279.少女まんが
1966年〜69年(小学1年生〜4年生)
きっかけは覚えていませんが、私は小学生になると「週刊マーガレット」を読み始めました。「なかよし」や「少女フレンド」というマンガ雑誌もありましたが、私の周りでは、多くの子が「マーガレット」を読んでいました。母から60円もらって近所のお店に買いに行きました。時々特別増刊号などといって70円の時があって、もう10円もらいに家に帰ったこともありました。
古賀新一「のろいの顔がチチチまた呼ぶ」
少女マンガといいながら、私にとって最初に記憶に残っているマンガは、どういうわけか、古賀新一「のろいの顔がチチチとまた呼ぶ」という恐怖マンガです。主人公の少女の肘が腫れ上がり、不気味な顔が現れてチチチと鳴くという怖い話で、ひとりでは読めず、必ず近所の美智子ちゃんと一緒に、ページを透かしてはめくっていました。
他にもタイトルは失念してしまいましたが、新進気鋭の彫刻家が才能の行き詰まりを感じて、生きた少女たちを壁に塗りこんでしまって世間の絶賛を浴びるという話や、嘘の病名を告げられた少女が手術台の上で胸を切り裂かれそうになるというマンガが忘れられません。これらはあまりにも強烈で、夢でうなされてしまうほどでした。
とはいえ、このような恐怖マンガはあくまで例外であって、基本的に小学生の頃は、これぞ「ザ・少女マンガ」というようなマンガばかり読んでいました。
不治の病におかされた少女が、結婚式を目前に息を引き取るというマンガでは、私は完全に主人公になりきっていました。ウエディングドレスに身を包んだ亡き骸を抱いて、教会のバージンロードを歩く新郎の姿のページを何度も見ては、自分を悲劇のヒロインに重ね合わせて陶酔していました。
今思うと、小学校の低学年でもこういう話に憧れるのかと不思議なほどですが、病弱、不治の病、孤児、清貧、真実の愛、真心などに心ときめかせていました。少女マンガのみならず『小公女』や『リア王』の三女コーデリアやアンデルセンの『マッチ売りの少女』、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』の燕にも心惹かれていました。
私も清く正しく生きて、運命の相手と必然的に出逢いたいと心の底から願っていました。「自分の出生・親・身分が本当は違っていた」や「取り違え・捨て子・養子・王家の血筋だった」という、いわゆる「異胎譚」は少女マンガの重要な要素でした。私は両親とそっくりな顔をしていましたが、もしかしたら、本当の親はどこかいるのかもしれないと心密かに思っていました。
ヨーロッパへの憧れの扉を開いたのも少女マンガでした。ニワトリが先か卵が先かがわからないように、少女の憧れがマンガになったのか、マンガの影響で少女が憧れるようになったのかわかりませんが、私はヨーロッパ、とりわけフランスやパリに憧れました。
マンガや少女小説の主人公のように、自分もマリアとか、フランソワーズというような名前だったらどんなにいいだろうと夢見ていました。大きくなったらフランス人になりたいと思っているような子どもでした。混血、二世、それに記憶喪失などという言葉にも憧れていました。
小学校の低学年・中学年の頃は、水野英子、西谷祥子、本村三四子、細川知栄子、わたなべまさこ、里中満智子等、顔の面積の四分の一が大きな目という絵に夢中になっていました。ピアノのレッスンに持っていく楽譜入れのバッグにも大きな目の女の子の絵が描かれていました。
私自身も新聞広告の裏に、せっせとお姫さまの絵を描いていました。私は目の中の光やレースの細かいところを精密に描いていましたが、全体的な構図というかデッサンはおかしなものでした。母からは「よくもまあ、こんなにちまちまとした絵を描く」と呆れられていました。
心清らかに生きていれば、いつか出生の秘密が明らかになり、白馬に乗った王子様が迎えにやってくるというシンデレラストーリーは、幼い頃から、日々の暮らしの中でマンガを通じて心の中に植えつけられていきました。
1970年〜71年(小学5年生〜6年生)
私は小学校4年生と5年生の間の春休みに引越しをして、新しい学校に転校しました。そこでもマーガレット派の子が多くて安心しました。5、6年生の時は、よく学校帰りに数人で一冊のマンガ本を読みながら帰ったものでした。
