小学3年生だった子どもは、1978年に大学生になっていました。

さらに、1979年には「ヤングジャンプ」、1980年に「ヤングマガジン」や「ビッグコミックススピリッツ」などが大人の読者を対象に発行され、私と同世代のマンガを手にした大学生が就職して社会に出ると、今度は「社会人のくせにマンガなどを読みおって」と言われるようになっていきました。

電車内でマンガを読むことは、少しずつ、年々市民権を得てきました。その世代が働き盛りとなり、管理職となり、さらには定年を迎えるようになった今、もはや電車内でマンガを読むことを非難する人はいなくなりました。そして、マンガ雑誌自体が姿を消し、スマホに吸収されてしまいました。

7.ウォークマン

SONYが初めてウォークマンを発売したのは、1979年7月でした。それまでは、電車内で、片耳にイヤホンをつけて競馬や株式や高校野球などを聞いている人はチラホラ見かけましたが、発売するや否や、ウォークマンはあっという間に若者の間に広がりました。初期は簡易なヘッドホン型でした。

私自身がウォークマンを購入したのは、就職した翌年1983年2月に、FMチューナーと防水機能が売り物のスポーツタイプのものでした。その頃には半数以上の友人がウォークマンを持っていました。

このウォークマンの騒音は、当然のように満員電車内で問題になりました。何しろ、身動きが取れないほど隣の人と、というより周囲の人々と体をくっつけ合っているのですから、ヘッドホンから漏れる音が周囲に漏れないわけはありません。

ロックの大音量、特にリズム系の音がずっとカシャカシャ鳴り続け、見かねた大人が若者を注意して小競り合いになることも珍しくはありませんでした。鉄道会社もポスターや車内放送などで注意喚起をしていましたが、効果があったとは言い難いものでした。

私自身は、満員電車で周囲に配慮して音量を下げると音が聞こえず、音量を上げると周囲に気兼ねしてしまって集中できず、という具合で、試行錯誤の挙句、結局、持ち歩くのはやめにしました。もったいない買い物でした。とは言え、あの当時は買わずにはいられない流行の品物でした。

ちなみに、私は短期間ウォークマンに挑戦しましたがすぐに諦めて、小型ラジオのイヤホンを片耳に入れ、語学講座を聴きながら通勤していました。あの頃は、今と違ってリアルタイムで聴く以外に方法がなかったので、毎朝、語学講座時間に合わせて電車に乗るようにしていました。

ウォークマンだけでなく、さまざまなメーカーからさまざまな種類のポータブルオーディオプレーヤーが発売されていき、また、簡易型ヘッドフォンからイヤホンへ、そしてイヤホンも次第に性能が上がっていきました。

マンガ雑誌と同じように、今日では電車内でイヤホンをしていることを非難する人もいなくなりました。かつてほど大音量でロックを聴く人もあまり見かけなくなり、騒音問題もかつてほど大きな問題ではなくなりました。

8.駅の売店

通勤電車の思い出は語り尽くせぬほどあります。例えば、ホームや改札近くの売店も2000年代の後半に入ると次第に姿を消して、最近では自動販売機が置かれるようになりました。しかし、80〜90年代には、駅のホームの売店の需要たるや、大変なものでした。常に賑わっていました。

私は千代田線と小田急線の乗り換えで、代々木上原駅のホームの売店でよく利用しましたが、わずかの間に乗り換え客がどっと押し寄せ、次々に新聞やらガムやら雑誌やらマスクやら葬儀用のネクタイやらと品物と一緒にお金を差し出すのですが、売店の販売員は、まるで千手観音かと思うように見事にさばいていました。私はギネス記録に挑戦したらどうかと思っていました。

9.改札の切符切り

通勤・通学電車で忘れられないものに改札口の「切符切り」もありました。改札口では、カチカチと切符切りのハサミの音が鳴り響き、通勤通学客は切符切りの駅員さんに定期券を見せながら通ったものでした。

1990年代に入ると裏側に磁気の入った切符や定期券の自動改札口が始まりました。1990年代後半には、自動改札機は一斉に普及しました。

そして、2001年11月にSuicaが登場すると、こちらもまた瞬く間に普及していきました。JR東日本のSuicaに続き、2003年にはJR西日本でICOCA、2006年にはJR東海でTOICAが始まり、首都圏で地下鉄や私鉄のPASMOが登場したのは2007年でした。今ではスマホやスマートウォッチをかざして改札口を通る人も徐々に増えてきました。

SuicaやPASMOが登場するまでは、一々駅の自動販売機に並んで切符を買わなければなりませんでした。コンサートなどのイベントがある時には「今のうちに帰りの切符をお買い求めください」とアナウンスが繰り返されていました。私はSuica発売と同時に飛びつきました。

10.振り返って

通勤・通学電車について書いていると、さまざまな思い出が蘇ってきます。これまでにも痴漢について(痴漢は犯罪です)、電内冷房について(環境問題と生活)、また電車内でのお節介おばさん(電車内のお節介)についても書いてきました。

今回も、こうして振り返ってみると、昔はもっと人と人との距離が近かったような気がします。今では、多くの人々が一心不乱にスマホを眺めていて、他者への関心が薄らいでいます。

車内の新聞や雑誌のことを思い出すと、人々が社会の問題点や関心事を共有していた感覚があったように思いますが、今ではそのような感覚も希薄になってきました。他者との繋がりをより緊密に、便利になるようにと発展してきた技術のために、かえって一人一人が孤立して行ってしまったというパラドックスを感じます。

1978年から2026年まで、わずか48年間のことですが、されど48年間、振り返ってみると、今では新聞も雑誌も小説もマンガも音楽もヌード写真も切符も定期券さえも、何もかもがスマホに中に閉じ込められて、周囲の人々が何に関心があるのか、今、何をしているのかがわからない時代になりました。

今後は、どんな風に変化していくのでしょうか。


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