280.愛と哀しみのボレロ
フランスのマクロン大統領は、2025年11月27日、新たな志願兵役制度を来年半ばまでに導入すると発表しました。報道によれば「18-19歳の若者が対象で、国際社会で『加速する脅威』に対応する狙い」だそうです。
これに先立ち、8月27日には、ドイツのメルツ政権も連邦軍強化を図るために自発的兵役を導入する法案を閣議決定したと報道されました。ロシアを巡る安全保障上の懸念が背景で、強制徴兵制復活への道も開かれそうです。
11月15日付のswissinfoによれば、2014年のロシアによるクリミア併合を機に、リトアニア、スウェーデン、ラトビア、クロアチア、デンマークも徴兵制を復活させたそうです。
欧州だけではありません。言うまでもなく、我が東アジアも近年になく緊張した状況になっています。
戦後80年。第二次世界大戦を実際に体験した人々の大方がこの世を去った今、世界のあちこちで「正義」や「大義」が頭をもたげ始めています。このような世界情勢の中で、私はひとりでも多くの方々に1981年に制作された一本の映画を観ていただきたいと願っています。
映画「愛と哀しみのボレロ」は、フランスのクロード・ルルーシュ監督作品です。1981年に公開されました。
◇ ◇ ◇
【1936年、モスクワ】 ボリショイ劇場のプリマドンナのオーディションで、審査員がバレリーナに恋をします。そして結婚。二人は男の子に恵まれます。
【1937年、パリ】 華やかなフォリー・ベルジェールで、楽団員のバイオリニストの女性と、ピアニストの男性が出逢い、互いに惹かれ合い、結婚します。その後、彼らにも男の子が生まれます。
【1938年、ベルリン】 ベートーヴェンのソナタ「月光」を、最高の栄誉とされた政治家ヒトラーの面前で演奏して喝采を浴びたピアニストは、妊娠中の妻の待つ家へ喜び勇んで帰って行きます。生まれてくる子は男の子です。
【1939年、ニューヨーク】 ジャズミュージシャンは、ハドソン川に浮かぶ豪華客船の船上で演奏をしながら、ラジオ放送を通じて第二子を出産したばかりの妻と生まれたばかりの女の子に語りかけます。
【1940年 もうひとつのパリ】 パリ占拠軍のドイツ音楽隊長に魅力を感じたシャンソン歌手が、指揮棒を振る彼の胸元にラブレターを差し入れます。二人もまた恋に堕ち、彼女はのちに女の子を出産します。
この世界の片隅で、言語も習慣も異なる様々な若者が、恋をして、結ばれ、新しい命が次々と芽生えるところから、本作品は始まります。世界中に散らばる芸術家たちの、ささやかでも幸せに包まれた暮らしの始まりでした。
後世を生きている私たちは、このあと第二次世界大戦が勃発し、この幸せが続かないことを知っています。このまるで接点がないと思われる人々が、敵と味方に分かれて、武器を取り、大義のために闘うことになるのです。
この芸術家たちにはモデルがいます。史実とは違うのであくまでモデルですが、ロシア人ダンサーはルドルフ・ヌレエフ、ドイツ人音楽家はヘルベルト・フォン・カラヤン、そして彼と恋に堕ちるパリジェンヌはエディット・ピアフ、ニューヨークのジャズミュージシャンはグレン・ミラーです。
各国の芸術家たちは、激動の時代の波に巻き込まれ、運命に翻弄されていきます。命を落とす者、子どもを失う者、戦後も長く引き摺る喪失と絶望。様々に交錯する人間模様が時空を超えて描かれ、戦前、戦中、戦後の、彼らとその周りの人々の人生が、戦争の愚かさと哀しさを伝えてくれます。
邦題は「愛と哀しみのボレロ」となっていますが、原題は “Les uns et les autres”です。英語での公開タイトルは、フランス語からのほぼ直訳で、 “The Ones and the Others”です。「様々な人生」とでも訳せば良いでしょうか。あらすじはその名の通り、様々な人生が交錯し、世代を超え、最後にはひとつの目的、それはユニセフ・赤十字のチャリティ・ショーという同じ目的に向かって結集していくという物語です。
