ヤマシタが来た 第五話
「由香里!」
ヤマシタの大きな声に、由香里はまぶたをこじ開けた。目の縁にあった涙が溢れ落ちたあと、見えたのは煙が充満し始めている自分の部屋。由香里は驚いてベッドから飛び降りる。
「 やっと起きたな。一回寝ると本当になかなか起きないから焦ったぞ」
「なにこれ?!」
夢から醒めたはずなのに、今度は悪夢のなかに放り込まれたようだ。ゴホゴホせきこみながら由香里がたずねると、ベッドから飛び降りたヤマシタが隣を指差す。
「おそらくチヨが言っていた危機はこれだろう。隣のセキグチの部屋から煙がでている。由香里、必要なものだけ持って逃げるぞ」
心臓がひゅっと縮むような感覚のあとに、鼓動が一気に早くなる。動揺が地震のように由香里の全身をがくがくと揺らす。
「落ち着け。大丈夫だ。我もいる」
静かに彼女を見上げているヤマシタと目が合う。モアイ顔の冷静な彼をみていたら、動揺して宙を舞っていた心がほんの少しだけ自分のなかに戻ってきたのを感じた。
ヤマシタが頷いた。由香里もひとつ吐息をついて静かに頷き返す。すぐに上着を羽織る。それから財布とスマホがはいったショルダーバッグを掴む。ヤマシタも由香里の足から猿のようにかけ登り、ショルダーバッグに飛び込んだ。タオルハンカチを口にあてると、由香里は部屋の外に飛び出す。
廊下にでると、ぱちぱちぱちという何かが爆ぜる音と焦げ臭さ、 そして普通ではあまりみることのない濃いグレーの煙が、関口の部屋、窓の隙間からもくもくと湧き上がっている。由香里はスマホで緊急ダイヤルを押しながら、叫ぶ。
「ヤマシタ! 消防に状況を説明できる?」
「まかせておけ!」
通話をハンズフリーにしたスマホをショルダーバッグに突っ込み、受け答えはヤマシタに任せて、関口宅のドアを思いっきりたたく。
「関口さーん! 関口さーん! いませんか?」
そうこうしている間にも、パチパチパチという火が燃え広がる嫌な音がする。関口の部屋のドアを力いっぱい叩いても反応がない。もう逃げたのかもしれない。由香里もその場を離れようとした時だ。かちゃりとドアが開いた。煙がわぁっと渦を巻き、由香里に襲いかかってきたから、堪らずげほげほと咳き込む。
「サヤカちゃん……」
消え入りそうな声は聞こえるのに、姿は煙で見えない。煙の直撃から顔を背けて由香里が目をこらすと、玄関に這っている関口の姿がようやく見えた。由香里は慌ててしゃがみ込む。
「無事でよかった。早く逃げましょう!」
「……ストーブから急に火が上がってね。おばあちゃん消そうとしたんだけど、腰が立たなくなっちゃって。サヤカちゃんは早く逃げて」
相変わらず由香里と孫を取り違えている関口の背後、部屋の奥のほうでオレンジ色の炎が、尋常ではない勢いで立ち上がっているのが見えた。
死と隣り合わせの場所にいる。炎の熱と音が由香里にそれを伝えてくる。恐怖で足が竦む。けれど一刻の猶予もないのは明白だ。由香里は自らを奮い立たせて叫んだ。
「関口さんそれはだめ。一緒ににげるよ。さあ立って!」
「おばあちゃんはたくさん生きたからもういいの。でもサヤカちゃんはこれからの人なんだから。早く逃げなさい!」
関口の悲痛な叫び声と、先程夢の終わりに響いたチヨの声が重なった。弾けるように由香里は叫ぶ。
「ばあちゃんのこと、絶対に死なせない! 死なせるものか!」
火事場の馬鹿力。この言葉の意味を、由香里はまさに火事場で実感する。歯を食いしばり関口の上半身を抱き抱えるようにして玄関から廊下にズルズルひっぱりだしてすぐにドアを閉めた。
