【お好み焼きの会】第1章「誰にも染まらない男」(その握手は嘘だったスピンオフ阿部岡編)
【阿部岡スピンオフ】第1章「誰にも染まらない男」
船戸金属の門をくぐったのは、まだ春の風が少し冷たい朝だった。
阿部岡は37歳。年齢はそれなりだが、この業界では新人だった。
黙々と、淡々と。
言葉少なに工具を並べる彼を、芦屋が初日に声をかけてくれた。
「おう、新入り。阿部岡くんやな?ま、わからんことあったら聞きや」
「はい。よろしくお願いします」
その日から、阿部岡は芦屋と同じ班で動くことになった。
仕事をしている最中、芦屋の言動には“慣れ”と“人脈”に頼った部分が垣間見えた。
書類のサインを後回しにする。
使い古した金型のチェックを適当に流す。
「まぁまぁ。これでええんや」と言って苦笑する芦屋の笑みは、どこか油断と余裕に満ちていた。
──悪い人ではない。
だが、どこか「信じきれない」と、阿部岡は感じていた。
芦屋のような“兄貴肌”の男が現場で好かれることも知っている。
だが自分は、あくまで“仕事そのもの”に向き合いたかった。
阿部岡はいつしか、班内で黙々と作業を進めるようになった。
芦屋に何か言われても、愛想笑いを浮かべてスルーするようになった。
ある日、現場で小さな異音がした。
ふと目をやると、芦屋が金型の角を引っ掛け、破損させたのを阿部岡は目撃した。
誰にも見られていないと思っているのか、芦屋は周囲を見回し、壊れたパーツを静かに布で拭き、工具棚の奥に隠した。
その晩、喫煙所で芦屋が話しかけてきた。
「……なぁ、さっきのやけど。誰にも言わんといてな?」
「壊したまま、隠すんですか?」
「おいおい、あんなんちょっとやって。次の点検でバレんやろ」
「……それはアカンと思いますよ。ちゃんと、上に報告すべきです」
「ははっ、真面目やなぁ阿部岡くん。まぁ、考えとくわ」
翌朝、会長の怒鳴り声が工場に響いた。
「誰や!金型こんな風にしよったんは!」
それを皮切りに、隠蔽の全貌が明るみに出た。
芦屋は呼び出され、しばらく戻ってこなかった。
戻ってきたときには顔をこわばらせ、誰とも目を合わそうとしなかった。
翌週、芦屋の異動が正式に発表された。
「都会汽船班に異動」とだけ書かれた貼り紙が、昼休みに静かに掲示された。
阿部岡はその夜、自宅のテーブルで妻と向かい合っていた。
食卓には子どもの好物のオムライスが並び、テレビからは賑やかなバラエティ番組が流れていた。
だが彼の表情は、どこか晴れなかった。
「なぁ、今日……芦屋さんっていう人が異動になってん。金型壊したの、隠そうとしててな」
「えっ……そうなん?怖っ。なんでそんなことするん?」
「わからんけど……何ていうか、俺、見てもうたんよな。で、口止めされたんやけど……黙ってるの、無理やった」
妻は少し驚いたように目を見開き、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……あんたらしいな。ちゃんとした人やね」
「そやけどな、なんか……後味は悪いわ。あの人も、悪いだけの人ちゃうからな」
「真面目すぎんねん、あんた。けど、それがええとこや。……そういえば、職場でええ人おるん?」
阿部岡は、ふと思い出したように言った。
「そういや、“加納”って若いやつがな、ちょっと変わってるけどええ奴やねん。しっかりしとるし、気にかけてくれるんや。……今度また話してみよかと思ってる」
妻は笑いながら頷いた。
「加納くんか。名前、覚えとくわ。今度うちにも連れてきいや。焼きそばぐらい作ったるわ」
食卓には再び和やかな空気が戻り、子どもがケチャップで描いた「ハート」の形を見て、2人は小さく笑った。
——阿部岡はまだ何も知らなかった。
この後、自分が“信じること”に迷い続ける日々を送ることになることを。
---