◇ ◇ ◇
私の、この映画との出逢いは次のようなものでした。
1982年秋、新卒で就職した年のある土曜日の午後、たまたまNHKの教育テレビにチャンネルを合わせたら、全身を白いレオタードに包んだ女性が、朱色に塗られた円卓の上で踊りを踊っていました。目が釘づけになりました。
それは、モーリス・ベジャール振付けのバレエ「ボレロ」を踊っているショナ・ミルクの姿でした。
ラベルのボレロに合わせて全身で踊るその姿は、息をもつかせぬものでした。最後に円卓の周囲の群舞のダンサーと共に雪崩れるようにして終わるまで、まばたきもできず、呼吸もできないような緊張感でした。
突然、テレビ画面に現れ、私が見たのは最後の5分間ほどだったため、わずかに「ショナ・ミルク」「モーリス・ベジャール」「ボレロ」の単語を覚えただけで、番組は終了し、私はただただ呆然とテレビ画面の前に座り込んでいました。
一体全体、今のはなんだったのだろう、と思いました。
私は子どもの頃からバレエが大好きで、「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」を観てはうっとりしてきました。しかし、今のはなんだったんだろうかと、大きな衝撃を受けました。ダンサーは明らかにバレエ教育を受けていましたが、これまでに観たバレエとはまったく異質なものでした。
あの頃はインターネットもなかったので、わずかに覚えた3つの言葉をどうすればいいのかもわかりませんでした。「とにかく凄かった」としか言えませんでした。
◇ ◇ ◇
それから程なくして、私は仲良しの友人の家に遊びに行き、いつものように友人の部屋でその辺に置いてある雑誌をめくりながら、仕事のことなどあれこれと語り合っていました。
雑誌の後ろの方の情報ページに来た時、ひとつの記事が目に止まりました。それは「愛と哀しみのボレロ」という映画の紹介記事でした。「ボレロ」そして「モーリス・ベジャール」という言葉が浮き上がってきました。私は思わず「これだ!」と声を上げました。
テレビだけでなく、映画もあったのかと思いました。その雑誌は、確か「MORE」だったように思います。もしかすると「non-no」や「cosmopolitan」だったかも知れません。
当時のことですから、雑誌「ぴあ」で上映館を調べて早速見に行きました。私が初めてこの映画を観たのは、五反田駅の近くの目黒川沿いの名画座でした。上映時間が3時間を超える大作でした。
テレビも衝撃でしたが、映画もそれにも増して衝撃でした。五反田の映画館から私の家まで片道2時間近くかかりましたが、私は、3日連続で、連日会社の帰りに観に行きました。観ないではいられない映画でした。上映最終日までせっせと足を運びました。
この映画は、前年の1981年5月にフランスで初公開され、日本では同年10月に公開されていました。私が知ったのは、その翌年、1982年のバレエ団来日公演後の10月放映のテレビを見た後でしたから、名画座での公開でした。
人生で一番回数を多く観た映画は何かと問われれば「愛と哀しみのボレロ」と答えます。今はなき五反田の名画座、恵比寿ガーデンシネマ、渋谷のBunkamuraでのリバイバル上映にも出かけました。VHSはテープが伸び切ってしまいそうだったので2組持っていますし、DVDはもちろんBlu-rayも持っています。
一体、何回、観たのか数えられないほどです。私にとって邦画最多視聴作品は「二十四の瞳」ですが、外国映画最多視聴作品は本作品です。私はこの映画をフランス語の耳で聞く教科書だと思って繰り返し観ました。今でも多くの台詞が耳の底に残っています。それでも、今なお見返すたびに新たな発見があります。
