僕の全部を君に注ぎたい
人に何かを「全部」あげたいと思ったことなんて、これまで一度もなかった。
少なくとも、僕――〇〇にとっては。
何かを誰かに渡すとき、どこかで必ず“見返り”を考えていた。優しくしたら、優しく返してほしい。頑張ったら、認めてほしい。そういう、当たり前だけど少しだけ打算的な感情が、いつもどこかにあった。
でも――
「〇〇くん、おはよう」
その一言で、全部どうでもよくなる人がいる。
愛宕心響。
同じクラスの、どこにでもいそうで、でもどこにもいない女の子。
特別美人ってわけでも、目立つタイプでもない。だけど、彼女の笑顔はやけに記憶に残るし、声は柔らかくて、話していると不思議と安心する。
気づいたときには、もう遅かった。
僕は、彼女に全部をあげたくなっていた。
「おはよう、心響」
自然に名前で呼べるようになったのも、いつからだろう。
最初はただのクラスメイトだった。席が近くて、プリントを回したり、消しゴムを貸したりする程度の関係。それが、放課後に少し話すようになって、帰り道が重なるようになって、気づけば一緒に帰るのが当たり前になっていた。
「今日、部活ないんだよね?」
「うん。〇〇くんは?」
「俺もない」
「じゃあ、一緒に帰ろ?」
そんなやり取りも、もう何度目だろう。
特別な約束なんてしない。ただ、なんとなく一緒にいる。それだけなのに、心が満たされていくのが分かる。
――これが恋なんだろうな、って。
分かってはいた。
でも、言葉にするのが怖かった。
この関係が壊れるくらいなら、ずっとこのままでいいと思ってしまうくらいには、僕は臆病だった。
帰り道、いつもの公園の前を通る。
夕方の光が、少しずつオレンジ色に変わっていく時間。
「ねえ〇〇くん」
「ん?」
「〇〇くんってさ、将来の夢とかあるの?」
不意に聞かれて、少し考える。
「…特にないかな」
「えー、ほんと?」
「うん。なんとなく生きて、なんとなく働いて…って感じ」
「ふーん」
心響は少しだけ考えるような顔をして、それから小さく笑った。
「〇〇くんらしいね」
「それ、褒めてる?」
「うん、褒めてる」
そう言って笑う彼女を見て、胸が締め付けられる。
――ああ、やっぱり好きだ。
この瞬間、確信する。
でも、同時に思う。
こんな曖昧な自分が、彼女の隣にいていいのかって。
「心響は?」
「私?」
「夢とか」
彼女は少しだけ空を見上げてから、ゆっくり答えた。
「誰かの支えになれる人になりたい」
「…それ、もうなってると思うけど」
「え?」
「心響と話してると、なんか安心するし。俺、結構助けられてるよ」
本音だった。
取り繕いなんて一切ない、純粋な気持ち。
でもそれを聞いた彼女は、少しだけ驚いた顔をしてから――
「…そっか」
そう言って、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
その表情の意味が、そのときの僕には分からなかった。
*
それから数日後。
教室に入ると、いつもなら聞こえてくるはずの声がしなかった。
「…あれ」
心響の席を見る。
空いている。
「愛宕さん、今日は休みだよ」
隣の席のやつが教えてくれる。
「体調悪いんだって」
「そっか…」
なんとなく落ち着かない。
たった一日いないだけなのに、教室がやけに静かに感じる。
放課後。
帰り道も、もちろん一人。
いつも隣にいるはずの存在がいないだけで、こんなにも違うものなのかと、思い知らされる。
――会いたい。
ただそれだけの感情が、やけに大きくなっていく。
スマホを取り出して、連絡先を開く。
心響の名前。
少し迷ってから、メッセージを打つ。
『大丈夫?』
送信ボタンを押したあと、少しだけ後悔する。
重いかな、とか。迷惑かな、とか。
でも数分後、返信が来た。
『うん、大丈夫。ちょっと熱あるだけ』
その一言で、少しだけ安心する。
でも同時に、強く思った。
――会いに行きたい。
気づけば、足はもう動いていた。
彼女の家の前。
インターホンを押す指が少し震える。
「…はい」
「〇〇です」
少しの沈黙のあと、ドアが開く。
そこにいたのは、少し顔色の悪い心響だった。
「…なんで来たの?」
「会いたかったから」
自分でも驚くくらい、迷いのない言葉だった。
彼女は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「バカだね、ほんと」
「うん、知ってる」
部屋に入れてもらって、ベッドの横に座る。
「無理しなくていいのに」
「無理してない」
「してるよ」
「してない」
そんなくだらないやり取りが、やけに心地いい。
「…ねえ〇〇くん」
「ん?」
「私さ、ちょっと怖かったんだ」
「何が?」
「〇〇くんといると、すごく楽しくて。でも、それが当たり前になっていくのが怖かった」
「…どうして」
「だって、当たり前って、いつかなくなるでしょ?」
静かな声だった。
でも、その一言はやけに重くて。
「なくならないよ」
気づけば、そう言っていた。
「俺がなくさない」
「…そんなの、分かんないよ」
「分かる」
彼女の手を、そっと握る。
「俺が決めたから」
心臓の音がうるさい。
でも、もう止まらなかった。
「心響」
「…なに」
「俺さ、心響に全部あげたい」
「…全部?」
「時間も、気持ちも、これから先も全部」
自分でも、何を言っているのか分からない。
でも、それでもいいと思った。
「何もいらない。見返りもいらない。ただ、心響の隣にいたい」
それが、今の僕の全部だった。
沈黙が落ちる。
数秒か、数十秒か。
やけに長く感じる時間。
そして――
「…ずるいよ」
彼女が、ぽつりと呟く。
「そんなこと言われたら、逃げられないじゃん」
「逃げなくていいよ」
「…ほんとに?」
「うん」
彼女の手が、少しだけ強く握り返される。
「じゃあさ」
「うん」
「私も、全部あげる」
その言葉に、息が止まる。
「〇〇くんがいい。〇〇くんじゃなきゃやだ」
まっすぐな瞳。
もう、何も迷いはなかった。
「好きだよ、〇〇くん」
「…俺も、好き」
その瞬間、世界が少しだけ変わった気がした。
何も変わっていないはずなのに。
でも確実に、何かが始まった。
*
それからの毎日は、少しだけ特別になった。
相変わらず一緒に帰って、くだらない話をして、笑って。
でも、その一つ一つが、前よりもずっと大事に感じる。
「〇〇くん」
「ん?」
「これからさ」
「うん」
「いっぱい喧嘩もすると思うし、嫌なとこも見えると思う」
「うん」
「それでも、一緒にいてくれる?」
少しだけ不安そうな声。
だから僕は、迷わず答える。
「当たり前だろ」
「…そっか」
「むしろ、それも全部欲しい」
「え?」
「いいとこも、悪いとこも、全部含めて心響だから」
彼女は一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「やっぱり〇〇くん、バカだね」
「知ってる」
「でも――」
彼女が、そっと腕にしがみつく。
「そういうとこ、好き」
夕焼けの帰り道。
オレンジ色の光の中で、僕は思う。
あの日までの僕は、きっと中途半端だった。
何かを守る勇気も、何かを捨てる覚悟もなかった。
でも今は違う。
全部あげたいと思える人がいる。
それだけで、僕は変われる。
だから――
この先、何があっても。
どんな未来でも。
僕はきっと、迷わない。
僕の全部を、君に注ぐ。
それが、僕の選んだ答えだから。
