短編小説集
「付喪神の影」
学校の予鈴が鳴り、一日が始まる。つた子はあくびがこみ上げてくるのを我慢しながら、教卓に立つ先生の話を聞いていた。今日の授業や次の祝日、次のテストなどの事務的な長い話を要約していると、誰かの足音が聞こえてきた。廊下に響き渡る音が大きく、テンポも速く、つた子は先生の話を左耳から流し、右耳は廊下の足音を聞いていた。足音は近づいていき、後ろで扉が開いた。
「遅いですよ。原田さん」
「すみません。自転車が壊れてしまって…」
頭を下げる原田ゆなの顔は真っ青だった。つた子は息をのみ、周りは小声で前後と話していた。朝礼が終わり、つた子は立ち上がり、ゆなに近づいた。
「ちょっと。大丈夫なの。体調悪くない?」
「平気よ。風に当たり過ぎただけだから」
目に隈があるゆなは作り笑いを浮かべていて、つた子は視線をゆなの後ろに向けると、ため息が聞こえた。
「ゆな。つた子もアタシも納得していないから、正直に教えてほしい。鏡を見れば分かるが、真っ青だぞ」
「私達は心配なんだよ。佐奈は真っ青と言っていたけど、正確に言ったら真っ白にも近い顔をしているからね。今日は部活がない日だから、練習の走り込みがないのは幸運だったけど、明日も同じだったら、倒れるのはゆなだよ」
ゆなの後ろの席に座っている佐奈が声を上げ、つた子は真正面からゆなを見つめた。ゆなはつた子から視線を逸らそうとしたが、佐奈の手が肩に置かれると、大きく息を吐いた。
「実は一週間ぐらい前から何か不気味な人が現れるようになったの…。最初は遠くから私のことを見ているだけだったけど…、昨日は自転車に乗る私の前に……」
「ストーカーじゃない。もしかして、自転車が壊れたのはその人の仕業なの」
「というか、警察に通報した方がいいって」
俯きながら、ゆなは呟くくらいに小さな声で話し出した。つた子と佐奈は耳を澄まし、ゆなと同じくらいの声の大きさで意見を言ったが、ゆなは首を横に振った。
「自転車はその人と接触していないよ…。家まで可笑しなところはなかったから…。でも、今日の朝、自転車に乗ろうとしたら、動かなくて、バスに乗ったの…。途中で不気味な人がいた場所を通ったら、急に寒気がして、ずっと感じるの…」
「やっぱり警察に話した方がいい。そいつの特徴、言えるか」
「それに…、あの人の顔が分からないの…。男の人か女の人かも分からなくて…。でも、なんとなく普通の人じゃないっていうのは分かるの…」
体を震わせ、自分の腕を擦るゆなを見て、つた子と佐奈は互いの顔を見合わせた。つた子も佐奈も言葉が出なかった。
「なら、俺が確かめに行こうか」
隣から声が聞こえ、つた子が横を見ると、同じ部活の男がいた。その男は友人の男の子の肩を抱いていた。男の子は目を細めているが、男の背が高く、体格の差もあって、引きずられている。
「丸山。何を言っているんだ。しかも、岡野まで巻き込んでいるし」
「別にいいだろう。女の子を夜中に一人で歩かせるよりもいいと思うぜ。なあ。岡野」
「勝手に決めるな」
佐奈が呆れた顔をしていると、丸山は親指を立て、腕の中にいる岡野に話しかけた。だが、岡野は不機嫌な顔を隠さず、丸山の手を自分の肩から外そうとしていた。
「それに、お前達も不安だろう。このまま原田を一人で帰すのは」
丸山に言われ、つた子と佐奈は喉まで来た言葉を引っ込め、再び顔を見合わせた。佐奈は塩辛い物を食べたような顔をし、つた子は警戒しているような目つきになっていた。空白の時間が一瞬空いた後、真剣な表情に変え、頷き合った。
「確かめに行くのはいいよ。でも、それは私達も一緒ね」
「そうだな。丸山達だけじゃ心配だから、アタシ達も行くぞ」
「そうこなくっちゃ」
「いや、僕の意見は」
つた子と佐奈の意を決したような声を聞き、丸山は満面の笑みを浮かべ、岡野はため息を吐いた。
「ゆな。今日は一緒に帰ろうね。でも、今は保健室で休もうか」
