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えんじ色の記憶


ある対象をイメージしたときに思い浮かぶ色のことを「記憶色きおくしょく」というそうだ。

祖母が亡くなった10年前のあの日から祖母の記憶色はえんじ色になった。

祖母というのは母方の祖母。
絵がものすごく上手かった。祖父が営んでいた繊維関係の会社では商品のアイデアやデザイン、製作も手がけたそうだ。母いわく、若い頃の祖母は芸術肌で外見も少し個性的だったらしい。家事よりクリエイティブなことに夢中でご飯はあまり作ってもらった記憶がないという。オードリー・ヘップバーンの影響でいち早くショートカットにし、サブリナパンツを履いて小学校の参観日に現れたことがあり、とても恥ずかしかったそうだ。
私の知る祖母はいつも同じ髪型に質素な服装。個性的だったという母の話とは真逆だ。

子どものとき、長期休みのたびに祖母宅に泊まりに行った。祖母は長男家族と暮らしていて、私と歳が近い2人の従姉妹がいた。私は祖母宅のことを2つ歳上の従姉の名前から「まあちゃんち」と呼んでいた。私と弟だけで両親と離れて過ごす「まあちゃんち」での長期休みは合宿のような楽しい時間だった。



祖母や伯父、伯母に私たち姉弟は本当によくかわいがってもらった。従姉妹たちは聡明で優しかった。従姉妹たちと同じように毎年クリスマスプレゼントやお年玉をもらい、お揃いの服まで買ってもらったりもした。「本当の姉妹だったらいいのにな」と本気で思っていた時期もある。長期休みの終わりになるといつも両親が車で迎えに来て、後ろ髪引かれながら帰る車中で親が引くぐらい泣いていた。



でも、ある時期から従姉妹たちとの関係が変わりはじめた。中学受験を見据えて従姉妹たちの習い事が増えた頃からだったと思う。
ガールスカウト、そろばん、公文、エレクトーン、塾‥。 泊まりに行っても従姉妹らはほとんど不在で姉弟だけで遊ぶことが増えた。私たちは相変わらず宿題そっちのけで自転車で走り回り、ある日は気付くと2駅先まで漕いでいた。そんな私たちを見かねた祖母がトンボ取りや京都タワーなど色々なところに連れて行ってくれた。雨の日は祖母に教わりながら絵を描いた。



受験に合格した従姉妹たちは私立の学校に通い始めた。私の住む町では見たこともない洗練された制服に身を包み、可愛いリボンで髪を結い電車通学する従姉妹たち。
ダメ元で母に言った。
「私もあの学校に行きたいな。」
早押しクイズの解答の間で
「何言ってんの!」
と一蹴された。
ちょうどこの頃、何度目かの父の借金が発覚して我が家は一触即発の状況だった。私立の学校なんて夢のまた夢だとわかってはいた。だけど地雷を踏まずにはいられなかった。私の中の理想郷となっていた「まあちゃんち」が羨ましくもあり妬ましい。大好きなのに憎らしい。曇った感情は、その辺に転がる微細な負を取り込んで膨張していくばかりだ。



ある時祖母が言った。
「泣きたい時は泣いたらいいんやえ。」
聞こえないフリをして、従姉妹のエレクトーンを弾いていた。こんな感情のとき、私は正直な気持ちを打ち明けられず泣けなかった。表向きにはまるで何も感じていないように振る舞うことで私なりの恒常性を保っていた。



忘れられない冬休みがある。
ある日、父と母が口論になり掴み合いにまでなった。私は母を庇ったが喧嘩は収まらず、その勢いのまま母が家を飛び出した。
そこからしばらく母は帰ってこなかった。
私たちは「まあちゃんち」にいつもとは違う状況で預けられた。襖1枚隔てた向こうで大人たちが夜通し話し合いをしていた。
翌日の夜、布団を敷いているとき不意に祖母が言った。
「私が死ぬとき、まなちゃんとこに出るからなぁ。」
「えっ?ほんまに?」
とっさに答えた。
「アンタのとこに出るえ。」
深く頷きながら布団をパサパサ広げながら言った。


この冬休みの終わり、両親は迎えに来ず祖母が電車とバスを乗り継いで私たちを家まで送ってくれた。
自宅近くの停留所が近づいた急な登り坂。バスの後部座席から祖母が
「お母さんに抱きついてもいいんやえ。」
そんなことを言った気がする。うなるバスのエンジン音と振動にかき消されてしまうぐらい小さな声だった。
家に着くとキッチンからイカ焼きのいい匂いがした。何事もなかったように母がご飯を作っていた。

