272.じじばば
子どもの頃、近所に「じじばば」と呼ばれる駄菓子屋がありました。今、文章にしようとして初めて気がついたのですが、お店の正式名称は誰も知らなかったと思います。それどころか近所の人たちは何かの折に改まって呼ぶ際には「じいさんばあさんの店」と丁寧に呼び慣わしていました。
けれども人々が「じじばば」と口にする時には、なんとも言えない親しみと敬意がありました。「じじばば」は地域の人たちみんなに愛されていたお店でした。
私たちは小学校からの帰り道「じゃ、ランドセル置いたら『じじばば』でね!」と言って友人と別れ、家の玄関、というより靴も脱がずに、庭先からランドセルを放り込むようにして家の中に入れると、そのまま「じじばば」目指して駆け出して行ったものでした。
「じじばば」には、魅力的なものがたくさんありました。一体何から語ったらよいのかわからないのですが、思いつくままに書き連ねてみると、食べるラムネに飲むラムネ、5円のアイスキャンディー、風船ガム、サイコロキャラメル、ライスチョコ、シガレットチョコレート、金貨チョコ、クジのついたお菓子、ビー玉、銀玉鉄砲、穴のあいた紙テープなどなど、今でも店内の光景が目に浮かびます。
子どもの頃、私はビー玉の値段が不思議でなりませんでした。「じじばば」での一番大きなビー玉はひとつ5円、きれいな色が入ったビー玉はひとつ2円でした。そして、ちっちゃな薄緑色のビー玉は3個で1円でした。1個の値段は一体いくらなのか不思議でならず、来る日も来る日もちっちゃなビー玉のことを考えていました。円周率に触れる前に初めて感じた数の不思議でした。
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「じじばば」ではなぜか食パンも売っていました。日曜日の朝などに、お使いで朝食の食パンを買いに行きました。パンは8枚切りで、袋には丸で囲んだ40という文字が赤いインクで印刷されていました。食パンの値段は一斤40円でした。
私が「食パンひとつくださいな」とちょっと節をつけて言うと、じじばばは「お使いとは偉い、偉い」と言って、40円を受け取ると、代わりに食パンと、赤いセロファン紙に包まれたバターキャンディー2個か、あるいはウサギとリスの絵が描いてあるクッピーラムネのどちらかをくれました。私はこんなお菓子をもらっては、じじばばが貧乏になるのではないかと心から心配でなりませんでした。
じじばばはお二人とも、子どもたちが元気に成長していくのが何よりの幸せといった様子でした。アイスキャンディーの棒に「当たり」が連続して出た時や、くじ引きのお菓子で一等賞が出た時など、当の子どもよりもじじばばの方が喜んでくれました。
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「じじばば」の店主は、その名の通りおじいさんとおばあさんだと思っていましたが、今思えばあのお店の店主はおそらく四十代後半か五十代、違うとしてもせいぜい六十代前半だったように思います。
1969年(昭和44年)放送開始のテレビアニメ「サザエさん」で、磯野波平さんは54歳、フネさんは52歳だと設定されているそうです。タラちゃんから見れば二人は祖父母ということになるので、じじばばが五十代というのは、少しもおかしいことではないと思います。
駄菓子屋さんで、もしも波平さんとフネさんが出てきて「はい、いらっしゃい」と迎えてくれたなら、子どもたちは素直に「おじいさんとおばあさんの店」だと思ったことでしょう。子どもの頃、私の中でのおじいさんおばあさんの定義は「普段、着物を着ている人」でした。
そういえば、小説に出てくる「ばあや」や「じいや」というのは一体何歳くらいの人を指すのだろうかと、私は長年に渡って疑問に思ってきました。小説の中で「ばあや」は炊事洗濯など家事一切を引き受け、「じいや」も大工仕事や薪割りを担当していますから、おそらく四十代から五十代だったと思われます。
例えば、夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる「十年来召し使っている清という下女」も、坊ちゃんに「婆さん」と呼ばれていますが、炊事洗濯一切を引き受けるどころか、うっかり者の坊ちゃんを助けて様々に活躍します。
例えば、坊ちゃんが清に貰った三円の入った蝦蟇口を懐へ入れて、便所ですぽりと後架の中へ落としてしまった時、清は早速竹の棒で取り出して、井戸端でざあざあと竹の先へ蝦蟇口の紐ひもを引き懸かけたのを水で洗い、それから壱円札を火箸で乾かしてこれでいいでしょうと差し出します。
