275.ごっこ遊び@‘60

子どもの頃の1960年代、そのあたりに生えている草花で私たちはよく遊びました。私は東京の西の郊外に住んでいました。

春になると、家の近くのつつじの植え込みが満開になりました。つつじの色は紫がかった赤で、私たちは花の根本を摘むと、そのまま切り口から甘い蜜を吸い上げました。蜜がなくなると次の花を摘み、また蜜を吸うのです。甘い蜜が口の中に広がっていくのは快感でした。子どもたちは大抵4、5人で、次から次に蜜を吸ってはどんどん花を摘んでいきました。

小学校への通学路にもつつじの植え込みがあって、私たちは通園・通学途中でもつつじの蜜を吸っていました。今思うと、そんなに花を摘んではいけないと大人は注意しなかったのかと思いますが、誰にも注意された記憶はありません。それどころかこれを書きながら思うのは、あの花の根元をじ切るように摘むやり方は、きっと誰か大人が伝授してくれたのだろうということです。

私の記憶の中にある1960年代の大人たちは、誰の親かどうかに関係なく、近所の大人は子どもにいろんなことを教えてくれました。草笛の鳴らし方、笹舟の作り方、自分の親ではない大人たちがお手本を見せてくれて、手を取って教えてくれました。

さて、その蜜を吸い終わったつつじの花ですが、大抵はそのまま地面に捨てられてしまうのですが、幼稚園や学校から帰ってきてから、みんなで色水を作ってジュース屋さんごっこをしたことをよく覚えています。

つつじの花と水を容器に入れて、ぐるぐるかき混ぜながら、花びらを潰すようにしていくと、次第に花びらの色が水に移っていきます。あの頃は、そこいら辺に落ちていた空き瓶やら古い食器やらを拾ってきて、棒でかき混ぜていました。水の色が少しずつ赤く染まっていくのはきれいでした。

それを色水が綺麗に見える牛乳瓶やヨーグルトのガラスの空瓶に、色の濃いものや薄いものをいれて台の上に一列に並べます。そうして店主役が「今日はなんにしましょう?」と聞くと、お客役が「今日はどうしようかしら、イチゴ味をひとつください」とか「そうね、スイカ味をいただくわ」などと大人っぽく答えます。

お金はキツネやタヌキじゃありませんが、つつじの葉っぱでやり取りしました。「あら、今日はこまかいのがないわ」とか「はい、おつりです」なんてやりとりもありました。原材料のつつじの花も、それを購入するつつじの葉っぱもいくらでもありました。

◇ ◇ ◇

夏になると、色水のバリエーションが増えました。つゆ草の青は、実に美しい色になりました。大人になって、つゆ草から抽出された染料は水洗いすると色が流れるという理由から、つゆ草は友禅染めの下絵にも使われていたと知りましたが、子どもの頃はそんなことはまるで知らずにせっせと摘んでは「限りなく透明に近いブルー」の色水を作って「売って」いました。

さらに、夏休みに入る頃には、色とりどりの朝顔が咲き誇り、色水ジュース店は益々活況を呈していきました。朝顔は、赤、青、紫などがあり、濃淡をつけて美しい色水がたくさんできました。

オシロイバナも美しい色水ができました。私の家の庭にはオシロイバナが咲いていましたが、この花は、濃いピンクと黄色い花と白い花が同じ茎から生えているのでした。しかも、白い花にピンク色が差し色のように入ったり、黄色とピンクの縞々模様になったりと不思議な花でした。けれども私の記憶ではオシロイバナから黄色い色水を作った記憶はありません。

この色水ジュースを作っていると指先がすっかり花の色に染まってしまいます。ずいぶんあとになってから安房直子の『きつねの窓』を読んだ時、子どもの頃のジュース屋さんごっこを思い出しました。『きつねの窓』という童話は、1977年(昭和52年)に6年生の国語の教科書にも掲載されたので、ご存じの方も多いことと思います。

このお話のあらすじは、次の通りです。あらすじを知りたくない方は、網掛け部分は読み飛ばしてください。

主人公の猟師が、ある時道に迷って、一面、青いききょうの花畑で、一匹の白い子ぎつねに出逢います。猟師は鉄ぽうを担いでその子ぎつねを追いかけていくと、「ききょう屋」という名の染め物屋に行き着きます。そこにいたのは子ぎつねが化けた染め物屋の主人でした。

