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短編小説「春まだ浅く」①

 鬼怒川温泉旅行記(①~⑥)


三月の風は、冬の名残をわずかに含みながらも、どこか柔らかさを帯びていた。
梅沢福夫、七十五歳。都内の住宅街で暮らす彼は、妻の富久子と並んで、その日の午後三時過ぎ、鬼怒川温泉駅のホームに降り立った。
「久しぶりの温泉旅行だなあ」
福夫は、肩にかけた小さなボストンバッグを持ち直しながら、ぽつりとつぶやいた。
「そうね。去年の伊豆もよかったけど……鬼怒川は、なんだか落ち着くわね」
富久子は、薄桃色のストールを首元に巻き、少しだけ頬を上気させている。
夫婦でここを訪れるのは三度目だった。一回目の鬼怒川旅行のときはまだ二人とも現役で、子どもたちが独立したばかりの頃だった。二度目は、たしか福夫が退職した直後だったと記憶する。
そして今回――年金生活にも慣れ、贅沢はできないが、ささやかな旅を楽しむ余裕が戻ってきた頃合いだ。

ホームに吹き込む風は冷たいが、空は明るい。
しかし、駅舎を出た瞬間、福夫は思わず足を止めた。
「……以前に比べ静かだな」
駅前広場は、以前の記憶よりも広く、きれいに整備されていた。
新しくできた足湯施設からは、白い湯気がふわりと立ちのぼっている。
だが、平日の昼過ぎとはいえ、人影はまばらだった。
土産物屋の軒先には、色あせたのぼりが風に揺れ、買い物客も疎らだ。
「昔はもっと賑やかだったのにねえ」と、富久子も少し寂しげに言った。
そのとき、駅前広場の一角から、低く響く汽笛の音が聞こえた。
SLのデモンストレーションが始まったのだ。
黒光りする車体が蒸気を吐き出し、白い煙が空へと立ちのぼる。
その姿は、まるで時代を逆行するかのように勇ましく、二人は思わず見入った。
「おお……こりゃあ、立派なもんだな」
蒸気の匂い、金属のきしむ音、観光客の小さな歓声。
そのすべてが、福夫の胸に懐かしい感覚を呼び起こした。
昔、子どもたちを連れて旅行した記憶が、ふとよみがえる。
しばらくSLを眺めたあと、二人は旅館へ向かうことにした。

川沿いの道は、ゆるやかな上り坂になっている。
鬼怒川の流れはまだ冷たく、川面には薄い光が揺れていた。
「十分くらい歩けば着くって、パンフレットに書いてあったわよ」
富久子が言う。
「おう。まあ、いい運動だ」
福夫は、足腰に多少の不安を抱えながらも、歩くこと自体は嫌いではなかった。
むしろ、こうして妻と並んで歩く時間が、今では何より貴重に思える。
やがて、巨大な建物が視界に入ってきた。
全国展開している、リーズナブルな料金で知られる大型旅館だ。
外観はどこか無機質だが、清潔感があり、家族連れや団体客に人気があるようだ。
「着いたわね」
富久子がほっと息をつく。
玄関前の駐車スペースには、観光バスが一台停まっていた。
ロビーに入ると、広々とした空間に、土産物コーナー、ゲームセンター、カラオケルーム、そして大浴場へ続く案内板が並んでいる。
まさに “完結型” の旅館である。
「ここなら、外に出なくても、ここで全部そろってるわね」と、富久子が笑う。
「まあ、便利っちゃ便利だが……昔みたいに、夜にスナック行って、締めにラーメン食って、ってのも悪くなかったけどな」
福夫は、遠い目をした。
旅館の外の商店街は、今やほとんどシャッターが下りている。
時代の流れといってしまえばそれまでだが、どこか胸に引っかかるものがあった。
チェックインを済ませ、三階の部屋に案内される。
窓からは鬼怒川の流れが見え、山肌にはまだ冬の影が残っている。
静かで、落ち着いた部屋だ。
「いい部屋じゃない」
富久子が嬉しそうに言う。
「そうだな。まあ、のんびりするか」
福夫は、荷物を置き、窓の外を眺めた。
川の音が、かすかに耳に届く。
二人はこのまま何事もなく、穏やかな一夜を過ごすはずだった。
――しかし、その夜。
この旅館で、思いもよらぬ “事件” が起きることを、二人はまだ知らない。