坊ちゃんがちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化ごまかしたか札の代りに銀貨を三円持ってきてくれた、とあります。「婆さん」と呼ばれた清ですが、さしずめ現代なら「おばあさん」というよりは「おばさん」でしょう。
余談ですが、「ねえや」というのは何歳なのだろうかと疑問も長年ありました。「ねえや」についても「赤とんぼ」の唄の歌詞に「十五でねえやは嫁にゆき、お里のたよりは絶えはてた」とありますから、ねえやは十代前半だったと思われます。丁稚も十歳くらいから奉公に出たと言われています。
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1964年(昭和39年)からコロナ禍を除いてほぼ毎年続いている日本近代文学館主催の「夏の文学教室」では、当代の人気作家が目の前で講演をしてくださるのが魅力で、私も何度か聞きに行ったことがあります。二十年ほど前に藤本義一氏のお話を聞いていたら、藤本氏は大学の卒業論文で「定年」について調べて書いたと話しておられました。
藤本氏によれば、日本で最初に「定年制」を導入したのは明治時代の日本陸軍だったそうです。その頃の日本人男性の平均寿命は48歳だったので、まぁ55歳にしておけば良いだろうということで定年は55歳となり、次第に省庁にもこの定年制は拡がり、さらに民間企業にも普及していったということでした。
実際に日本人の平均寿命を調べてみると、大体どの統計を見ても戦前は50歳に届くことはなく、30代か40代となっています。世界的にも平均寿命が50歳を超えるようになったのは、第二次世界大戦後のことです。
戦後、急激な医療の進歩や、食べ物、生活習慣の変化などによって平均寿命は伸び、日本では男女共に80歳を超えて世界第一位、世界を見渡してみても、各国の平均寿命は176ヵ国で60歳を超えるようになりました。人類史始まって以来のことです。2024年の日本の人口ピラミッドを見てみると、50歳以上の人口と、49歳以下の人口はほぼ半々となっています。
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子どもの頃の「じじばば」という言葉には、温かみや親しみがありました。敬愛の念が込められていた呼称だと感じていました。
日本昔話は大抵「昔あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」という出だしで始まります。私が子どもの頃は、話をする大人も、話を聞く子どもも、みんながおじいさんおばあさんに親しみを感じ、敬愛していました。
しかし、日本独特の若さ信仰もあってか、令和の世では、孫が祖父母を呼ぶ場合をのぞいては、他者をおじいさんおばあさんと呼ぶことは失礼とされているようです。
若い頃からフランスかぶれだった私ですが、フランスでは「mature(成熟)」の方が「jeuness(若さ、未熟)」よりも価値があります。他の欧米諸国でも、日本ほど若さに価値を置いている国はないと感じています。私は日本の過剰なまでの若さ信仰に疑問を持ってきましたが、そんな私でも見知らぬ人から「ちょっとそこのおばあさん」と声をかけられたらイヤな気分になると思います。
私は既に65歳で高齢者であり、映画館ではシニア料金を支払っているのにです。なぜだろうと考えてみると、現在、他者へ対する「おじいさん、おばあさん」の呼称には、親しみや敬愛が感じられないからではないかと思うのです。
「世代間格差」という言葉に代表されるように、いつのまにか高齢者は若い世代から疎まれる存在になってしまいました。平均余命では、私はあと20年以上は生きることになっていますが、今後、再び高齢者が若い世代から敬愛されるような社会にするには、一体どのようにしたら良いのでしょうか。
『坊ちゃん』の最後は、「婆さん」と呼んでいた下女の清の話で次のように終わります。
清の事を話すのを忘れていた。——おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
主人公坊ちゃんがどれほど清のことを大切に思っていたのかが伝わってきます。きっとそれは、清が坊ちゃんのことを誰よりも大切に可愛いがってきたからでしょう。昔話に出てくるおじいさんもおばあさんも、かぐや姫や桃太郎を無私の心で育てあげ、お地蔵様には菅笠をかぶせてきました。
おじいさんやおばあさんや清が大切にしてきたのは、血縁関係のある子や孫ではないというのも興味深いところです。
いつも優しいまなざしで、私たち子どもを見守ってくれていた、あの懐かしい「じじばば」を思いながら、高齢者が再び若い世代から敬愛されるような社会、つまり、まずは高齢者が次世代を思いやり、大切にしていく社会を実現させるには、一体どのようにしたら良いのかを我が身を振り返りながら考えていこうと思います。
