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しんどい時こそ君に会いたい

 人生には、どうしても上手くいかない日がある。

 朝から寝坊して、急いで家を出たら財布を忘れて取りに戻り、乗るはずだった電車は目の前で扉が閉まった。大学に着けば提出期限のレポートを一日勘違いしていて、教授には淡々と「評価対象外です」と告げられた。

 そのうえ、アルバイト先からはシフト変更の連絡。人手不足だから今日も入ってほしいと言われ、断れる空気でもない。

「……終わってる」

 昼休み、学食の端の席でうどんをすすりながら、〇〇は天井を見上げた。

 まだ午後も始まっていないのに、今日という一日に心が削られすぎている。

 スマホを見ると、通知欄に一件だけメッセージが来ていた。

『おつかれー! 今日の空、めっちゃ青いで!』

 送り主は、武元唯衣。

 高校時代からの友達で、今は別の大学に通っている。けれど、家が近いこともあって今でもよく会う存在だった。

 彼女のメッセージはいつも突然で、内容に深い意味はない。今日の空が青いとか、コンビニの新作スイーツが美味しいとか、駅前の鳩が妙に堂々としていたとか。

 でも、不思議とそれを見ると少しだけ肩の力が抜ける。

『こっちは曇ってる』

 適当に返すと、数秒で既読がついた。

『うそやん。空まで〇〇に厳しい日なん?』

 思わず、少し笑った。

 そういうところだ。

 大げさでもなく、重くもなく、でも確かに気持ちを軽くしてくれる。

『今日は色々終わってる』

『ほな会う?』

 文字を見て、〇〇の指が止まる。

『なんでその流れで会うになるん』

『しんどい時って、人に会った方がええ時あるやん』

 その言葉が、妙に胸に残った。

 けれど今日は授業もあるし、夜はバイトだ。

『今日は無理。バイトもある』

『そっかー。ほな、頑張りすぎんように頑張ってな』

 それだけ送られてきて、会話は終わった。

 たったそれだけなのに、〇〇はスマホを伏せながら思う。

 本当にしんどい時こそ、会いたいと思う相手がいるのかもしれない、と。

          ◇

 その日のバイトは地獄だった。

 レジは混む。品出しは追いつかない。新人スタッフはテンパって泣きそうになっている。店長はバックヤードで電話対応に追われ、実質現場は崩壊寸前だった。

 気づけば休憩も取れず、終わった頃には足が棒のようになっていた。

 夜十時過ぎ。

 へとへとで店を出た〇〇は、ため息をつきながら駅へ向かう。

 すると、改札前のベンチに見覚えのある姿があった。

 黒のパーカーにデニム。髪をひとつに結んで、足をぶらぶらさせながらスマホをいじっている女の子。

 武元唯衣だった。

「……何してんの?」

 声をかけると、彼女はぱっと顔を上げる。

「あ、おつかれー!」

「いや、おつかれーじゃなくて」

「迎えにきた」

「なんで?」

「会いたそうやったから」

 あまりにも自然に言うものだから、〇〇は言葉を失った。

「いや、俺そんなこと一言も」

「顔に書いてた」

「会ってないのに?」

「文面に書いてた」

 にやっと笑う唯衣に、〇〇は思わず頭を抱える。

「……意味わからん」

「でも来てよかったやろ?」

 そう言われて、否定できなかった。

 しんどかった身体の奥に、じんわり熱が灯る。

「……寒いし、とりあえず帰るぞ」

「えー、ちょっと散歩しよや」

「今から?」

「今やからやん」

 結局、駅前の川沿いを二人で歩くことになった。

 夜風は冷たかったが、不思議と嫌じゃなかった。

          ◇

「今日、何があったん?」

 唯衣がペットボトルのミルクティーを片手に聞いてくる。

「別に」

「別にって言う人ほど別にじゃないねん」

「……朝から全部うまくいかなかった」

「ほう」

「寝坊して、レポート出し損ねて、バイト地獄で」

「フルコースやな」

「笑い事じゃない」

「でも生きてるやん」

 〇〇は横を見る。

 唯衣は真面目な顔で前を向いていた。

「しんどい日って、その日だけ見ると最悪やけどさ。長い目で見たら、意外となんでもなかったりするやん」

「……達観してんな」

「してへんよ。うちも普通に落ち込むし」

「そうなの?」

「そらそうやろ。今日もゼミで発表ミスって恥ずかしかったし」

「そんな感じしないけど」

「〇〇の前では元気でいたいからなー」

 さらっと言われて、心臓が変な跳ね方をした。

「……そういうこと軽く言うなよ」