「顔が青以外の色がないから、先生に見つかったら、保健室に連れていかれるのは間違いない。自分から言った方がいいだろう」
「ごめんね…」
つた子と佐奈はゆなを立ち上がらせ、教室を出た。扉を閉める前にゆなが掠れた声を出した。
「全然大丈夫だよ。気にしていないからね」
「ああ。だから、早く元気になれよ」
つた子と佐奈はゆなの背を支え、階段を下りた。
*
授業を終え、空がオレンジ色になった時、つた子達は玄関の前に集まった。
「で、例の不気味な奴がいたのは何処だ」
「う、うん…。ここから右に曲がって、ずっと真っ直ぐのところに空き地があるのだけど…、その近くにいるの…」
「ああ。俺はその辺りに行くことがないから、全然分からないな。お前達は?」
丸山の声につた子も佐奈も岡野も首を横に振った。丸山は少し黙ったが、自分の頬を叩き、つた子達の顔を見た。
「まずはそこへ行くぞ。もしいたなら、俺がやっつけてやるからな」
丸山が明るい声を出すが、ゆなは俯いていた。つた子はゆなの手を握り、微笑むと、ゆなは涙目になった。ゆなが落ち着き、つた子達は不気味な人のいた空き地に向かった。歩き続けていくうちに通りでよく見かけるファストフード店がなくなり、住宅街になり、道路も平らな道から凹凸のある道に変わっていった。つた子達は会話をしながら、進んでいたが、ゆなの顔から緊張がなくなることはなかった。そして、ゆなのいった空き地の近くまで行くと、ゆなの呼吸が乱れた。
「ゆな。落ち着いて」
「いや、落ち着く方が難しいだろう」
つた子がゆなの背を擦っていると、岡野は拳を握りながら、目の前を睨んでいた。文句を言いたかったが、つた子も手が震えていた。道路の真ん中にはゆなのいった不気味な人が立っていた。だが、つた子には不気味な人が影に見えていた。体が全部真っ黒になっていて、表情が見えないが、姿からは古いコートを着たようにも見えた。その影はつた子達に近づいているが、物音一つ立たない。
「これはマジもんの奴か」
「やっつけるんじゃなかったのか」
「確かに言ったが」
先頭に立っていた丸山と佐奈がカバンを勢いよく投げた。だが、カバンは影の横を通り過ぎ、影の後ろに落ちた。
「逃げろ!」
カバンの落ちた音が聞こえると同時に丸山が声を上げ、つた子達は後ろに走り出した。ゆなが一瞬遅れたが、つた子が引っ張り、岡野が抱きかかえるように背中を押したことで、その場からは逃げられた。
「おい!あいつ、追いかけてくるぞ」
佐奈の声を聞き、つた子は後ろに視線を向けると、影がつた子達と同じ速度で歩いていて、つた子達は必死に前へ足を動かしていた。だが、影との距離が広がることはなく、つた子達の後ろを歩いていた。
「岡野。お前のカバンを俺に渡せ」
「少しでも隙ができたら、二手に別れるぞ。その方が逃げられる」
「分かった。お前らも気をつけろ」
岡野は丸山にカバンを渡し、つた子とゆなを引っ張り、左に曲がり、真っすぐに進んでいった。遠くでカバンが落ちる音が聞こえたが、つた子は足を止めなかった。
*
住宅街の真っ暗な道をつた子達は街灯の明かりを頼りに走り続けた。凹凸のあった道路は平らな地面に変わったり綺麗な道路に変わったりしていた。耳にはつた子達の足音と呼吸音しか聞こえなかった。だが、聞こえてくる呼吸音の一つが時々変な音の混じっていたものになっていた。
「岡野。ゆながそろそろ限界そうだよ」
「そうか。仕方がない。何処かに隠れるぞ」
つた子達は塀の影に隠れ、息を整えた。つた子も岡野も呼吸が荒れていた。三人は道路に座り、水筒の水を飲んだ。
「佐奈と丸山は大丈夫だよね」
「ああ。だが、合流場所を決められなかった。おそらく原田の家に向かうと思うが、ここがどの辺りか分からない。お前らは?」