一冊のマーガレットを真ん中に端と端の子がマンガを引っ張り合って皆んなで読めるようにして、ひとりひとり役を決めると、まるで演劇の読み合わせのように順番に感情を込めて読み上げるのです。最後までいったら、今度は配役を変えて何度も読み合いました。車の多い通学路だったので、危ないと注意されながらも、この朗読ごっこはおもしろくてやめられませんでした。
美内すずえ「13月の悲劇」
この朗読ごっこで最も印象に残っているのは、1971年『別冊マーガレット』9月・10月号に前後編で掲載された美内すずえの「13月の悲劇」でした。全寮制の学校、聖バラ十字学校に入学入った主人公のマリーが、この学校の真の姿は、魔王ルシフェルを崇拝し、世界征服をたくらむバラ十字団の根拠地なのだということを命からがら見破るというストーリーでした。
魔王ルシフェルは、山羊のツノに、鳥のツメを持ち、小動物や人間の生き血を捧げられている地獄の魔王なのですが、この巨大な像の絵が怖かったことといったらこの上なく、みんなで怯えつつも何度も何度も見て、私など、見ないでも魔王ルシフェルの絵が描けるほどになっていました。
このマンガは本当に衝撃的でした。とはいえ、これも低学年の頃に恐ろしかった古賀新一のマンガと同じように、例外と言えば例外で、大抵は目の大きな女の子が主人公のマンガが多く、運命の男性とハッピーエンドになるというような内容でした。私はすぐ近所に住む和子ちゃんと一緒によくマンガをぬり絵にして、2人で色鉛筆で色をぬっていました。
私の家のピアノの椅子は連弾用になっていて座面が2人で座れるように広くなっていたのですが、どういうわけかそこがぬり絵をする時の定位置で、2人で、ピアノの椅子を机がわりにして床に座り込んで色をぬっていました。最初に、輪郭を濃いめに縁取って、それから中をサラサラとぬっていくのです。おしゃべりに夢中になっていると、途中で主人公の服の色が変わってしまったりしました。
山岸涼子「アラベスク」
忘れられないマンガのひとつに、山岸涼子の「アラベスク」がありました。これは旧ソ連のバレエ界を舞台に、キエフ出身の主人公が、レニングラード、モスクワ、パリなどのバレエ団で成長していくという物語です。
私の子どもの頃の夢は「大きくなったらバレリーナかピアニストになる」ことでした。まだ正式にはトウシューズを履くことが許されていなかった小学校低学年の頃から、先生からいただいたトウシューズが嬉しくて、家の中で爪先立ちで踊っていました。
「アラベスク」の連載が1971年秋、「りぼん」誌上で始まると夢中になって読みました。当時の女の子にとっては、このマンガはバレエの教科書のような存在でした。
忘れられないのは、主人公の先生である男性舞踊手が、ライバルの斬新な踊りを「黄金色の踊り」と評し、それに対抗できるのは男性ダンサーの見せ場である跳躍をすべて封印した、いわば「白光色」の踊りのみであると、二十世紀初頭の天才ダンサー・ニジンスキーを彷彿させる踊りを披露したことでした。
1972年〜1974年(中学生)
中学生になると、「週刊マーガレット」と「別冊マーガレット」に「りぼん」もレギュラー雑誌に加わりました。中学生の頃は、私の人生において「マンガの全盛期」でした。
池田理代子「ベルサイユのばら」
中学生の時に読んだマンガの数々は、私の精神的な血となり肉となり、私の人格の半分以上を形作っていったのではないかと思います。忘れられないマンガをあげていけば、どれだけ字数があっても足りないほどです。しかし、一冊を選べと言われれば、それはもうなんといっても、1972年から「週刊マーガレット」に連載が始まった池田理代子の「ベルサイユのばら」です。
「ベルサイユのばら」は、私の生涯ベストとも言ってよい作品でした。どのページのどの絵も、どのセリフも、すべて完全コピーできるほど読み込んでいました。半世紀以上経った今でも「マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュ」とソラで言えます。とは言え、きっと当時の女の子の多くは、今でも誦じられることと思います。
のちに宝塚でも上演され、社会現象を巻き起こしたので、原作を知らない男性や、若い世代の方々でも「ベルサイユのばら」のことはご存知のことと思います。フランス革命を背景に、主人公の男装の麗人オスカルや、王妃マリー・アントワネットの人生を描いていくという物語です。私も大勢の女の子と共に「ベルサイユのばら」にのめり込みました。