主人の両の親指と人差し指はききょう色にそめられていて、その指でひし形を作っら窓を覗いてみると、母ぎつねが見えました。母ぎつねはずうっと前に鉄ぽうでダーンとやられて死んでしまったのです。ひとりぼっちの猟師もそんな窓が欲しいと、指先を桔梗色に染めてもらうのでした。お礼に鉄ぽうを渡しました。

帰りの道すがら、猟師は染めてもらった指先でひし形を作り、懐かしい母さんや死んだ妹やそれに焼けてしまった家など、今はもう決して会うことのできない人や切なくなる風景」を眺めることができたのでした。この指はいつまでも大切にしたいと思いました。しかし小屋に戻るなり、ついいつもの習慣で手を洗い、あおい色は、たちまち落ちてしまったのです。

◇ ◇ ◇

私自身は、ききょうの花で色水を作った記憶はありません。私の中では、ききょうという花は、生け花で使うような花で、子どもが勝手に色水に使うような身近な花ではなかったように感じています。

ジュース屋さんごっこの光景を思い浮かべている内に、おもしろいことに気づきました。私たちはよくおままごとをしましたが、その時は、庭や公園にゴザやシートを敷いて、靴を脱いで正座して遊んでいましたが、お店屋さんごっこの時は、みんな靴を履いたままでした。

おままごとの時には、その「家」のおかあさん役が「どうぞお入りください」というと、お客さん役は靴を脱いで、さらにご丁寧に靴の向きを揃えてから三つ指をついて「こんにちは、おじゃまいたします」などと言うのでした。あの頃の家庭では、そのような暮らしがまだまだ残っていたのでしょうか。

おままごとの時にご飯になるのは「ヒメジョオン」「ハルジオン」と呼ばれる植物の白い部分でした。そこら辺ににたくさん自生しているので、それをせっせと摘んでは、白い部分をちぎって小さな食器に盛ってお客さまにお出しするのです。おかずには、どんぐりやオシロイバナの真っ黒な種などを使いました。

一方、お店屋さんごっこの時は、靴を履いているのが常で、ジュース屋さん以外にも、お団子屋さんや焼き芋屋さんの時もゴザは敷きませんでした。

お団子屋さんは色んな土を水でこねて、黒い土のお団子、白っぽい砂のお団子、お砂場の砂を固めたお団子などを作って「販売」しました。

冬になると焼き芋屋さんごっこをしました。これは、三輪車を逆さまに置いて、辺りに落ちている少し大きめの枯れ葉を前輪の部分に入れて、ペダルを手でぐるぐると回して「焼く」つもりになるという遊びです。この時も我々の通貨であるつつじの葉っぱで、三輪車前輪部分から焼き上がったばかり「焼き芋」を買うのです。みんなでほっかほかの焼き芋を手に入れようと列を作って並びました。

私の中では、三輪車を逆さまに置いたら焼き芋屋さんになることや、足踏みミシンの下に潜り込んでハンドルを回してドライブに行くというのは、みんなの共通認識だと思っていましたが、もしかすると、極々小さなコミュニティでしか通用しないことだったのかもしれません。

◇ ◇ ◇

お人形やレゴブロックでも遊びましたが、あの頃の遊び道具の多くは、基本的にその辺りに自生している植物や道端に落ちている物(ゴミ!)でした。拾って、溜まっている雨水でさっと洗えば、すぐに遊び道具に変身しました。

あれから半世紀以上経った今日からみると、衛生観念もまるで異なって違いて、私たちは遊びの最中にトイレに行きたいと思ったら、それこそつつじの植込みの裏で用を足すのは、女の子でも当たり前のことでした。少し田舎に行けば、まだ肥溜めもあった時代でした。

今の二十代、三十代の若いお母さんたちは、母親に連れられて水筒や虫よけスプレーを持参の上「公園デビュー」をしたという年代なので、そもそも道に落ちていた瓶などで遊ぶという経験もなかっただろうと思われ、このような話を聞いたら腰を抜かしてしまうかもしれません。


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