つた子は首を横に振った。期待を込めて、ゆなの方を見るが、ゆなの口からは息しか出なかった。ただ、首を何度も横に振っていて、ゆなも分からないというのは察した。あちこち走っていて、つた子も岡野も元の場所に戻ることはできなかった。
「おや、どうしたんだい」
塀の上から声が聞こえ、つた子達は飛び退いた。見上げると、真っ白な髪を一つに結んだ老婆が塀から顔を出していた。寒気が吹き飛び、つた子はゆなを抱きしめながら、声を上げた。
「実は道に迷ってしまい、ここで一休みしていたところなのです」
「そうかい。それなら、私が案内してあげよう。ちょうど散歩に行くところなんだ。場所は何処かい」
老婆はつた子達を落ち着かせるような笑みを浮かべた後、顔を引っ込めた。しばらくすると、ストールを羽織り、杖を持った老婆が現れ、つた子達の行先を伝えると、歩き出し、神社へ入っていた。つた子と岡野は顔を見合わせた後、真剣な顔を浮かべ、神社に入っていった。つた子は入る前にゆなに視線を向けたが、ゆなはつた子の手を握りしめ、何も言わなかった。
「この神社は付喪神も祀っていてね。昔はこの地域で物を落とす人が多く、持ち主の元に帰りたいという願いから付喪神が生まれたんだ。付喪神は夜になると、落とし物を持ち主に返してくれていたんだ。だけど、時が経っても、落とし物は減るどころか増える一方になって、色々な物の願いを溜め込んだ付喪神は祟り神になり、人々を呪うようになってしまったんだね」
突然語り出した老婆につた子達は何も言わず、耳を傾けた。神社の小さな鏡の上まで来ると老婆は立ち止まり、口も閉じた。老婆は鏡を見つめ、口を開けた。
「祟り神になった付喪神を恐れた人々は祠を建て、怒りを鎮めた、という神話があるんだ。その祠は古くなってね。ご神体はこの神社に置かれ、祀られているんだ。ただ、祠があった場所には小さな鳥居と仏壇が残っているから、もし見つけたら、謝ってくれないかい」
「あの。なんで私達にこの話をするのですか」
「俺達に何か関係でもあるのですか」
「さあ。なんとなくだよ。話を聞いてくれて、ありがとう」
老婆の言葉を疑問に思い、つた子と岡野が声を上げると、老婆は笑い、つた子と岡野に塩を渡した。その時、聞き覚えのある声が聞こえ、つた子達は振り向いた。鳥居の向こうには佐奈と丸山の姿があり、つた子達は老婆に頭を下げた後、鳥居を通り抜けようと動いた。
「そのまま真っすぐに進んだら、元の場所に戻れるよ」
通り抜ける前に老婆の声が聞こえたが、強い風が吹き、振り返ることはなかった。つた子達を見つけ、佐奈と丸山が駆け寄った。
「無事だったか。良かった」
「俺達もあちこち逃げ回って、漸く巻けたぜ」
つた子達全員が明るい声を上げ、心を温かくした。落ち着いた後、後ろを見たが、老婆の姿はなかった。
*
つた子達は元の場所へ戻っていると、街灯が消え、道が見えなくなっていた。つた子達は辺りを見渡しながら、歩いていると、街灯が一斉に点灯した。だが、灯りは点滅していて、下には影がいた。体の皮膚が全部鳥肌に変わった感覚がして、口を閉め、スカートを握りしめて、耐えようとした時、手の中に物があり、さらにそれが重くなっていることに気づいた。ポケットの中だと老婆の貰った塩だと思い、ポケットに手を入れた。すると、影がつた子達から距離を一気に詰め、つた子は手を前に出した。振った衝撃により、塩が影にかかり、影が後ろに下がった。影の様子を見て、岡野も塩を投げた。すると、影は飛び退き、つた子達を警戒し始めた。
「なんか分からないけど、二人ともいいぞ。俺も加勢する」
「バカ!また勝手に動くな!」
表情が固くなっていた丸山は笑みを浮かべ出し、落ちていた空き缶を投げた。岡野が声を荒げるが、丸山は気に止めず、靴を脱ぎ、手に持ったが、影の方を見て、止まった。空き缶は影をすり抜け、コンクリートの上を転がった。空き缶から視線を影に戻すと、影が大きくなっていた。丸山は靴を下に落とし、はき直すと、ゆっくり岡野の方を向き、手を合わせた。