このこと以降も我が家がすっかり平和になったわけではなかった。そしてこの冬休みの出来事はこれまでの楽しい「まあちゃんち」の思い出さえ呑み込んでしまった。これ以上、暮らしの違いを感じることに耐えられなかった。思春期に差し掛かる強情なプライドも相まって、大好きだった「まあちゃんち」からはパタリと足が遠のいた。



進学、卒業、就職、結婚。ライフイベントには祖母に電話で報告した。
その度に祖母は
「そうかー、ようきばったなあ。ほんまにようがんばらはったわ。」
と喜んでくれた。


父が定年退職の年を迎えた。母は退職金の一部で最後になるであろう親孝行がしたいと言い、自費出版で祖母の画集を作った。祖母が40代から70代まで趣味で描いていた植物の鉛筆画。母はその画集に『わたの花』と題した。
完成した画集を祖母はしげしげと目を細め何度も何度もページをめくって眺めていたそうだ。この後のできごとを振り返ると、母は本当に最後に最高の親孝行をした。


『わたの花』表紙


【わたの花】
夏にムクゲに似た花を咲かせ、秋になると果実がはじけて中から白い綿毛が現れる。これが綿のように見えることから名付けられた。
綿毛を取り出し糸にして布地に織ったものが木綿(コットン)になる。


なぜか鉛筆画しか描かなかった祖母。タッチの儚さや濃淡の繊細さ、わたの花の素朴さ。この画集は祖母そのものだ。

「わたの花」昭和56年9月




画集を受け取ったころ、私は上京して出産、子育てに忙しい日々を過ごしていた。


ある年の敬老の日、思い立って祖母にフラワーアレンジを送ったことがある。私はまた祖母の「ようきばったなあ‥」が聞けることを期待していたが、掛かってきた電話の声は伯母だった。
「立派なお花ありがとうね。でもなぁおばあちゃん、まなちゃんからのお花ってこと、たぶんわかりはらへんねん。かんにんな。だからもう、うちには送ってくれんでええからね。」
言葉を選びながら話す伯母に申し訳なさだけが募った。


思いきって祖母宅を訪ねたのはいつぶりだったのだろう。初めて対面したひ孫の息子を祖母は目を細め遠くから見つめていた。ふんわりとぼんやりと違う世界を生きているような祖母がそこにはいた。


日が経つにつれ、祖母の認知症は徐々に進行していった。
ある日は絶対に出られるはずがない窓から家を抜け出しかなりの距離を歩いていたらしい。
母が祖母を預かったときも、工具もないのにドアノブを丸ごと取り外して外に出ようとしていたらしい。
認知症の人が「家」と記憶する場所に帰ろうとする「帰宅願望」の話しをよく聞く。不安や記憶障害から起こるのだという。祖母も子ども時代を過ごした生家を目指したのだろうか。

この時期、こんな大変なことが何度もあったことを私はすべて事後報告で知った。



「まなちゃん?おばあちゃんが亡くなった。明日、京都に来れる?」
母からの珍しく冷静沈着な電話だった。

その夜、祖母の夢を見た。


背丈よりも遥かに高い焦げ茶色の木の塀に囲まれた家の前に私はいる。
庭先にいるのは若かりし祖母だ。黒髪に薄化粧。地模様のワンピースにえんじ色のパンプスを履いている‥。



葬儀のあとの席で母にこの夢の話をした。

母は豆鉄砲でも食らったかのような顔で
「アンタ、ほんまに気持ち悪いなぁ。」
と言った。
「それ、おばあちゃんの実家やわ。その靴見たことある。下駄箱に大事にしまってあったから。」
母はそれ以上は語らず、私もそれ以上は聞かなかった。



母と別れて飛び乗った夜の新幹線。
車窓からの夜景は長い長いトンネルにでも入ったみたいに目に映らず、後悔ともまた違う感情が黒い壁面を這う。

世間に流されなかった祖母。
凛とした祖母。
穏やかだった祖母。

絵心がまったく遺伝しなかった孫の私。
おばあちゃん孝行じゃなかった孫の私。
傍観者でしかなかった私。

私は祖母の一時期に触れ都合よく甘え、そっと肩を抱いてくれる温かさにずっと背を向けてきた気がする。
敢えて詰め寄らない姿勢。深入りせず見守る眼差し。それは祖母らしい在り方でほのかな愛だった。
居なくなってから思う。かけがえのない時間は瞬きのように短かったのだと。いまだ何ひとつ恩に報いることができずにいるのに。

車窓を叩きつけるように雨が降り出した。波打つ夜景を横目にこんなときでもやっぱり泣けなかった。



あの日から10年。
私は今も答え探しの途次とじにいる。
曇った感情が湧き上がるたび、感情を呑み込んでしまうたび、えんじ色は胸の奥で明滅する。
祖母らしからぬ記憶色は日ごとに鮮明さを増し、私の少し先を照らす道しるべとなってくれているのだろうか。







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