この手を引いて何処へ行こうか
春の終わり、まだ少しだけ冷たい風が残る放課後。
教室の窓際で頬杖をつきながら、〇〇はぼんやりとグラウンドを眺めていた。
部活帰りの生徒たちが笑いながら校門へ向かっていく。特別な何かがあるわけでもない、いつも通りの風景。だけど今日は、なぜかそれが少し遠く感じた。
「ねえ、〇〇」
背後から声がした。
振り向かなくても分かる。柔らかくて、どこか透明感のある声。
「……瀬戸口」
「またボーッとしてる。最近多くない?」
〇〇が振り返ると、瀬戸口心月が少しだけ呆れたように笑っていた。
肩にかかる黒髪が、夕陽を受けてほんのりと茶色く見える。整った顔立ちなのに、どこか無防備で、隙だらけな表情。それが彼女の魅力だった。
「別に。普通だろ」
「普通の人は、あんなに遠い目しないよ」
「遠い目ってなんだよ」
「さあ。どこ見てたの?」
心月は〇〇の隣の席に座り、同じように窓の外を見る。
「未来、とか?」
「は?」
「冗談」
くすっと笑うその横顔に、〇〇は少しだけ視線を奪われる。
瀬戸口心月。
クラスではそこそこ人気がある。明るすぎず、暗すぎず、誰とでも自然に話せるタイプ。でも、深く踏み込ませない壁もちゃんとある。
〇〇にとっては——幼馴染だった。
「なあ」
「なに?」
「なんでお前、まだ残ってんの」
「それ、ひどくない?」
「いや、帰るだろ普通」
「〇〇がいるから」
「は?」
「一緒に帰ろうと思って」
当たり前のように言う。
昔からそうだ。彼女はこういうことを、特別な意味もなく言う。
でも——
今の〇〇にとって、それは少しだけ重い。
「……帰るか」
「うん」
二人は並んで教室を出た。
廊下はもう静かで、足音だけが響く。窓から差し込む夕陽が、長く影を伸ばしていた。
「ねえ〇〇」
「ん?」
「高校、卒業したらどうするの?」
「まだ決めてない」
「そっか」
心月は少しだけ間を置いた。
「私ね、東京行こうと思ってる」
「……東京?」
「うん。専門学校」
「急だな」
「前から考えてたよ。言ってなかっただけ」
知らなかった。
いや、知ろうとしてなかったのかもしれない。
〇〇は足を止めた。
「いつ?」
「来年の春」
「……そうか」
それは、当たり前の未来だった。
誰かがここからいなくなることも、違う場所へ行くことも。
でも——
それが“瀬戸口心月”だと、こんなにも現実味がない。
「寂しい?」
心月が、少しだけいたずらっぽく聞いてくる。
「別に」
「嘘つき」
「うるせえ」
校門を出ると、街は夕方の色に染まっていた。
いつも通っている道なのに、今日は少しだけ違って見える。
「ねえ、〇〇」
「ん」
「今からさ、寄り道しない?」
「寄り道?」
「うん。最後かもしれないし」
「最後って、まだ一年あるだろ」
「でも、こういう“何もない日”って、もうそんなにない気がする」
その言葉に、〇〇は少しだけ黙る。
「……いいけど」
「ほんと?」
「うん」
「やった」
心月は少しだけ嬉しそうに笑った。
向かったのは、いつもは通らない細い道だった。
住宅街を抜けて、小さな公園を越えて、さらに奥へ。
「どこ行くんだよ」
「内緒」
「怪しいな」
「大丈夫だって」
しばらく歩くと、視界が開けた。
「……ここ」
そこは、小さな丘だった。
見渡せば街が一望できる、隠れたような場所。
夕陽がちょうど沈みかけていて、空がオレンジから紫へと変わっていく。
「すげえ……」
「でしょ?」
心月は満足そうに頷いた。
「ここね、小さい頃に見つけたの」
「一人で?」
「うん。ちょっと迷子になって」
「危ないだろ」
「でも、その時〇〇が迎えに来てくれたじゃん」
〇〇は少しだけ目を見開く。
「……覚えてたのか」
「そりゃ覚えてるよ」
風が吹く。
心月の髪がふわっと揺れて、夕焼けに溶ける。
「ねえ〇〇」
「ん?」
「手、貸して」
「は?」
「いいから」
差し出された手。
白くて、細くて、少しだけ震えているようにも見えた。
「……なんだよ急に」
「いいから」
〇〇はため息をつきながら、その手を取った。
「……こうしてさ」
心月が一歩近づく。
「この手を引いて、どこかに行けたらいいのにね」
その言葉は、冗談みたいに軽くて。
でも、どこか本気の響きもあった。
「どこってどこだよ」
「どこでも」
「適当すぎだろ」
「じゃあ〇〇は?」
まっすぐに見つめられる。
「どこ行きたい?」
答えられなかった。
行きたい場所なんて、特にない。
でも——
「……お前がいるとこなら、どこでもいいんじゃね」
気づけば、そんなことを言っていた。
「……それ、ずるい」
心月は小さく笑った。
でもその目は、少しだけ潤んでいた。
「私、行っちゃうよ?」
「知ってる」
「簡単には帰ってこれないかも」
「……だろうな」
「それでも?」
〇〇は、握っている手に少しだけ力を込める。
「それでもだよ」
風が強くなる。
夕陽が沈んで、街に灯りがともり始める。
「ねえ〇〇」
「ん」
「もしさ、私が迷ったら」
「……うん」
「また迎えに来てくれる?」
その言葉は、昔と同じだった。
「当たり前だろ」
〇〇は少しだけ笑う。
「何回でも行く」
心月は、ほんの少しだけ安心したように目を細めた。
「そっか」
静かな時間が流れる。
手を繋いだまま、二人は何も言わずに景色を見ていた。
「……ねえ〇〇」
「ん?」
「今だけ、ちょっとだけでいいから」
心月が、さらに近づく。
「離さないで」
その声は、今まで聞いたことがないくらい小さかった。
「……ああ」
〇〇は、しっかりと手を握る。
この手を引いて、どこへ行こうか。
答えなんて、まだ出ていない。
でも——
少なくとも今は、この場所で、この時間で、この距離で。
二人でいられるなら、それでいい。
やがて夜が訪れる。
街の灯りが増えて、空には一番星が浮かび上がる。
「帰るか」
「うん」
それでも、手は繋いだままだった。
帰り道。
何気ない会話をしながら、いつもと同じ道を歩く。
でも、その感触だけは、少しだけ違っていた。
「〇〇」
「ん?」
「今日はありがと」
「何が」
「全部」
心月は、少しだけ照れたように笑った。
「また来ようね」
「……ああ」
その約束が、どこまで続くのかは分からない。
それでも——
この手を離さなければ、きっとまた辿り着ける。
どこか遠くでも。
どこか違う場所でも。
その時はきっと、迷わず言える。
この手を引いて、どこへ行こうか。
——その答えを。
そう信じながら、〇〇は静かに手を握り返した。