「やっちゃった」
「「ドアホ!!」」
岡野と佐奈が怒声を上げた。大きくなった影はつた子達の方に体を傾け、つた子達は距離を取るように離れ、空き地に入った。つた子と岡野が影の方に来て、塩を投げるが、影の動きが一瞬だけ立ち止まるくらいだった。ゆなと一緒に影から離れている佐奈と丸山は言い合いをしていて、ゆなが涙目になりながら、間に入っていた。つた子は空き地を見渡し、逃げ道を探していた。その時、視界に小さな鳥居が入った。空き地の隅の方にあり、空き地に入るまでは気づかなかった。小さな鳥居を見ていて、老婆の話を思い出し、小さな鳥居の方を凝視したが、老婆の話に出た仏壇は見えなかった。つた子は影を睨み続け、深呼吸をした後、塩を握りしめ、声を上げた。
「岡野!ちょっと仏壇に塩を供えて、謝罪してくるから、お願いできる?」
「はっ!えっ?て、ここかよ!」
つた子は塩を投げ、影の動きを一瞬だけ止めた後、困惑する岡野を残し、つた子は小さな鳥居まで全速力で走った。後ろで岡野達の声が聞こえるが、つた子は風のように小さな鳥居を通り抜けた。小さな鳥居の辺りは街灯の灯りが届かず、真っ暗だった。つた子はカバンについているキーホルダーのライトを使い、辺りを照らした。すると、目の前に真っ黒な木でできた仏壇が現れ、つた子はポケットを裏返し、仏壇の上に塩を全部置いた。つた子は焦りで頭の中が色々なことでいっぱいになりながら、二礼二拍一礼をし、謝罪した。終わった後もつた子の頭の中はまだ渦を巻いていたが、岡野達の声は聞こえた。
「どうなっているんだ」
「さっきまで効いていなかった塩が当たったら、薄くなりやがった」
つた子は頭の中にあったものを吹き飛ばし、岡野達のところへ戻った、すると、岡野達の目の前で影は黒から灰色に変わり、つた子が岡野達の隣に立った時には風に吹かれた火のように消えた。消えた後、上から音が聞こえ、見上げてみると、タオルが落ちてきた。そのタオルは汚れがついていたが、原田ゆな、と書かれているのが見えた。
「これは二週間前に落とした物…。何処で落としたのか分からないから、諦めていたけど…」
つた子はゆなの肩に手を置き、ゆなを見つめた。ゆなはタオルを握り、息を吸った。その音が耳に入り、つた子も息を吸った。
「「ごめんなさい!」」
同時に言ったつた子とゆなの謝罪は街灯に照らされた空き地に響き渡った。その後、つた子達は互いに無事家に帰ることができた次の日、ゆなは笑顔を浮かべ、部活で綺麗になったタオルを使っていた。それ以来、空き地であの影を見かけることはなくなった。
「ケイの指輪」
塵一つのない廊下に松葉杖をつき、加奈子はリハビリ室に向かった。松葉杖の音が外の蝉の鳴き声よりも大きく、廊下に響き渡り、加奈子は松葉杖を動かすのを速くした。後ろから冷たい風が吹き、加奈子の背を押した。だが、廊下には大人ばかりで、部活に取り組み、青春を楽しむ高校生の加奈子にはため息を吐きたくなる気分だった。リハビリ室に着いたが、気分が晴れることはなく、本来の予定だった大会のことを思い、足を睨んだ。景色を眺めているような気持ちのまま時間が過ぎ、手足が温かくなることなく、加奈子はリハビリ室を出された。加奈子は松葉杖をつき、病室に行き、開いた扉から自分のベッドの机に花束や色紙のような物が置いているのを見て、息を大きく吐き、病室を通り過ぎた。加奈子が松葉杖をつく音を響かせていた時、女性の声が聞こえてきた。看護師の優しそうな声と違い、硬いところのある声で、加奈子はその声が聞こえる部屋に飛び込んだ。テレビの前のソファーに座っていたのは黒髪の女の子で、加奈子は入院してからよく見る子だ。看護師は女の子のことをケイちゃん、と呼んでいて、加奈子も話しかける時はケイと呼んでいる。
