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自分の1日を選択できることがHappy・幸せ、でもその選択本当に大丈夫ですか?


~はじめに~


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いつも、皆さん、ありがとうございます🥰

いろんな出会いを重ねていく中で、1つでも多くのご縁を大切にしたいものです🤝


私のこれまでの出会いを紐解くと、すごく共通点のある方々達がいます😄

初めから、ご縁は、そう強固なものになるわけでもなく、出会いと別れを繰り返していくうちに、歳を重ねていくごとに強固なものとなってきたように思います💝

こんな私に少しでも興味を持って下さる方がおりましたら、スキやフォローの方お待ちしております🤝

私は、ウェルカムです🧸


~日々の生活は選択の連続~

私たち人間は、日々何気なく生活して、1日を終え、また1日と着実に過去を積み重ねています。

動物たちや虫・植物たちにおいては、自分で何かを決めて生きているというよりかは、決められたことに従って生きているのかもしれない。

人間だけが、日々の生活の中で、選択の連続だろう。

その人個々が抱える、悩みやコンプレックスや苦しみ・悲しみ・辛さというような生い立ちに関係なく、選択するという選択権は押し寄せてくる。

朝ごはん食べますか? 食べませんか?

ご飯ですか?パンですか?その他ですか?という簡単なことからはじまり

難しい選択までもが、人間に日々問いかけられているというわけです。

今日1日過ごすかをプランニングしなければならない。

なんの能力がなくても、ライフプランナーという役割を自分自身が担っているということに最近気が付きました。


~過去の人生から見る自分の人生を選択できないという檻のなかで生きて来た証~

ココから先は、少し、過去の話を持ち出します。

毒親に育てられたという経験をしてきた私だが、その当時は、日々が怖くて脅威と隣り合わせで

しかも、例えるなら、地雷をふみたくなくても、地雷爆弾を踏んでしまうかもしれない。

無数にしかれた地雷を取り除いても、次から次から出てくるかのように・・・。

戦火のある国にでもいるような気持ちでした。

母がひとたびキレ始めたら、とめどない。

母がキレ始めたり、姉と父と取っ組み合いが始まるたびに、自分の耳の中では、空襲警報がなっているようでした。

防空壕にでも逃げるかのように・・・・。

その時は、自分の意志で動くなんてしたくてもできませんでした。

だから、その当時の自分は、「自分の意思がない子」だと思われていました。

というか、そう演じるしかなかったかもしれません。

それでも、介護士になるというのは、自分の意思を貫いたことかもしれないが、もっと違うことをやりたかったに違いないと今なら思います。

監獄にでもいたような過去の人生では到底考えることが出来ないことでした。

自分の中では、「ラプンツェル人生」だとも思っています。

「あんたは、宮城県内の短大に行け」

「県外出るんでない」

「友達のところに泊まりに行くでない」

「それをしたいなら、うちに呼べ」

この上記に書いたものたちは全て、「私の意志に反してます」。


~虐待という檻から抜け出して選択をするという嬉しさを感じたこととその選択の怖さを感じたこと~


結婚して10年目で、やっと、自分に我慢しないで「これがしたい」と自分の意志で決めることが出来てきました。

むしろ、他に妨害されることなく自分で自分自身の1日を好きなように決められるのは、嬉しくてたまらないことでした。

いまでも、そうです。

色んな選択をして、自分で決めて終える1日はどんなに幸せなことなのかと思います。

「あの時、自分で県外に出たい」とか自分意志で選択していたら、今の人生はもっと変わっていたのではないかと考えることもあります。

1つ自分で決めた選択をもとに行動を移した後は、良い結果になることも

悪い結果になることも様々です。

行動を起こしてみないと分からない。

選択をして行動を起こすまでのシュミレーションとリスクマネジメントをきちんとしていても、その選択に正解か不正解か分からない。

介護士を目指して勉強して、「リスクマネジメント」ということを学びました。

それは、介護や保育や看護に関わらず、あらゆる場面においても、「リスクマネジメント」は存在すると思いました。


~その選択は、本当に大丈夫ですか?選択するということの裏にはらんでいる選択することの責任という重み~

誰と会うということも選択、そして、また、断るのも1つの立派な選択です。

それなのに、自分で選択した結果・・・・

相手の身勝手によって、相手の勝手なかッとなって身勝手な衝動によって殺されて、人生が強制終了されてしまう人も中にはいます。

1つの選択が、こんなことになるなんて、あってはならないことです。

被害者側の感情だけでなく、加害者側の感情の立場に立って考えてみても

自分の身勝手な選択において、人様に迷惑をかけるということはあってはならないと思います。

大体は、「取り返しのつく人生」ですが、それこそ「取り返しのつかない人生」を招きかねません。

選択は、楽しいかもしれません。

でも、その裏には、選択するということは、責任を持たなければならないということです。

子どもを持ち、日々、子育てに追われるパパさん・ママさんにおいては

自分の選択と子どもの選択の2つを持ち合わせているということです。

その選択が、自分自身と子ども両者に多大な影響を良くも悪くももたらすということです。

だから、責任が付いて回るということです。

自分自身で選択できて、ハッピーというだけでなく、怖さも持ち合わせているということです。

性犯罪でよく聞き言葉「同意の上だと思った」「同意のうえでやった」と聞きます。

「あ~いえばこういう」という言葉の水かけろに終わることが多いですが

身勝手極まりない勝手な思い込みによる選択もまた、1つの落とし穴かもしれません。

「インフォームドコンセント」同意と説明という言葉がありますが、

選択をしていく上では、必ず、子供や相手に、きちんと説明して、

「こういう選択をしてもいいだろうか」と相手に子供に問いかけるということは非常に大事なのではないかと思います。

子どもだから、認知症のお年寄りだから、精神障がいのある人だから、視覚障がいで、「どうせ目が見えにくいから」とかではなく

子どもでも、「良いか」「嫌か」くらいは多少分かります。

障がいがある大人だろうと、健常者の大人だろうと、自分のこうしたいという意思は必ず少なからず持っているでしょう。

だから、きちんと聞く必要があります。

その選択に嫌な人が居たら、強要することなくやめるということも1つの決断であり選択でしょう。


選択したことを、嫌もなしに強要してくるのは、毒親をはじめとする虐待をする人が取る行動です。

こういうことは、あってはなりません。

人権侵害もいいとこだと思うからです。

子ども未来は、自分とこども両方の未来でもあります。

「未来はあなたのため」とか

「1度きりの人生なんだから、好きなことをしなさい」とか

このようなかっこいい飾り言葉は、もううんざりです。


~選択することはハッピーでも、その前にしなければならないこと~


毒親に育てられているとか、虐待を受けていて、DVを受けていて苦しんでいる辛い思いをしている人が、今現在においているのならば、

自分の気持ちを大事にしてほしいと思います。

まずは、自分の心を守るということです。

何かの選択をするというより前に、自分の心を守るという選択をすることから始めましょう。

それも選択をするということへの第1歩です。


~あとがき~


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