前置きだけでとても長くなってしまいましたが。この映画の魅力を改めて語ることによって、多くの方々のこの映画を知っていただきたい、観ていただきたい、そして戦争のない平和が続くことを祈りたいと思っています。
◇ ◇ ◇
監督はクロード・ルルーシュ。名作「男と女」の監督でもあります。音楽は、フランシス・レイとミシェル・ルグランです。
ここから先は物語の内容に触れます。ネタバレ全開です。まだご覧になっていない方はどうぞ映画を是非ご覧になった上で、この先はお読みください。現在、各社の配信によって数百円で本作品をご覧いただくことができます。
数多くの人生が交差していくので、一度や二度の視聴ではこの作品の人間関係を理解することはできないかも知れません。このあとの文章で、こんがらがった糸を解くお手伝いが少しでもできたらと願っています。
願いはただひとつ、世界平和です。
◇ ◇ ◇ 以下あらすじに触れます。ご注意ください ◇ ◇ ◇
この映画の冒頭は、エッフェル塔を背景に、赤い円卓の上でモーリス・ラヴェルのボレロに合わせて踊るひとりのダンサーが映し出されます。
〈戦時編〉
1. モスクワのバレエダンサーの一家
ボリショイ劇場で知り合ったバレエダンサー一家は息子に恵まれ、つかの間の幸せな時間を過ごしますが、審査員の父親はスターリングラード攻防戦で命を落とします。ドイツ軍の死傷者約85万人、ソ連軍120万人の激戦と伝えられたこの闘いですが、寒さと飢えに苦しむ行軍が果てしなく続きました。
「妻へ、こんな悲惨な戦争を始めたやつは、人の愛情を知らないのだろう。他人の幸福を妬んだのだ。1年前出生した頃は、戦争も必要悪だと思っていたが、それには害しかないことがわかった」手紙を書き綴ったダンサーは野垂れ死にします。妻も慰問先でロシア民謡を踊りながら兵士を励ましますが、帰宅した彼女に訃報が届きます。
バレエダンサーの死骸を覆う雪を見ながら、我々観客は、きっと郵便配達人も銀行員も建築家も教師も理容師も学者も料理人も仕立て屋も役人も電気屋も野球選手もみんなこうして戦場で命を落としていったのだと思わずにはいられません。そこに父や兄や夫や息子や教え子の面影を見ることでしょう。
2. パリのフォリー・ベルジェールの一家
フォリー・ベルジェールといって最初に思い浮かぶのは、ロートレックの踊り子たちのポスターやデッサンでしょうか? それともあの不思議な絵画エデュアール・マネの描いた「フォリー・ベルジェールのバー」でしょうか? 19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの芸術家たちを虜にしたフォリー・ベルジェールも、本作品の見どころのひとつです。
パリには、ムーラン・ルージュ、リド、クレージー・ホースなど、いずれも歌やダンスやショーを中心としたレビューを鑑賞できるキャバレーがありますが、フォリー・ベルジェールはとりわけ芸術性の高いことで知られていました。この素晴らしいレビュー劇場で二人の音楽家が恋におちます。
バイオリニストの女性はピアニストの男性と、華やかに楽団員の仲間たちに祝福されて結婚します。1940年、パリにドイツ軍がやってきて。軍楽隊がドイツの行進曲を奏でているのを、お腹の大きくなったらバイオリ二ストと共に不安そう見つめるピアニストの姿がありました。その理由はすぐに明かされます。なぜなら二人はユダヤ人だったのです。
1942年8月、パリ東駅に到着したトラックから行き先も告げられぬまま、今度は窒息しそうな貨車に乗せられて大勢のユダヤ人が運ばれていきました。この中には、フォリー・ベルジェールの二人もいました。怯えた表情のバイオリ二ストの胸には、生まれたばかりの小さな男の子が抱かれていました。
どこかの駅で停車した時、誰かが「まだフランス国内だ」と言います。その貨車は最後尾だったため、突然何かを決意した夫のピアニストは、妻に指輪を外し財布を出すように言います。紙切れにメモを書く姿を見ていた妻は悲鳴を上げます。そこには「戦争が終わるまで、この指輪と現金でこの子を育ててください」とあり、名前と住所が記してありました。