「ケイ。またニュースを見ているけど、それは面白い?面白くないなら、チャンネルを変えていい?ごめんね。別に見たい番組があるというわけじゃないけど、今のニュースは高校生の部活の様子とかも取り上げるから、あまり見たい気分じゃないんだよね」
加奈子が話しかけ、ケイは頷く。これがいつもの二人のやり取りだ。医者や看護師に独り言を言っているように受け取られ、加奈子が顔を覗かれることがある。加奈子は医者や看護師の行動によく頬を膨らませている。
「ケイは見たいものとかある?せっかく見ていたニュースを変えたアタシが言うのもおかしいけど、さっき言った通りに部活をしているところが見たくないからで、見たい番組があるわけじゃないの」
加奈子はケイに色々尋ねた。加奈子とアナウンサーの声しか聞こえない空間にケイの声はなかった。加奈子はケイの声を加えたいと思い、質問しているが、叶ったことはなかった。加奈子の声が聞こえなくなり、アナウンサーの声が遠のき、時計の針が5から6に移動した。
「適当に変えるね」
ケイが頷くのを見て、加奈子はリモコンを持ち、1、2、3、4、…、と順番に変え、「どれでも鑑定所」という番組にし、他の人が来るまで見続けた。
*
ケイの隣に座り、質問し、テレビを見続けたり漫画や雑誌を読んだりということを数週間ずっと繰り返した。互いに話し相手となる人がいなくて、漫画や雑誌、テレビのある部屋にいることが多い。だが、ケイは偶に病室に籠る日がある。ケイはベッドが四つある加奈子の病室と違い、ベッドは一つしかない。病室はあちこちあるが、名札のない個人の病室は加奈子の記憶に強く残っていた。その上、個人の病室には黒い服の着た男達が来る。すれ違うことがあり、その日はケイがいないのだ。黒い服の男達がいなくなった直後、ケイの顔は真っ青になっていて、加奈子の心は靄がかかっていたが、触れる気にならなかった。黒い服を着た男達を何度も見るが、加奈子は黒い服の男達を頭から追い出した。
「加奈子はどうして私に話しかけるの?」
ケイが初めて話しかけたのは黒い服の男達がいなくなった直後だった。ケイの病室を通り過ぎようとして、黒い服の男達がケイの病室から出るところを見た。そして、ケイと目が合った。加奈子は記憶から消し去り、自分の病室に戻ろうとして、ケイに声をかけられた。加奈子はケイの声が耳に入った瞬間、松葉杖を支えにして、止まった。
「アタシの名前、覚えていたんだね」
「最初に私のことを呼ぶ時に名乗っていたでしょ。それより、質問に答えてくれる」
想像以上にケイの声が低く、加奈子は押し潰そうとする圧をかけられ、震えながら、口を開けた。空気が鋭いものに感じ、声を出すこと
「同い年の子で、話し相手がいなかったから。アタシの友達は部活の大会があって、忙しいから、あまり長居ができないんだよね」
「知っているわ。大会のニュースを見る度に変えていたら、分かるわよ。部活の大会に向けて、練習していたのに、骨折して、大会に出られなくて、悔しいということでしょ。それで、貴女は大会に出られないことへの現実逃避から私に声をかけたということよね」
ケイは針のように加奈子の心を刺した。加奈子は口元が引きつりそうになり、松葉杖を握った。指先が冷たくなり、松葉杖が少し揺れ、ケイの目にも松葉杖が映っていたが、何も反応せず、濁った水のような目で、加奈子の顔を見つめていた。
「この際に言っておくけど、貴女の現実逃避に私を巻き込まないでくれる。私はそれどころじゃないのよ。それに、もうすぐ死ぬし、色々迷惑があって、関わりたくないから。もう顔も見たくないわ」
ケイの言葉が加奈子を刀のように何度も刺し、加奈子は前のめりになり、ケイの病室から離れた。加奈子の目に光が戻ったのは自分のベッドの上であった。
*
次の日、加奈子は医者の口から退院の話が出た。だが、加奈子は大きな雲に覆われた青空のように受け取り、医者の話に頷く人形になっていた。診察室から出て、加奈子は松葉杖を壁に数回ぶつけながら、自分の病室に戻った。閉まっていた扉を開けると、扉と同じくらいの身長の女性が立っていて、加奈子は目を見開いた。
