結婚した途端、人はなぜ変わってしまうのか
結婚した途端、人は変わるのか
結婚した途端に、夫がモラハラ化した。
恋人時代は優しかったのに、結婚後は支配的になった。
小さな失敗を責める。
家事の仕方に口を出す。
妻の交友関係や行動を管理しようとする。
不機嫌で家庭の空気を支配する。
そういう話を聞くことがある。
一方で、結婚した途端に、妻が苛立ちやすくなった、という話もある。
恋人時代は穏やかだったのに、結婚後はいつも不満を抱えている。
夫の言動に過敏に反応する。
家事や生活の細部に怒る。
「どうしてわかってくれないのか」と失望する。
やがて、夫婦の会話そのものが緊張を帯びていく。
もちろん、結婚には現実がある。
恋愛は、ある程度まで非日常でいられる。
会う日を決め、服を選び、言葉を選ぶ。
お互いに「よい自分」を差し出すことができる。
しかし結婚は、生活である。
寝起きの顔を見る。
疲れているときの声を聞く。
金銭感覚の違いが見える。
家事能力の差が見える。
衛生観念の違いが見える。
親族との距離感も見える。
子どもが生まれれば、余裕はさらに削られる。
だから、恋愛中には見えなかったものが、結婚後に見えるようになる。
これは確かにある。
けれど、それだけでは説明しきれない変化がある。
単に「生活が大変になった」だけではなく、まるでその人の内側から、別の人格が出てきたように見えることがある。
優しかった人が、急に支配する人になる。
穏やかだった人が、急に責める人になる。
自立していた人が、急に相手に依存する。
愛していたはずの相手に、なぜか敵意を向ける。
それは、本当に「変わった」のだろうか。むしろ、結婚によって、それまで眠っていた何かが起動したのではないか。
私はそこに、「家族という役割意識のトラウマ」とでも呼ぶべきものがあるのではないかと思っている。
人は、結婚相手と結婚しているようで、実際には、自分の中にある「家族観」とも結婚している。
そしてその家族観は、理想や価値観だけでできているのではない。
そこには、子ども時代の恐怖、怒り、諦め、憧れ、屈辱、寂しさが含まれている。
結婚とは、二人が新しい家族を作ることだと言われる。
だがその瞬間、皮肉にも、それぞれの古い家族が心の中で目を覚ます。
家族は最初の社会である
人は誰もが、子ども時代に「家族」というものを学ぶ。
それは、学校で教わるものではない。
言葉で説明されるものでもない。
毎日の空気の中で、身体に染み込んでいくものだ。
父が帰ってくると、家の空気が硬くなる。
母が不機嫌になると、全員が黙る。
兄が褒められ、自分は比べられる。
妹ばかりが守られ、自分は我慢を求められる。
親の喧嘩が始まると、子どもが道化になって場を和ませる。
誰かが泣くと、別の誰かが黙って後始末をする。
家族は、子どもにとって最初の社会である。
そこでは、愛され方だけでなく、生き延び方も学ぶ。
「怒っている人には逆らわない」
「本音を言うと面倒なことになる」
「自分が我慢すれば丸く収まる」
「弱みを見せると利用される」
「甘えると拒絶される」
「期待すると傷つく」
「家族とは、誰かが誰かを支配するものだ」
「家族とは、誰かが誰かの犠牲になるものだ」
こうした感覚は、単なる記憶ではない。
もっと深いところにある。
頭で「そんな家庭はおかしかった」と理解していても、身体は別の反応をする。
大きな声を聞くと身構える。
沈黙が続くと不安になる。
相手が少し不機嫌なだけで、自分のせいだと思う。
逆に、自分が不安になると、相手を支配して安心しようとする。
子どもは、家庭の中で役割を引き受ける。
空気を読む子。
親の愚痴を聞く子。
きょうだいの面倒を見る子。
問題児になる子。
優等生になる子。
笑わせる子。
存在を消す子。
親の代わりに親のように振る舞う子。
家族内の役割は、本人の性格のように見える。
しかし実際には、それは、家族というシステムの中で与えられたポジションでもある。
そして厄介なのは、その役割が大人になっても残ることだ。
家庭を出たはずなのに、親から離れたはずなのに、結婚した瞬間、再びその役割に戻ってしまう。
子どもの頃に「空気を読む子」だった人は、配偶者の顔色を過剰に読む。
「我慢する子」だった人は、頼ることができず、ある日突然怒りを爆発させる。
「支配されていた子」だった人は、今度は自分が支配する側に回ることがある。
家族の怖さは、そこにある。
家族は、人間にとって最初の愛の場所であると同時に、最初の傷の場所でもある。
そして結婚は、その両方を呼び起こす。
恋愛中は「家族モード」が起動しにくい
恋愛中は、こうした家族の傷が比較的隠れやすい。
恋愛には、距離がある。
会う時間は限定されている。
相手に見せる自分を、ある程度は選べる。
疲れているときは会わないこともできる。
不機嫌な日は、連絡を少し減らすこともできる。
何より、恋人はまだ「家族」ではない。
恋人は、外部の存在である。
日常の外にある、特別な相手である。
だからこそ、人は恋人に対して、少し演出された自分でいられる。
もちろん、恋愛でも愛着の傷は出る。
返信が遅いだけで不安になる。
少し距離を置かれると見捨てられたように感じる。
逆に、親密になりすぎると怖くなって逃げたくなる。
それでも恋愛には、まだ逃げ場がある。
しかし結婚すると、相手は生活の内側に入ってくる。
朝起きたとき、そこにいる。
夜帰ったとき、そこにいる。
自分の機嫌が相手に影響し、相手の機嫌が自分に影響する。
金銭、家事、睡眠、食事、親族、子ども、将来設計。すべてが共有される。
この「共有」が、人を不安にさせる。
なぜなら、共有とは親密さであると同時に、逃げ場の喪失でもあるからだ。
恋人時代には、相手が不機嫌でも一時的に距離を置けた。
しかし結婚後は、その不機嫌が家の空気そのものになる。
相手の沈黙が、部屋の温度になる。
相手の怒りが、自分の生活環境になる。
このとき、脳は相手を「恋人」ではなく「家族」として認識し始める。
すると、古い記憶が動き出す。
父の不機嫌。
母の沈黙。
兄弟姉妹との競争。
家の中で自分が背負っていた役割。
言いたくても言えなかった言葉。
甘えたくても甘えられなかった記憶。
結婚後に人が変わるように見えるのは、その人が突然別人になるからではない。
むしろ、恋愛中には出てこなかった「家族の中の自分」が出てくるからである。
恋愛は、その人の魅力を引き出す。
結婚は、その人の歴史を引き出す。
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