赤ちゃんを肌着で幾重にも包み、手紙と一緒に列車の最後尾の貨車の床から線路の上へ静かに下ろしました。妻は発狂したように夫の体を殴り続けていました。列車は線路の上の赤ん坊を残し収容所へ向かいました。
その後、マットハウゼンの強制収容所において、二人は生き別れとなり、夫はガス室へ送られました。妻は、放心状態のままオーケストラの一員となり、白と青の囚人服に身を包みバイオリンを奏でていくのです。
3.ベルリンの音楽家一家 & シャンソン歌手
1940年6月、ヒトラーに「月光」を絶賛されたピアニストは、今度は占領軍音楽隊長としてパリ進駐を命じられました。生まれたばかりの男の子に会えなくなるのは残念でしたが、妻への手紙にこのように書いています。
「愛する妻へ、僕は占領軍の軍楽隊長に任命された。総統が褒美を下さったのだと感激している。占領とは言っても、被占領国民と仲よくやってるよ。皆戦うより愛し合うほうがいいんだ。音楽に親しんでいれば大砲の音が嫌いになる。だからパリ中で音楽会を開いているんだ。君と一緒ならバカンス気分なのに、戦争の実際は憎みあう者同士の対決じゃない、愛しあう者の別離だよ。新年に望むことは、ただひとつ、妻子との再会だ。最近ラベルが好きになった」
カルーゼルの凱旋門前で音楽隊を指揮する彼の演奏を眺めていたのは、散歩の途中のフォリー・ベルジェールの音楽家二人であり、友人と散歩に来ていたシャンソン歌手の女性でした。真面目な面持ちで指揮棒を振り上げる彼の胸に、彼女は自分自身が出演するナイトクラブのお店のカードを差し込みます。そこには「今夜、待っています」とメッセージがありました。
1940年の大晦日、ナイトクラブではハーケンクロイツの小旗がテーブルに立ち並び、ナチスの将校たちが新しい年の幕明けを待っていました。美しい声で歌うコケティッシュなシャンソン歌手、そして、そこにはあの音楽隊長の姿もありました。盛大に1941年の訪れを祝い、人々が去ったあと、グランドピアノの前で二人は語り合います。ドイツ人がショパンのノクターンを弾きました。
4.ジャズ・ミュージシャン一家
ハドソン川に浮かぶ豪華客船の船上で演奏をしながら、ラジオ放送を通じて第二子を出産したばかりの妻と生まれたばかりの女の子に語りかけていたジャズ・ミュージシャンですが、そこへ臨時ニュースが飛び込んできました。ドイツ軍のポーランド侵入に従い、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告したというものでした。
ある日、ミュージシャンが自宅に戻る途中で近所に住む一家に出会います。この一家は夫婦で酒場を営み、二十歳になる双子の息子は、いつものように取っ組み合いの喧嘩をしています。父親に「そんなに戦いたきゃヨーロッパへやるぞ」と言われてしまいますが、そこにまたラジオのニュースが聞こえてきます。
「ヨーロッパ派遣軍を編成中の国防省は、さらに大規模な徴兵を行うと発表しました。一方、東部戦線のドイツ軍は、開戦以来初めて前進を阻まれた模様です。ソ連のスターリン首相は、スターリングラードを反撃の拠点として、いかなる犠牲を払っても死守せよと懸命スターリングラードを守れの声が全国に巻き起こっています」
1942年、ジャズ・ミュージシャンはバンドを解散してロンドンの慰問先へ行き、隣の双子たちも出征してイギリスの前線に送られます。留守宅に届く手紙だけが家族にとっては唯一の希望でした。二つの家族は郵便配達人の動向に一喜一憂していました。
そして、1944年6月6日。ノルマンディー上陸作戦が決行されます。双子もこの作戦部隊の一員で、飛行機からパラシュートを背負って飛び降りました。ノルマンディーに着陸直前に、それぞれ双子は、地上からの高射砲、一斉射撃によって撃たれ、斃れます。
