「語れないもの」のための地図──宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』『環状島へようこそ トラウマのポリフォニー』

この本は、トラウマを「理解したい」と思ったことのある、すべての人に薦めたい

宮地尚子の『環状島=トラウマの地政学』と『環状島へようこそ トラウマのポリフォニー』は、トラウマやPTSDに関心のある人だけに向けられた専門書ではない。
もちろん、精神医療、心理臨床、福祉、教育、司法、報道、研究などの領域で、傷ついた人の語りに接する立場にある人にとっては重要な本である。しかし、この二冊が問いかけている問題は、それよりはるかに広い。

性暴力やDV、児童虐待、いじめ、災害、戦争、差別、ハラスメント、犯罪や事故についてのニュースを見聞きし、「なぜもっと早く声を上げられなかったのだろう」「どうして出来事が終わったあとも苦しみ続けるのだろう」と疑問を抱いたことのある人全員に、この本は薦められる。

また反対に、「当事者ではない自分が、その問題について発言してよいのだろうか」「被害を経験していない者が語ることは、当事者の声を奪うことにならないか」とためらったことのある人にも、ぜひ読んでほしい。
とりわけ現在の公共空間では、「誰が語る資格を持つのか」という問いが鋭く突きつけられる。SNSでは、「当事者でなければ分からない」「もっと深刻な被害を受けた人がいる」「あなたが被害者を代弁する資格はない」「当事者として説明する責任がある」といった言葉が日々交わされている。
これらの言葉には、それぞれ切実な理由がある。長いあいだ無視されてきた当事者が、自らの経験を奪い返すために発言権を求めることは当然であるし、外部の人間が無自覚に当事者の経験を要約し、消費し、代表してしまう危険も現実に存在する。
しかし一方で、語る者の資格を厳密に審査し始めると、誰もが自分の立場を疑い、語ることも聞くこともできなくなってしまう。最も深く傷ついた人ほど言葉を失っているのだとすれば、当事者性を発言の唯一の根拠とすることにも限界がある。

宮地が問うのは、単純に「当事者の声を尊重すべきか否か」ではない。
誰が、どこから、どのような距離で語っているのか。誰がその声を聞き、どのような力関係の中で受け止めているのか。そして、語られている声の背後に、なお語ることのできない人々がいることを、私たちはどのように想像できるのか。
本書はトラウマについて論じる本であると同時に、語ること、聞くこと、代表すること、沈黙することをめぐる倫理の本なのである。

「トラウマは語りえない」という逆説から始まる

宮地の議論は、「トラウマ体験は本来、語りえない」という逆説から始まる。
これは、単に「非常につらい出来事だから話しにくい」という意味ではない。
トラウマ体験の核心には、そもそも通常の言語的な記憶として形成されなかった部分がある、ということである。

私たちは日常の出来事であれば、それを時間の順序に並べ、原因と結果を結びつけ、「いつ、どこで、何が起きたか」という物語にすることができる。
記憶は経験から少し距離を取り、過去の出来事として整理される。
しかし、圧倒的な暴力や恐怖にさらされたとき、人はその出来事を通常の仕方では処理できない。
経験は、まとまった物語ではなく、断片的な映像、音、臭い、痛み、身体感覚として残る。ある瞬間に突然よみがえり、現在と過去の区別を崩し、まるで出来事がいま再び起きているかのように人を襲う。
トラウマ記憶は「過去を思い出す」のではなく、「過去が現在に侵入する」というかたちで現れるのである。

したがって、トラウマを語ることには根本的な矛盾がある。本来は言葉にならないものを、他者に伝わる言葉へ変えなければならない。
しかも、その言葉はしばしば証言として扱われるため、一貫性や正確さ、説得力を求められる。
だが、トラウマそのものが記憶の連続性を破壊している以上、語りが途切れたり、前後したり、細部が変化したりすることは起こりうる。社会や司法が求める「整合的な証言」と、トラウマを負った人が実際に語れる言葉とのあいだには、深い隔たりがある。

さらに、発話者は語った内容だけでなく、語り方によっても評価される。感情的すぎれば「冷静ではない」と疑われ、淡々としすぎれば「本当に傷ついているのか」と疑われる。
沈黙すれば「なぜ早く言わなかったのか」と責められ、繰り返し語れば「被害者の立場を利用している」と見なされる。
トラウマを語る人は、語っても疑われ、語らなくても疑われるという二重拘束に置かれやすい。
宮地の環状島モデルは、こうした語りの困難を、個人の勇気や表現力の問題に還元せず、語る者と聞く者を取り巻く空間全体の問題として可視化する。

真ん中には、誰にも届かない「内海」がある

『環状島=トラウマの地政学』の中心となるのが、「環状島」という空間的なメタファーである。
環状島は、中央が海になったドーナツ状の島として描かれる。
真ん中には「内海」があり、その周囲を「内斜面」が囲み、さらに「尾根」を越えると「外斜面」が広がり、その先には「外海」がある。

最も重要なのは、島の中央にある内海である。
ここには、トラウマのただ中に沈み、声を発することのできない人々が位置づけられる。出来事によって命を奪われた人も、深刻な解離や精神的崩壊によって語れない人も、社会的な抑圧や加害者からの脅迫によって沈黙させられている人も、内海にいる。
内海は、単に「まだ証言していない人々の場所」ではない。
言葉が届かず、本人にも周囲にも理解しきれないトラウマの核心そのものを象徴している。

ここには、宮地の理論の重要な倫理がある。支援者や研究者は、ともすれば当事者を理解しようとする。何が起き、どう傷つき、何を望んでいるのかを明らかにしようとする。その努力は必要である。しかし、「理解した」と思うことには危うさがある。他者の経験を既存の診断名や理論、社会的カテゴリーへ回収し、本人の経験よりも説明の枠組みを優先してしまう可能性があるからだ。
環状島の中心には、誰にも到達できない内海がある。この設定は、他者理解には必ず限界があることを示している。当事者本人ですら、自らの経験の核心を完全には把握できない場合がある。
出来事の一部が記憶から切り離され、身体症状や反復行動、悪夢として現れることもある。したがって、「あなたの気持ちは分かる」という言葉は、ときに暴力的でさえある。必要なのは、理解できない部分が残ることを認めたうえで、なお耳を傾ける態度である。

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