「ベルサイユのばら」に関しては、以前にもこの note に書いたことがありますが(064.マンモス中学)その時には次のように書きました。
忘れられない個人的な思い出もいくつかあります。ある日、私の持っていた「ベルサイユのばら」のコミック本がある教員の目に止まり、職員室へ呼ばれました。マンガやコミック本を学校に持ってきてはいけないとは決まっていませんでしたが、「学業に関係のないもの」の持ち込みは禁止されていました。例えば、売り出されたばかりで爆発的な人気を得ていたソックタッチなどです。
私はその時職員室で、私を見咎めた教員と、担任の先生と、社会の先生を前に、「ベルサイユのばら」はどれほど西洋史の理解に役立つかと、コミック誌を広げて具体例を挙げながら大演説をぶち上げて、遂に「ベルサイユのばら」は「学業に関係あるもの」に認定してもらうことに成功しました。フランスかぶれ全開でしたから、演説にも熱がこもりました。
この時、note のコメント欄に「「ベルサイユのばら」がいかに西洋史の理解に役立つかを具体例を挙げて先生に演説した、エピソードに絞って具体的に知りたくなりました」というご質問をいただいたので、私は次のようにお答えしました。
「ベルサイユのばら」はもはや手元になく、記憶も曖昧ですが、マリー・アントワネットの母のオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアの見事な結婚外交、アメリカ独立やフランス革命へつながる1748年のモンテスキューの『法の精神』、ルソーの『社会契約論』、アンシャン・レジーム(古い体制)、三部会開催、フランス革命、1791年の国王、王妃のヴァレンヌ逃亡の際にオーストリア軍が挙兵をとどまったことなど、あれこれと熱弁した覚えたあります。
池田理代子ご自身もインタビューで次のように答えていらっしゃいます。
「2013年にフランスのオランド大統領(当時)が来日した際、同行していた外交官が、“フランス革命はあなたの本で勉強しました”と言ってくださったんです」
このようなわけで、私の「ベルサイユのばら」(1972-73)にかける情熱は並々ならぬものでした。当時は、毎週確か水曜日、「週刊マーガレット」が発売されると「ベルサイユのばら」、山本鈴美香の「エースをねらえ!」(1973-75)、土田よし子の「つる姫じゃ〜っ!」(1973-79)を読まないと、何も始まらないという状態でした。
さらに、中学生時代絶大な人気を誇っていたマンガ家に一条ゆかりがいました。私はおしゃれではありませんでしたが、一条ゆかりの「デザイナー」(1974)を読み、ますますフランスへの憧れを膨らませていきました。
陸奥A子「たそがれ時に見つけたの」
しかしながら同時期ではありながら、まったく違うトーンの記憶もありました。それは、陸奥A子の「たそがれ時に見つけたの」(1974)というマンガでした。横断歩道でおばあさんを助けた男の子に一目惚れしてしまう主人公ですが、丁度「たそがれ時」だったため、逆光で彼の顔が見えず、着ていたベストのヘリコプターの模様しかわかりませんでした。そして、実はその憧れの君が同じ学校の生徒だとわかり、恋が始まるという話です。
私は仲良しの級友と一緒に何度も読み返しました。恋に恋する年頃でした。好きな男の子にベストやマフラーを編んでプレゼントしたい、一緒にクリームソーダやココアを飲みたい、そう、小坂明子が1973年に大ヒットを飛ばした「あなた」のように、「♬そして私はレースを編むのよ、私の横にはあなた〜、あなた〜がいて欲しい」という生活を夢見ていました。
陸奥A子、田淵由美子、太刀掛秀子らの、身近なところに憧れの君がいて、主人公はドキドキしながら恋をするというマンガが大人気でした。
マンガに影響を受けた言い回しも日常生活の中に浸透していったのがこの頃です。例えば「〜ですのよ」「〜だわ」「〜しておりまする」「うふふ」「〜よん」「〜しておくれ」「〜ですぞ」「〜してほしいのじゃ」「くすん」「ぴえん」「かわゆい」などです。いつも仲間内で使っていた言葉が、突然雑誌に載って市民権を得たようで嬉しく思ったこともありました。
私たちは、学校帰りに仲良し3人組で「忠霊塔」が立つ公園へ行き、忠霊塔の石段に腰掛けて、3人で「りぼん」を広げて一緒に読みながら、当然のように好きな男の子の話になり、手編みのベストにヘリコプターの模様を編み込むのは難しそうだなどと語り合いました。