「重く言った方がええ?」

「そういう意味じゃない」

 唯衣はくすくす笑う。

 昔からこうだった。

 距離感が近いくせに、肝心なところは掴ませない。

 ふざけているようで、時々本音みたいな言葉を混ぜてくる。

「〇〇ってさ」

「ん?」

「一人で抱え込みすぎやねん」

「別に抱え込んでない」

「抱え込む人、みんなそう言う」

「……偏見だろ」

「経験則や」

 彼女は立ち止まり、川面を見つめた。

「頼ってええねんで」

 静かな声だった。

「しんどい時、誰かに会いたいって思えるのは弱さちゃうよ。ちゃんと人を信じてる証拠や」

 夜の街灯が、水面に揺れる。

 〇〇は何も言えなかった。

 自分は昔から、人に迷惑をかけるのが苦手だった。辛くても、大丈夫なふりをしてきた。

 でも今日、たしかに思ってしまったのだ。

 唯衣に会えたら少し楽になるかもしれない、と。

「……ありがとな」

 やっと出た言葉に、唯衣は首を傾げる。

「何が?」

「来てくれて」

「どういたしまして」

 その笑顔が、やけにまぶしかった。

          ◇

 それから二人は近くの公園のベンチに座った。

 自販機のコーンスープを分け合いながら、どうでもいい話をした。

 高校の頃の先生の噂話。

 最近ハマっている動画。

 駅前にできた新しいカフェ。

 中身のない会話なのに、心はどんどん軽くなっていく。

「なあ唯衣」

「んー?」

「なんでそんなに、俺のこと気にかけてくれるん?」

 聞くと、彼女は缶を両手で包みながら少し黙った。

「今さら?」

「今さら」

「……高校の時、覚えてる?」

「何を」

「うち、部活辞めたくて毎日しんどかった時期あったやん」

 記憶が蘇る。

 二年の夏。唯衣は周囲との人間関係で悩み、明るさを失っていた。

「その時、〇〇だけ普通に接してくれた」

「普通にって」

「変に励ましたりせんと、いつも通りアホみたいな話してくれて」

「アホみたいは余計だな」

「でも救われてん」

 唯衣は笑ったあと、少しだけ視線を伏せた。

「しんどい時こそ、会いたいって思ったんよ。あの頃から」

 胸が、強く鳴る。

「それって……」

「鈍いなあ、ほんま」

 彼女は立ち上がると、〇〇の前に回り込んだ。

「好きやで、〇〇」

 夜の公園。

 遠くで電車の走る音がした。

「友達としてじゃなく?」

「そんな回りくどい告白するかいな」

「……マジか」

「マジや」

 言葉が追いつかない。

 ずっと近くにいた存在だった。

 当たり前すぎて、気づいていなかった。

 自分が彼女に救われていたように、彼女もまた自分を特別に見てくれていたことに。

「返事、今じゃなくてもええで?」

 珍しく不安そうに笑う唯衣。

 その表情を見た瞬間、〇〇の中で答えは決まっていた。

「いや、今言う」

「……うん」

「俺も、好きだ」

 一拍置いて、唯衣の目が丸くなる。

「え、ほんまに?」

「そこで疑うなよ」

「だって〇〇、こういうの言わへんタイプやし」

「言わせたのはそっちだろ」

 次の瞬間、彼女は勢いよく抱きついてきた。

「うわっ」

「やったぁ……!」

「お、おい、ここ公園」

「知らん!」

 顔が熱い。

 けれど腕の中の体温が、どうしようもなく愛しかった。

          ◇

 付き合い始めてからも、唯衣はあまり変わらなかった。

 朝から意味不明な写真を送ってきたり、突然電話してきて「今コンビニでアイス迷ってる」と相談してきたりする。

 ただ一つ変わったのは、しんどい日に一番会いたい相手が、互いに明確になったことだった。

 数週間後。

 またレポートに追われ、課題に追われ、疲れ切った夜。

 〇〇のスマホに通知が来る。

『今ひま?』

『課題で死んでる』

『ほな会お』

『なんでそうなる』

『しんどい時こそ君に会いたいから』

 画面を見て、思わず笑う。

『五分で行く』

 送信すると、すぐ既読がついた。

『やった。待ってる』

 家を飛び出す。

 夜風は冷たいのに、足取りは軽い。

 たぶんこれから先、上手くいかない日は何度でも来る。

 落ち込む日も、逃げ出したい日もあるだろう。

 それでも。

 そんな時こそ会いたいと思える誰かがいるなら、人生は案外悪くない。

 駅前の街灯の下。

 手を振る武元唯衣の姿を見つけて、〇〇は少しだけ駆け足になった。

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