2個上の先輩となぜかお忍びデートすることに
放課後の教室は、やけに静かだった。
窓の外では部活の声が遠くに響いていて、夕焼けがじんわりと校舎を染めている。そんな中で、〇〇は一人、机に頬杖をついてぼんやりとしていた。
特に理由はない。ただ、なんとなく帰る気分じゃなかっただけだ。
「まだ残ってるんだ」
不意に聞こえた声に、〇〇はゆっくりと顔を上げる。
教室の入口に立っていたのは、二つ上の先輩——一ノ瀬美空だった。
長い黒髪に、柔らかい笑み。誰からも好かれるタイプで、しかも成績も良くて、運動もできて、いわゆる“完璧な人”。そんな彼女が、なぜかこの教室に立っている。
「……一ノ瀬先輩?」
「うん。ちょっと用事でね」
軽く手を振りながら、美空は自然な足取りで教室に入ってくる。
その距離が近づくだけで、なぜか心臓が少し速くなる。
「〇〇くん、だよね」
「え、あ、はい」
「やっぱり。なんとなく顔、覚えてた」
“なんとなく”で覚えられるような関係じゃないはずなのに、彼女は当然みたいに言う。
「部活、行かないの?」
「今日はオフなんで」
「そっか」
美空は〇〇の前の席に腰掛けると、机に肘をついてこちらを覗き込んできた。
「ねえ、ちょっと頼みたいことあるんだけど」
「……頼み、ですか?」
「うん。しかも、ちょっと変なやつ」
いたずらっぽく笑うその表情に、〇〇は思わず言葉を失う。
「今週の日曜日、空いてる?」
「……空いてますけど」
「じゃあ決まり」
「いや、まだ何も聞いてないんですけど!?」
思わずツッコむと、美空はくすっと笑った。
「一緒に出かけてほしいの」
「……え?」
「デート、みたいな感じで」
一瞬、時間が止まった気がした。
〇〇は完全に思考が追いつかず、ただ口を開けたまま固まる。
「もちろん、ちゃんと理由はあるよ」
美空は少しだけ真面目な顔になって続けた。
「知り合いにね、変な人がいて。私のこと、ずっと追いかけてくるの」
「ストーカー……ですか?」
「そこまでじゃないけど、ちょっとしつこくて。だから、誰かと一緒にいるところを見せたいの」
「それで……俺?」
「うん」
即答だった。
「同級生だと噂になるし、同い年の男子はちょっと……ね」
「じゃあ、他の先輩とか」
「だと逆に面倒になる」
そう言って、美空は〇〇をまっすぐ見つめる。
「〇〇くん、ちょうどいいの」
「ちょうどいいって……」
「変な意味じゃないよ?」
笑いながらそう付け加えられて、余計に複雑な気持ちになる。
「……で、どう?お願いできる?」
断る理由なんて、どこにもなかった。
いや、むしろ——断れるわけがない。
「……わかりました」
「ほんと?」
「はい」
「ありがとう」
その一言だけで、なぜか胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、日曜日の10時に駅前で。あ、私服で来てね」
「私服……」
「制服だとバレちゃうから」
確かにその通りだ。
「あと——」
美空は少しだけ顔を近づけて、小声で言った。
「ちゃんと、“彼氏っぽく”してね?」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
◇
日曜日。
約束の時間よりも30分も早く、〇〇は駅前に到着していた。
落ち着かない。
何度もスマホを確認して、時間を見て、またポケットにしまう。
「……緊張しすぎだろ」
自分で自分に呆れる。
ただの“お願いされた付き添い”なのに、どうしてこんなに意識してしまうのか。
「お待たせ」
その声で、すべてが止まる。
振り返ると、そこには——
「……え」
一瞬、誰かわからなかった。
白いワンピースに、淡いカーディガン。普段の制服姿とはまるで違う、柔らかい雰囲気。
それでも、間違いなく一ノ瀬美空だった。
「どうしたの?」
「いや、その……」
言葉が出てこない。
「変?」
「いえ、めちゃくちゃ……似合ってます」
思ったことがそのまま口に出てしまった。
「ほんと?」
美空は少しだけ照れたように笑う。
「ありがとう」
それだけで、また心臓がうるさくなる。
「じゃあ、行こっか」
「はい」
並んで歩き出す。
ただそれだけなのに、妙に距離が近く感じる。
「ちゃんと自然にね」
「自然に……」
「そう。今から私たちは、普通のカップル」
そう言って、美空はさりげなく〇〇の腕に手を絡めてきた。
「……っ!?」
「こういうのも必要でしょ?」
悪びれもせず、当然のように言う。
「いや、でも……」
「嫌だった?」
少しだけ不安そうな表情。
「い、嫌じゃないです!」
「じゃあ問題なし」
あっさりと笑う。
その距離の近さと、柔らかい体温に、〇〇の思考はほとんど停止していた。
◇
ショッピングモール、カフェ、映画。
いわゆる“デート”らしいことを一通りこなしていく。
最初はぎこちなかった会話も、時間が経つにつれて少しずつ自然になっていった。
「〇〇くんってさ」
「はい」
「思ったよりちゃんとしてるね」
「それどういう意味ですか」
「もっと無口な人かと思ってた」
「それは……ちょっと当たってます」
苦笑すると、美空は楽しそうに笑う。
「でも、話してみると優しいし」
「……」
「こういうの、向いてるかもね」
「こういうの?」
「彼氏役」
さらっと言われて、また言葉に詰まる。
「……それ、褒めてます?」
「褒めてるよ」
美空はそう言って、ふと立ち止まる。
「ねえ」
「はい?」
「今日、楽しい?」
「……楽しいです」
迷いなく答えた。
「そっか」
美空は少しだけ安心したように微笑む。
「私も、楽しい」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
——これは、ただの“お忍びデート”のはずなのに。
◇
夕方。
帰り道の途中、ふと美空が足を止めた。
「……もう大丈夫そう」
「え?」
「例の人、見かけなかったし」
そう言って、ゆっくりと〇〇の腕から手を離す。
その瞬間、妙な寂しさが胸に広がる。
「あの、じゃあ今日は——」
「うん。ありがとうね」
軽く頭を下げる美空。
「本当に助かった」
「いえ……」
そこで会話が途切れる。
本当は、まだ一緒にいたい。
でも、それを言う理由はどこにもない。
「……〇〇くん」
「はい」
「もしよかったら」
少しだけ言い淀んでから、美空は続けた。
「また、こういうの付き合ってくれる?」
「え?」
「今度は理由なしで」
その一言で、すべてが変わる。
「……それって」
「デート、しよ?」
まっすぐな視線。
冗談でも、演技でもない。
「……はい」
自然と、笑っていた。
「ぜひ」
「よかった」
美空は嬉しそうに微笑む。
「じゃあ次は、ちゃんと“お忍び”じゃないデートね」
「それ、どういう意味ですか」
「そのままの意味」
くすっと笑って、彼女は一歩前に出る。
そして振り返って言った。
「〇〇くん」
「はい」
「今日の彼氏役、満点だったよ」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
でも、今度は違う。
“役”じゃなくて、本当の関係として。
その未来を、少しだけ期待してもいい気がした。
夕焼けの中、二人の距離はもう——最初よりも、ずっと近くなっていた。
