人生後半で、「個」を始める

「男が妻を棄てる」のではなく、「女が男を棄てている」

三枝和子と後藤明生の対談で、三枝が非常に面白いことを言っている。中高年の男女、つまり結婚し、子供を持ち、長い時間を共に過ごしてきた夫婦についての話である。

一般には、子供を産んだ女が性的な「魅力」を失い、その結果、男が妻から離れていく、と考えられている。男は不倫をしたり、家庭に居場所を失ったり、離婚に至ったりする。そして社会的には、「男が女を捨てた」と糾弾される。

しかし三枝は、そこに別の見方を差し込む。
三枝は、子供を産んだ後、女にとって男は基本的には「用済み」になるのだと言う。
もちろん、これは社会制度や倫理の話ではない。あくまで「動物」としての人間を見た場合の話である。
女が「魅力」を失うのは、単に衰えたからではない。女の側が、無意識のうちに、もう男を必要としなくなっているからではないか。つまり、男が女を棄てるより先に、女が男を棄てているのだ、というのである。

三枝はこう言う。
男が妻から逃げたくなる構造の根本は、というか、妻がうっとうしくなる関係の根本は、女が要らなくなった男を棄てているところにあるのです
これはなかなか強烈な言葉である。
だが、妙に説得力がある。

生殖が終わった後、男女はどうなるのか

そもそも、男と女が性的に惹かれ合うことの根底には、生殖への促しがある。
恋愛や性愛は、本人たちにはロマンチックなものとして経験される。相手の声、顔、匂い、仕草、知性、弱さ、強さ。そうしたものに惹かれているように思う。
しかし、動物として見れば、その奥には生殖へ向かう力がある。種を残すために、男と女は互いを必要とする。性的魅力とは、その必要を成立させるための装置でもある。
だとすれば、子供を産み、育て、生殖という目的が一段落した後、男女の関係は当然変質する。

もはや互いを性的に惹きつける必要はない。少なくとも、以前と同じ意味では必要ない。
そこで女は、男を棄てる。

これは意識的な行為ではない。本人が「もうこの男は要らない」と判断しているわけではない。むしろ、生活のなかでは夫の世話をし、家族を維持し、妻としての役割を果たしているかもしれない。
だが、深いところでは、すでに男は性的対象として不要になっている。

男はそれを感じ取る。
妻が自分を見なくなった。妻が自分に触れなくなった。妻の関心が子供や生活や日常の管理へ移ってしまった。男はそう感じる。
そして、妻がうっとうしくなる。
しかしそれは、単に男の身勝手ではないのかもしれない。男は、自分がすでに棄てられていることに耐えられなくなっているのかもしれない。

「うまくいっている夫婦」とは何か

では、うまくいっている夫婦とは何なのか。
それは、いつまでも男と女であり続けている夫婦のことなのだろうか。
むしろ逆ではないか。
長く続く夫婦とは、ある時点で、男と女であることを脱している夫婦なのではないか。

若い頃の夫婦は、まず男と女である。恋愛があり、欲望があり、性的な緊張がある。互いを異性として求め、相手に選ばれることによって自己を確認する。
しかし、子供が生まれ、生活が始まり、長い年月が過ぎると、夫婦は別の関係へ移行しなければならない。
男と女ではなく、共同生活者になる。
父と母になる。
家族という事業を運営する共同経営者になる。

そして、子供が自立した後には、さらにもう一度、関係を組み替えなければならない。
そこに残るのは、もはや「夫」や「妻」という役割だけではない。二人の人間である。
この移行に失敗すると、夫婦は互いにうっとうしい存在になる。
かつては必要だった相手が、今はただそこにいる。愛しているわけでも、欲望しているわけでも、深く語り合うわけでもない。ただ、長年の習慣と惰性によって同じ家にいる。
そのとき夫婦関係は、愛の関係ではなく、余生を圧迫する制度になる。

親子関係もまた、時限付きである

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