忠霊塔は、戦死者を慰霊して建立された塔でしたが、夏には静かな空間に、聞こえてくるのは蝉の鳴き声だけでした。学校と家と忠霊塔はちょうど正三角形のような位置関係にありましたが、私たち3人はよく「りぼん」を一緒に読むためだけに、忠霊塔へ行きました。
周りの雑木林が色づく頃になると、枯葉が舞い、私の中ではまるでヨーロッパの、それこそチェルリー公園やリュクサンブール公園にでもいる気分でした。心のどこかで亡くなった兵士には悪いと思いつつ、かつての敵国に憧れる気持ちを抑えられませんでした。
大塚英志の評論『たそがれ時に見つけたもの』
評論家の大塚英志が『たそがれ時に見つけたもの(「りぼん」のふろくとその時代)』という本を出版したのは1991年のことです。このようなタイトルの本が出版されるほど、陸奥A子の「たそがれ時に見つけたの」は同世代の女子に絶大な影響力を持っていました。
陸奥A子の「たそがれ時に見つけたの」が発表されてから17年後に出版された本書には次のような文章が載っています。
さて、本書はその’70年代後半の「りぼん」のふろくと作家たちを素材に、それらが’80年代に花開く消費社会の前史としての意味を持っていることを論じていくことが主たる目的である。
当時、すなわち’70年代後半、15歳前後であった典型的な『りぼん』読者は、現在20代後半から30歳を少し過ぎたあたりの年齢層である。彼女たちは「Hanako」族と時には呼ばれ、財テクが好きで東京中の流行あるところに出没し、結婚しても子供は生まず都市部の出生率低下の元凶の如くにいわれている女性たちだ。そういった彼女たちはなるほど、’80年代の消費社会のバブル経済に対する身のこなし方を求めてしたたかに生き抜いた存在であり、〈おたく〉たちとともに’80年代消費社会を体現していることは認めるが、しかしその彼女たちの印象はたとえば”乙女チック“なる『りぼん』を象徴するキーワードとはひどくかけ離れているのではないか。そんな反論をさっそく準備する読者がいるかもしれない。確かにこの世代の口から『りぼん』や陸奥A子の名がもれることは全くといっていいほどない。だが彼女たちはつて変体少女文字を発明し〈かわいい〉をボキャブラリーの中に加わえた最初の少女たちでもあったことを忘れてはならない。そして改めて論じるように、変体少女文字も〈かわいい〉というレトリックもこの時代の『りぼん』中で生成・普及していったのである。 30歳に差しかかりつつある彼女たちの現在からは想像がつかないかもしれないが、彼女たちの内側にはそういった〈かわいい〉にまつわる感受性とそれとともに生きた時代が確実に封印されている。その封印を解く呪文”りぼんのふろく”という7文字なのだ。
いうまでもなく、ここで『りぼん』読者とされているのは、まさしく私の年代です。ちなみに文中に出てくる「Hanako」とはマガジンハウス社が1988年6月に、読者像を当時の首都圏の結婚平均年齢の27歳女性に設定して出版した雑誌ですが、この時私は28歳、まさにターゲット読者でした。
実際に私は「Hanako」の創刊号の表紙を飾ったケン・ドーンのイラストのついたTシャツもトレーナーも持っていたし、化粧ポーチもケン・ドーンでした。「Hanako」が創刊された時、わざわざ私たちのために雑誌を作ってくれてありがとうと思ったことをよく覚えてます。
この本は、副題にもある通り、発行部数がおよそ3万部のミニコミ誌「本の雑誌」で「りぼんのふろくを持っている人」に呼びかけたら、300人を超える読者から連絡があり、実際に段ボール箱に20箱、点数にして2000点を超えるふろくが編集部に届いたというエピソードが紹介されています。
「りぼんのふろく」は、私たち中学生女子には絶大な人気がありました。おもしろいことに、大塚英志によれば「1974年を境にふろくの内容は急変」したとあります。
1972年7月号のふろくは次の5点です。
①野口五郎卓上カレンダー
②フォーリーブス・シール
③にしきのあきら他のブロマイド
④天地真理・野口五郎大型ポスター
⑤別冊ふろく・一条ゆかり作「摩耶の葬列」
それが、1975年11月号のふろくとなると大きく変化しています。
《たまらない魅力の6大ふろく》
①陸奥A子のアイビーノート♡町では買えないハイセンスノートなのです!