「貴絵姉さん!どうしてここにいるの!」
「時間が空いたからな。ずっと忙しくて、全然いけなかった。遅くなって、ごめんな。それより、もうすぐ退院だと聞いたぞ。良かったな」
加奈子は親戚の姉に抱き着き、貴絵は加奈子の頭を撫でた。それにより、加奈子の動きが止まったと分かり、貴絵は手を加奈子の頭から肩に下ろし、加奈子の顔を上げさせた。
「嬉しそうじゃないな。何かあったか」
加奈子は俯きたかったが、貴絵が加奈子の目から視線を動かすことがなく、ケイのことを正直に話した。貴絵は加奈子が話し終わるまで何も言わなかった。加奈子が口を閉じると、貴絵は笑顔を浮かべた。
「ケイという子のことは分かったが、加奈子はどうしたいんだ?このまま病院を離れるのは嫌だろう。加奈子は部活の大会の時のように物事に熱心になるが、終わったと自覚した後にはしばらく燃え尽きるからな。今回は言われっぱなしになるのか?」
貴絵に煽られ、加奈子は前に出ようとしたが、踏みとどまった。ただ、加奈子の頭の中は晴れ、心が熱くなった。
「ケイのところに行ってくる。話すというより、自分の思っていることを全部言ってくる」
「おお。それなら、お守り代わりにこれをあげるよ。じゃあ。いってらっしゃい」
貴絵は加奈子にビーズの指輪を渡し、背中を押した。加奈子はビーズの指輪を握りしめたまま病室を出て、ケイの病室に向かった。ケイはベッドの上にいて、加奈子がケイの名前を呼ぶと、ケイは顔をしかめながら、加奈子を見た。
「昨日、言ったよね」
「言われたけど、アタシは何も言えなかったから、今度はアタシの番だよ。まず、アタシの退院が決まったよ」
「そう。おめでとう。もういい」
ケイは退院の話を聞くと、加奈子に背を向けた。加奈子は一度口を閉じたが、すぐに息を大きく吸い、口を開いた。
「ケイのことを最初に見た時は綺麗な黒髪の子だと思うよ。アタシは茶髪だったから、余計にケイの黒髪が綺麗に見えたの。あの時にはケイと話したいと思ったよ」
加奈子は顔が赤くなるのを感じながら、口を開き続けた。
「ケイの言う通りのところもあるよ。部活の大会に出られなかったことがあって、その隙間を埋めようとしていたのもあると思うよ。けど、それは大会の現実逃避じゃない。大会に参加できなかった代わりにケイと出会ったことで、その隙間を埋めて、大会に参加できなくても、ケイに会えたという嬉しいことがあったと思いたかったの。どんなことでも、嬉しいことや楽しいことがあったら、入院期間も無駄ではなく、嬉しかった時間になると思っているよ」
加奈子は真っ赤な顔のままケイの病室に入り、棚にビーズの指輪を置いた。
「ケイに会えたことはアタシの嬉しいことだよ」
加奈子はケイの病室を出た。松葉杖が激しい音を鳴らし、加奈子は転びそうになるが、貴絵に抱えられ、防ぐことができた。
*
退院の日、加奈子は花束を持ち、病院を出た。すると、黒い服を着た男が双六を渡してきた。双六には恵、という紙が貼られていた。加奈子が病院を見上げると、窓から左右に揺れる手と紐に通されたビーズの指輪が見えた。加奈子は手を振った。それから加奈子は検査で病院を訪れた時、ケイはいなかった。加奈子はケイから何も預かっていないか聞くが、看護師達は首を横に振るだけだった。そんな看護師を見る度に加奈子の顔色は真っ青になったかと思うと、今度は真っ白になった。加奈子は下を向きながら帰っていき、医者は加奈子の背中を見つめていた。
次の週、ニュースは黒い服の男達がパトカーに乗せられていくところが映っていた。遠くには何の感情も灯さない目の加奈子が立っていて、貴絵が加奈子の背中を擦っていた。加奈子の手の中にビーズの指輪が見えたと感じ、医者は病院を出て、煙草を吸った。
