書斎【風まかせ文芸部】
──一枚、また一枚。頁の捲る音。
【幸福リネン】と書かれた書物。之も違う。幸せは生涯気付けないらしい、と無駄な知識だけを増やす。
電球色の暖かさに包まれた書斎は、世界と私の境界線を奪っていく。暑くも寒くも無い事に、居心地の悪さを感じるのは末期だろうか?心臓の鼓動と、頁の音。其れだけが此の部屋を反芻し続ける。もう一日は無言で過ごした気がする。退屈の眠気はもう限界で、難解な本にも目眩がする。頸にぶら下げた懐中時計は未だ、六時間程しか進んで居ない様だけれど。少しの不安と、大いなる退屈。其の為発しようとした声は、先に告げるキャリッサの声によって喉奥に引っ込んで仕舞う。
「どう?見つかった?」
溜息混じりで呟かれた疑問に同情する。
「ううん、見当たらないね」
成る可く柔くしようと、声を調整してみたけれど、唯の甘ったるさになって、胃もたれ。此方もやっぱり溜息が出て仕舞う。【世界救済方法】だなんて名前の、巫山戯た本を探し始めてはや6時間。なんの為に探していたのかも忘れそう。
───世界にたった二人の聖女様への依頼?
狂った宗教家としか思えないけれど、依頼を受けてしまった私にも、或いは落ち度が有るだろう。
「本当に世界は滅びると思う?」
キャリッサは哀しみなんて見せず、─寧ろ声を弾ませて──世界の終焉を語る。キャリッサは信じて居るのだろうか?あんな馬鹿らしい事を。
「ううん、どうせしないよ。何時もの狂言。神父様のお遊び」
そんな無駄な御遊びに付き合って、六時間も書斎で時間を無駄にしているのだから、嫌気が差すのも無理はない。喋りながらも動かしていた指先に血が滲む。紙で切った様だ。指先に溜まる熱に何度目か分からない溜息が出る。キャリッサは、其れを見て絆創膏を貼ってくれる。眉と口角を精一杯下げて、駆け寄る様。まるで聖母だ───。劣等感と羨望感、少しの独占欲?保護欲?其れ等が指先から熱を奪う。四肢は冷えて、脳は熱を持って、ややこしい。先程迄彼程熱を持っていた指先も冷えてしまった。
「……ごめん、有難う。」
少し震えた声は聞かない振りをして誤魔化す。咳払い一つ。
「全然いいよ。大丈夫?無理はしないでね」
優しい。矢張り甘ったるいけれど。其の心配の居心地の良さと、何とも言えない酩酊感から、上の方に有る本を落としてみようかな?なんて、聖女らしくない衝動を胃の底に沈ませる。
「それで──滅亡はしないと思うよ」
柔く言うつもりだったのに今度は、固くなって仕舞う。キャリッサを怖がらせたくは無いんだけれど。書斎に予め持ち込んで置いた、サンドウィッチと御水で、要らない欺瞞も疑念も流し込んでおく。キャリッサも小動物の様に頬を膨らませて餐餌を摂りながら、私の話に耳を傾ける。可愛らしい子。一頻り口の中を空にしてから喉を震わせる。
「だけどさ、御遊びにしては神父様、遅くない?」
少しだけ私も感じていた懸念を、言葉にして仕舞う。口に出せば本当に成って仕舞うと言うのに──。其れでも、確かに感じていた違和感の共有に安堵を覚える。懐中時計をもう一度見る。先程見た頃から、三十分程しか経っていない。本当に?幾ら閉塞感があろうと、溜息が零れてしまおうと、こんなにも進みが遅いのは可笑しいだろう。
「ねえ、私達が話し始めて、何れ位経ったかな?」
懸念の否定を願って問う。視界が揺れる。書斎の暖かさが背筋を冷やす。
「……?三時間は経ったんじゃないかな」
意図の読めない私の疑問にも応えるキャリッサは矢張り優しいけれど。だけど、其の優しさも霞んで仕舞う。時計の無い此の書斎の、明確な現実は懐中時計だけだと言うのに。昨日迄は、壊れていなかったと思う。この書斎に入る前が昨日なのかすらも、最早解らないのだけど。唾液を胃に送る。心臓が震える。頭の奥の警笛は、確かに、世界の滅亡を感じさせる。
「外、出よっか」
私の恐怖と疑念に気付いたんだろう。キャリッサは私の手を掴む。もう片方の手で常夜灯を持って、扉を軋ませる。出ては、行けないと思う。其れを言える程の確証も、勇気も無いけれど。何より恐怖から来る好奇心には負けて仕舞う。痺れを感じさせる脚を、無理に進ませる。冷えた空気が扉の隙間から射し込む。少し重い扉も二人で押して。
───ああ、そっか
綺麗な地獄絵図。思わず笑みが零れた。キャリッサとの手は、繋いだまま。冷えた風が、熱い脳に吹鳴を鳴らす。揺れる視界でキャリッサを映す。可愛い、綺麗な、聖女様。【幸福リネン】は嘘をついた。生涯で幸せを感じる事は、屹度、決して、不可能で無い!
冷えた書斎。一つの本は風に吹かれ頁を開く。
『聖女を贄に。然すれば世界は均衡を。』
───聖女二人を生贄に。然すれば汝のみぞ救われよう。
祭殿にて聞こえる神聖なる声。我等の神。唯一神。ノアの方舟、という話を思い出す。そうか、私はノアになれるのだな。永遠の幸福を求めてはや四十年。こうして報われる日が来るとは思わなかった。神は私についたようだ。聖女二人を呼び出す。適当な理由をつけて書斎へ閉じ込める。二人には、申し訳ないが大切な犠牲だってあるのだ。皆の幸福の為だ、致し方ない。屹度、彼女らも許して呉るだろう。
……大洪水?
聖女らを閉じ込めて二日程。もう餓死でもしただろう。而して平和な日々を送っていたというのに。神は、私達に怒りを覚えられて居るらしい。如何して?解らない。解らない……。
大波が迫る。兎角、私は間違えた様だ。其れだけが事実だろう。世界は、私と神が滅ぼした。贖罪は、聖女では為らなかったらしい。良い、善い。私が生贄にでも成れるなら、今直ぐにでも成ってやると言うのに……。
済まない。私は、失敗した──……
幸福が、皆に訪れる事を、祈って。