②みよしららのマジョリカティッシュいれ
③みよしららのマジョリカティッシュ♡すてきなティッシュ5組いりよ!
④ひでくんのメルヘンボックス
⑤陸奥A子の恋占い下じき
⑥りぼん新聞♡陸奥、田渕、太刀掛、篠崎4先生特集よ!
確かに驚くほどの変化です。私は1972年4月に中学校へ入学し、1975年3月に卒業したので、1974年のふろくが変化する時は丁度その真っ只中にいたことになります。実際にふろくは我々の大きな関心事でした。
「りぼん」には、毎月巻頭カラーページで懸賞もありました。私たちは全国から応募ハガキが来るので当たる確率を少しでも上げようと、毎月、クラスで予選会(?)を行いました。1等賞に応募する人、2等賞に応募する人、3等賞に応募する人…をあらかじめ決めておくというのです。5等か6等くらいまでありました。中学生にとってはハガキ代も高価でした。
皆んな真剣な面持ちで、腕を体の前で交差して、右手の甲を左側に、左手の甲を右側にして両手の指を組み合わせると、ぐるりと一回転させ、握った手の隙間から見える空間の形によって、グーチョキパーを出しました。応募権利を獲得したものだけが、ハガキを出してもよいことになっていましたが、お察しのように、毎月誰も当選者は出ませんでした。
少女コミック派(萩尾望都・大島弓子)
ところで、中学生になって驚いたことのひとつが、他の小学校から来た子たちの中には、「マーガレット派」ばかりでなく、「少女フレンド派」や「なかよし派」もいたということです。特に驚いたのが「少女コミック派」の子たちで、彼女たちは、ふわふわとした髪型や、そのたたずまいがまるで萩尾望都や大島弓子のマンガから抜け出てきたようでした。
萩尾望都の「ポーの一族」(1972-76)や「トーマの心臓」(1974)、大島弓子の「ミモザ館でつかまえて」(1973)など、人生で繰り返し読むことになるマンガを知ったのはこの頃でした。
しかもさらに驚いたことに、彼女たちは実際にマンガを描いていました。私が授業中にノートの切れ端に書き込むイタズラとは、もうなんというか、レベルが違いすぎていて、コマ割りもセリフもストーリーもなにもかもが玄人はだしで、もうこのまま出版社に持ち込めば来月には掲載されるのではないかというレベルでした。
彼女たちが描いたマンガには、表紙に回覧板のよう名前を欄が設けられていて、読みたい人は、そこに名前を書き込んでおくと、20人くらい後に回ってくるという方式でした。クラスを越えて皆んなが名前を書き込みました。次号の予約表もありました。
私は順番が待ち遠しくて、作者の子たちに、最初から原稿を鉄筆で描いて、ガリ版刷りにしたらどうか、印刷は私が引き受けると申し出ましたが、絵を描く時、消しゴムで消しながらでないと描けないからと言われてしまいました。私は彼女たちはまもなく本物のマンガ家になるのだろうと信じていました。もしかしたら私の知らないペンネームでデビューしたかもしれません。
当時、歌番組の「スター誕生!」から実際に森昌子、桜田淳子、山口百恵ら中3トリオの歌手が誕生していくのをこの目で見ていましたから、マンガ家も同じように、雑誌の後ろの方に載っている新人募集コーナーから、身近な友人もこのようにデビューしていくのが当然に思っていました。
そういえば、私が中学生の頃にデビューした、くらもちふさこ、槇村さとる、岩館真理子などの新人マンガ家の作品を読むのも楽しみでした。
中学生の頃は、本当に明けても暮れてもマンガばかり読んでいたように思います。けれども、あれほどマンガに打ち込んでいました私ですが、高校生になると、どういうわけか急速にマンガへの関心を失って行きました。もう一生分マンガは読み尽くしたという思いがあったのかもしれません。
高校生になってからは、友人の誰かからまわってくる大和和紀「はいからさんが通る」(1975-77)や、有吉京子のバレエマンガ「SWAN」(1976-81)、竹宮恵子「風と木の詩」(1976-84)など、いくつかのマンガを追いかけていたくらいです。先に触れた「13月の悲劇」の作者、美内すずえの名を口にすると、決まって「ああ、あの『ガラスの仮面』の」との反応が返ってきますが、私は読んだことはありません。