〈戦後編〉
1. モスクワのバレエダンサー一家
夫がスターリングラードで戦死した後、妻はボリショイ劇場で教師となり、一人息子を女手で育て上げました。新しいパートナーも見つかり、落ち着いた生活が戻って来ました。
そして時は過ぎ、1964年。
父親そっくりの容貌となった息子は、ボリショイ劇場の花形ダンサーとなり、外国公演へ招待されます。パリのオペラ座でベートーヴェンの交響曲第7番第4楽章に合わせて見事な踊りを披露し、喝采を浴びます。パリ・オペラ座ガルニエ宮の絢爛豪華な舞台もさることながら、見事な基礎に支えられた驚くべき跳躍は必見に値します。
このベートーヴェン第7番は、テレビアニメ「のだめカンタービレ」でも使われたので、多くの方々がご存知でしょう。リストが「リズムの神化」、ワーグナーが「舞踊の聖化」とも名付けたダイナミックなリズムがみなぎる曲です。これに天才振付師モーリス・ベジャールが振り付けたのがこの踊りです。疾走感、高揚感、絶頂感、まさに舞踏の神の化身のようなバレエです。
この後、ダンサーはソ連への帰国の際、空港で柵を飛び越えて西側に亡命します。この一瞬の出来事で運命は大きく変わります。
2. パリのフォリー・ベルジェールの一家
夫を収容所で亡くしたバイオリ二ストは、パリの東駅に降り立ち、それから、あの忘れることのできない駅へ向かいます。「ここに捨て子をしたんです。もしかして汽車に轢かれて死んだ赤ん坊の話をお聞きになったことはありませんか」
あの日の晩、線路に置かれた子どもは、ある男によって見つけられました。金と指輪にしか興味がなかった男は、それをポケットに入れると、赤ん坊を自転車で50キロも先の街へ連れて行ったのでした。教会の前に置かれた赤ちゃんは、神父と、弁護士をしている神父の妹とによって育てられました。
戦後、収容所から戻った母は毎週のように駅へやってきました。栄養失調の体で元のフォリー・ベルジェールの仲間との再会を果たしますが、戦後のキャバレー復活は容易ではなく、仲間たちと流しの演奏をしながら、子どもの行方を探します。
そして歳月が流れます。
1962年。神父に育てられた赤ん坊は、アルジェリア戦争からの帰還兵として戦友5人でパリへ向かう列車乗っていました。途中ディジョンの駅から乗ってきた女の子をからかいながら。赤ん坊は、今では弁護士になっており、既に子どももいるのでした。
3.ベルリンの音楽家一家 & シャンソン歌手
バイオリ二ストが収容所からパリ東駅に戻ってきた時、逆向きの列車に乗せられていくドイツ軍の元兵士の姿がありました。ベルリンは爆撃で破壊されており、ようやく辿り着いた我が家にいたのは、妻だけ。息子は亡くなっていました。
1960年、ニューヨーク。
ベルリン・フィルと共にカーネギーホールへやってきました。これからブラームスの交響曲第一番の指揮をするのです。全席即日完売という嬉しい知らせもありました。しかし、いざ幕が開くと、客席には音楽評論家の二席を除き、観客の姿はありませんでした。裕福なユダヤ人たちがチケットを買い占めたということでした。
演奏の後、天井からひらひらと何枚もの写真が舞い落ちてきました。1938年6月の、あの「月光」演奏直後に、ヒトラーと握手していた時に撮影されたものでした。
シャンソン歌手の戦後
一方、1941年の年明けを彼のショパンを聴きながら迎えたシャンソン歌手ですが、ノルマンディー作戦が成功して、戦勝記念に沸き立つフランス街角で米兵と共にダンスで勝利を祝っていました。
しかし、彼女のこの姿を見ていた女たちの密告によって彼女は吊し上げられてしまいます。丸刈りにされ、首からは「ドイツ兵と寝た女、米兵と踊る女」と書かれたダンボールをかけられて市内を連れ回されます。
彼女は傷心のうちに、子どもを抱えて両親の待つディジョン戻り、一週間後、世間の目に耐えかねて自殺してしまいます。残された女の子は祖父母によって育てられていくことになります。
