戊辰戦争と伊豆半島
伊豆は、戊辰戦争において直接の大きな戦火に見舞われることは少なかったものの、その地理的な位置や歴史的背景から、いくつかの形で戊辰戦争と関わっていました。
主な関わりは以下の通りです。
* 旧幕府軍の敗走経路
* 慶応4年(1868年)5月に行われた「戊辰箱根戦争」(箱根湯本の山崎の戦い)で、新政府軍と小田原藩に敗れた旧幕府軍の遊撃隊(人見勝太郎、伊庭八郎らが率いる)は、箱根宿から十国峠を越え、伊豆半島の東海岸、特に熱海方面へと敗走しました。彼らにとって伊豆は、一時的な避難場所であり、再起を図るための通過点でもありました。この後、多くの旧幕臣が奥羽方面や函館へと向かっていきます。
* 小規模な衝突と地域の動き
* 下田の赤坂峠での衝突: 伊豆半島の南端に位置する下田でも、戊辰戦争中に小規模な衝突があったとされています。特に「赤坂峠」が古戦場として知られ、新政府軍と旧幕府側についた藩兵との間で戦いがあったと伝えられています。当時の砲弾の跡が残る場所もあり、地域では慰霊祭が行われるなど、その歴史が語り継がれています。
* 三島宿での戦闘回避: 戊辰箱根戦争の際、遊撃隊は三島宿(現・三島市)にも到達しました。当時、三島宿には新政府方の旧旗本・松下嘉兵衛の兵が陣を張っており、一触即発の状況でしたが、三嶋大社の宮司である矢田部盛治が、本陣当主の世古六太夫とともに両者の間をとりもち、三島宿での戦闘を回避させることに成功しました。これにより、三島は大きな被害を免れました。この逸話は、地元の歴史として長く語り継がれています。
* 韮山(現・伊豆の国市)と江川家: 幕末の軍事技術の拠点の一つであった韮山反射炉は、戊辰戦争時には既に稼働していませんでしたが、江戸幕府の代官を世襲してきた江川家は、戊辰戦争勃発後、新政府軍側につきました。江川邸には当時の史料が残されており、動乱期における地域の有力者の動きを垣間見ることができます。
* 戦後の影響
* 旧幕臣の移住: 戊辰戦争後、多くの旧幕臣が生活の拠点や再起の場所を求め、日本各地に移り住みました。伊豆の温泉地、特に熱海などは、敗戦の傷を癒す場所として、また新たな生活を始める場所として、一部の旧幕臣に選ばれました。会津藩士であった柴四朗(東海散士)の墓碑が熱海の海蔵寺にあることも、その一例です。
伊豆は、戊辰戦争の直接的な主戦場とはならなかったものの、その地理的・戦略的な位置から、旧幕府軍の移動経路となり、また地域住民の努力によって戦火を免れたり、小規模な衝突が発生したりするなど、様々な形でこの激動の時代の影響を受けていたと言えるでしょう。