少女マンガの影響
当時の様々なマンガを思い起こしてみると、大抵主人公は「ドジな女の子」と相場が決まっていました。多くは「チビで、目ばかり大きい、痩せっぽちな女の子」で、ハリウッド女優のようにボン・キュッ・ボンの抜群のプロポーションでないことにコンプレックスを抱いていました。
私はそういう設定を読むたびに腹立たしく感じていました。なぜならもしも主人公と逆に「デカくて、目の小さい、太っちょの女の子」だとしたら、主人公にはなれません。つまり「小柄で、目が大きくて、ほっそりしている女の子」こそ、現代社会における女の子の憧れの姿であって、それをあろうことかコンプレックスに感じるとはなにごとぞ!と私は思っていました。
当時、私は自分の容姿に強烈なコンプレックスを抱いていました。私は背の高い方でしたので、身体検査のたびに目立たないように縮こまって、1cmでも背が低く計測されるように努力していました。標準体重を下回っていても自分のことを太り過ぎだと思っていて、どんなに憧れても恋愛が成就することはきっとないし、おしゃれをしても滑稽なだけだと思っていました。
当時の写真を眺めて、他の子たちと一緒に仲良く笑っている自分の姿を見ると、タイムマシンに乗って半世紀前へ戻って「そんなことないわよ、可愛いわよ」と自分自身に言ってあげたくなりますが、当時は本気でそう思い込んでいました。今思うと、ほっそりしたバレリーナや小さくて目ばかり大きい痩せっぽちの主人公と無意識のうちに比較していたのだろうと思います。
私はドジではなかったし、内股で歩くようなことも、うつむきがちですぐに顔が真っ赤になるような恥ずかしがり屋でもありませんでしたが、そんな自分もイヤでした。できればもっと「乙女チック」で「かわいい存在」でありたいと思っていました。これは間違いなく、日々、マンガによって洗脳されていたからだと思っています。
大塚英志が指摘する「彼女たちの現在からは想像がつかないかもしれないが、彼女たちの内側にはそういった〈かわいい〉にまつわる感受性とそれとともに生きた時代が確実に封印されている」という考察に私も賛同します。
そして、さらに言うならば、「いつの日か、ありのままの本当の私に気づいてくれる男性がきっと現れるに違いない」という謎の確信も、多くの女子と同様に心に内包してきたように思います。
大塚英志の本が出版されてまもなくバブル経済が弾け、失われた30年を経て、りぼんのふろくに並々ならぬ情熱を燃やした私たちも、還暦も半ばを過ぎました。子どもが成長して孫のいる人も、キャリアをまっとうして60歳、あるいは65歳の定年を迎えた人もいるでしょう。
酸いも甘いも噛み分けたこの年齢になっても、私は自分の心の中に、少女の頃夢見た「異胎譚」や、ありのままの自分を好きになってくれる白馬に乗った王子様幻想が残っているのを知っています。私は「源氏物語」にはまったくと言って良いほど興味を持てず、「平家物語」や「太平記」を愛しているというのに、思春期に読んだ少女マンガの価値観に縛られているようです。
「子どもの頃に好きだったマンガ」について語ると、おもしろいほど年齢が明らかになります。時代によって、またマーガレット派、少女フレンド派、花とゆめ派などの読んでいた雑誌によっても、お気に入りのマンガ家や作品が違うのも興味深いところです。一冊の雑誌内ですら好みは分かれます。ひとりひとり、きっと独自のマンガ歴があることと思います。
私は相変わらずバレエやピアノが好きで、今でも毎月のように劇場に足を運んでいますが、素晴らしい跳躍を見せる男性ダンサーが出てくると、マンガを読んでから半世紀以上が経っても、決まって「アラベスク」の先生のように跳躍を封印したら…という思いが、未だに湧き上がってくるのです。