時が経ち1962年。
年頃になった娘は婚約者の待つパリへ向かおうと、ディジョンの駅から列車乗り込みます。アルジェリアからの帰還兵に婚約者がいることをからかわれます。ところが、パリに着いても婚約者の姿はありませんでした。仕方なく、掃除婦のアルバイトで食い繋ぎながら、なんとか自立への道を探っていくのです。
4.ジャズ・ミュージシャン一家
ヨーロッパに慰問に出掛けていたミュージシャンの帰還を盛大に祝うパーティ会場を、窓の向こうから見つめる双子の両親の元へ、戦死の公報が届きました。双子とも戦死でした。道一本を隔てて、喜びに沸く一家と悲しみに沈む一家に分かれました。
さて、時は流れ、あの日船上から祝いの言葉を貰った生まれたばかりだった女の子は、父親の後を継ぐように歌手になり、兄は彼女のマネージャーとなりました。母を不慮の交通事故で失い、父親のジャズ・ミュージシャンは再婚していました。人気歌手でありながら、彼女の心は孤独を感じ、生活は少しずつすさんでいきました。
〈1980年 ボレロへ〉
1. モスクワのバレエダンサー一家
亡命後、西側でバレエダンサーとして成功し、さらに次世代の、娘のバレエ教育にも熱心に取り組みます。そこへ、ユニセフと赤十字チャリティ・ショーを開催したいと担当者が訪ねてきます。持ち前の熱心さでこの壮大な計画を説き、協力を求めます。
2. パリのフォリー・ベルジェールの一家
フランス空軍の空母演習で海上戦闘訓練に参加しているはずの青年は、作詞作曲ばかり熱心で、除隊になったことも親には告げず、熱心にバンド活動を続けていました。この青年は、線路に捨てられ、のちに弁護士になった人物の息子、つまりフォリー・ベルジェールの音楽家の孫に当たるのでした。
アルジェリアから帰還してからの戦友5人は、彼らの戦後を生きていきました。弁護士、外科医、ボクサー、競走馬の世話係、そして詐欺師として。
そんなある日、弁護士事務所に見知らぬ音楽家が訪ねてきます。敏腕弁護士の自伝が出版され、その表紙を飾る父親のピアニストに生写しの写真に驚いた、かつてフォリー・ベルジェールで彼の両親の同僚でした。戦時中の収容所への強制連行のこと、赤ちゃんの命を救おうとしたこと、戦後、母親が二週と空けずに駅で子どもを探していたことを告げます。
そこで初めて自分の出自を知った弁護士は、現在行方知れずになっている母をあらゆる手を尽くし、遂に精神病院で記憶を失った母を発見します。
そんな頃、孫息子はシャンゼリゼのキャバレー「リド」で行われるグラミー賞を3度も受賞した米国人女性歌手のオーディションに参加します。ヘリコプターや巨大な滝のセットの大掛かりな舞台装置の中で、ベテラン女性歌手と、新人男性歌手のデュエットが決まりました。そして、そこへやってきたのがユニセフと赤十字のチャリティショーへの出演依頼でした。
3.ベルリンの音楽家一家 & シャンソン歌手
あの忘れられないカーネギーホールの演奏会のあとも、順調に音楽活動を続けていた彼は、凱旋門の屋上で行なわれるコンサートの準備を進めていました。彼の半生を振り返った伝記映画を撮影するためでした。
そこへやってきたのが、ユニセフと赤十字のチャリティ・ショーのコーディネーターで、彼に指揮の依頼にやって来たのでした。
シャンソン歌手の娘
パリの駅で婚約者に会えず、掃除婦、ダンサーなどの様々な職を渡り歩きながら遂に、彼女はアナウンサーのオーディションに合格します。テレビに出演している彼女の姿を見たアルジェリア帰還兵の弁護士や外科医から連絡があり、彼らと再会を果たします。
そんなある日、彼女の元へ、ユニセフと赤十字のチャリティ・ショーを紹介する原稿が持ち込まれます。テレビを通じて、彼女は世界に向けてチャリティ・ショーの開催を呼びかけます。
彼女の父親は、母のシャンソン歌手と共に1941年の年明けを迎えたドイツ人音楽家ですが、彼も彼女もどちらも何も知りません。
4.ジャズ・ミュージシャン一家
シャンゼリゼ通りの「リド」に出演するグラミー賞を3度受賞した歌手というのは、あのハドソン川の船上から誕生を祝ってもらった女の子のことでした。彼女は今や米国を代表する実力派歌手として、リドへの出演を決め、自らが選んだ新人のフランス人男性歌手とペア組みました。それが弁護士の息子だったのです。
リドの二人のところへやって来たユニセフ・赤十字のチャリティ・ショーの出演依頼に、二人は肯首します。
〈トロカデロ広場でのボレロ〉
遂に、ユニセフと赤十字主催のチャリティ・ショーが始まりました。シャンソン歌手の娘の呼びかけで、世界中の人々がテレビ画面に注目する中、ボレロのリズムが刻まれていきます。
光り輝くエッフェル塔を背に、トロカデロ広場の真ん中に作られた朱塗りの円形舞台の上で、バレエダンサーはしなやかに全身を駆動させます。オーケストラの指揮をするのは、白髪になったドイツ人音楽家です。
途中から歌声が入ります。歌うのは米国人女性歌手と、フランスの新人歌手。そう、あのジャズ・ミュージシャンの娘と、弁護士の息子が、世界中の平和への祈りを込めて歌い出します。
客席やテレビ画面の向こうには、見知った大勢の顔が見え隠れします。モスクワでは年老いたかつてのバレリーナが息子の踊る姿に食い入るように視線を注いでいます。客席にはダンサーの娘の姿や、アルジェリア帰還兵たちの姿。そして、ようやく見つけ出した記憶を失った母と共に息子の歌声を見つめる弁護士の姿がありました。
テレビ画面を見つめるのは、育ててくれた神父と妹の弁護士、フォリー・ベルジェールの同僚の姿。娘の歌う姿を若い妻と見つめるジャズ・ミュージシャンの姿。会場には指揮者の妻。弁護士の元妻。歌手の兄。シャンソン歌手の娘の肩に手を置くチャリティ・ショーのコーディネーター。
ボレロの歓喜と狂気の中に、人類への愛と、平和を願う祈りがありました。数々の運命は、すべてこの一点に収斂されていきました。
◇ ◇ ◇
本作品は縦糸に4つ、シャンソン歌手の家族を入れれば5つの家族の物語を、そして横糸に、様々な人々の人生を織り込んだ壮大な大河ドラマです。
一例を挙げると、パリの小学校でユダヤ人狩りが始まった頃、ナチのSS将校から割礼の印を見破られそうになった子どもに、カトリックの祈りの言葉を言わせて少年を守る女性教師が出て来ますが、この教師の夫は戦勝目前に脱走兵として捉えられ銃殺され、息子はのちにアルジェリア帰還兵の一人で、競走馬の世話係として成功する人物になるのです。
この時に教師に救ってもらった少年は、しかしながら、両親が連行される時に隠れていた段ボールから「一緒に行く」と出てきます。音楽家の二人が乗せられる収容所への貨車には、この一家の姿もありました。父親は毛布でトイレを仕切ろうと少しでも環境を整えようとリーダーシップを発揮します。けれども、結局、父親と共に収容所のガス室で命を落としてしまいました。
さらにもう一例を挙げると、シャンソン歌手がナチの将校と共に新年を迎えたナイトバーの経営者は、ドイツ軍がパリに侵入してくると店をすぐに占領軍に開放して、ドイツ語のシャンソンを歌わせました。彼は時勢を目ざとく読んでお金を稼ぎ、息子十分な教育を施し、外科医にするのです。同じアルジェリア帰還兵の中で小競り合いが起きた時、外科医は父親を売国奴呼ばわりされました。
数え切れないほどの縦糸と横糸で織りなされた本作品は、観れば観るほど発見があります。音楽担当のフランシス・レイが黒眼鏡を掛けたアコーディオン弾きとしてカメオ出演しているのも興味深いところです。
◇ ◇ ◇
どのような理由があろうとも、決して戦火を交えてはならない。この映画を観て、ひとりでも多くの方々に同じ思いを持っていただきたい、できれば、世界中の映画館でこの映画を上映していただきたいと願っています。