「いだだだっ」
由香里が両手を引っ張る痛さと、床に腰やら足がこすれる痛みだろう。普段の上品な話し方をする関口からは、想像できない悲痛なさけび声が響く。
「焼け死ぬほうがもっと痛いよ! もうすこし我慢して! 」
ゼェゼェ言いながら由香里はなんとか階段の手前まで関口を引きずった。その瞬間、通路に面していた窓ガラスが、水飴みたいにぐうっと膨らんだあとバリンと音をたてて割れ、そこから炎が吹き出してきた。すべてを飲み込んでしまいそうなオレンジ色の炎。一瞬思考停止したあと、由香里はハッとする。すぐに今いる場所も危なくなる。
「ばあちゃん立って! 階段を降りなきゃ!」
「……無理よ。立てない。サヤカちゃんだけ行って」
「だめ!そんなの絶対だめ! 必ず一緒に行く」
由香里は肩を組んで立ち上がらせようとするけれど、びくともしない。小柄だが小太りである関口は、由香里よりも体重がありそうだ。
「由香里! そろそろここはまずい。急げ!」
ショルダーバッグから顔をだしたヤマシタが叫ぶ。
「わかってる! ばあちゃん、お願いだから立って! 誰かいませんかぁ!」
由香里が全力で叫んだその時、アパートの階段をたんたんたんと駆け足で誰かが昇ってくる音がした。
「由香里!」
「圭司?! どうして?」
突然現れた圭司はいつになく早口で叫んだ。
「話は後だ。とにかく早くここから降りないとみんなで丸焼けだわ。このばあさんを持ち上げればいいんだな? 由香里はそっち持って!」
「はいっ」
二人それぞれ関口と肩を組む。そこにヤマシタが由香里の腕と肩を伝って、ぴょんと関口の頭に飛び乗り大声で叫んだ。
「 ユカリにケージ! セキグチはあちこち痛んでいるからゆっくり立ち上がれ。さあいくぞっ! せえのっ!」
ヤマシタの音頭に合わせて由香里と圭司が関口を支えて立ち上がると、彼女もよろよろと不安定ながらようやく立つ。
「よし! 呼吸をあわせてゆっくり降りるぞ! そおれっ、はい! いち、に、いち、に!」
関口の頭のうえで、応援団のように拍子を取りながら踊るヤマシタの音頭に、なぜかみなで歩調を合わせ、そろりそろりと階段を降りる。関口もその掛け声につられたように必死に足をだす。
「いいぞ! あともう少しだ」
ヤマシタがそう叫び、全員の足が地面についた瞬間、関口が力尽きてふにゃりと座り込んだ。見上げると、先ほどいた場所にも炎が吹き出している。由香里はようやく、サイレンやら野次馬やら、喧騒のど真ん中にいることに気づいた。そこに防火服に身を包んだ消防士が、ホースを手に駆け込んできた。消火作業が始まった。
「大丈夫ですか? 怪我された人はいますか?」
救急隊員に問われ由香里はすぐに反応した。
「ここにいます! こちらの関口さんをお願いします! 私たちは大丈夫です」
呆然としている関口の肩を抱きしめながら叫ぶと、彼女はすぐにストレッチャーに載せられ病院へと搬送されていった。由香里たちも危険だからと規制線の外へと誘導されたところで、とうとう力が抜けた。ヘナヘナと由香里はその場に座り込んでしまった。
「怖かった……」
ボソリとそう呟くと、圭司が隣にしゃがみ込んだ。
「危機、乗り越えたじゃん。頑張ったな」
隣をみあげると圭司が笑っていた。そうして由香里の頭をくしゃりと撫でた。圭司のそんな顔をみたら心底ホッとして、由香里の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「こ、怖かったよー」
そう言って由香里が圭司にしがみつくと、しっかりと抱きとめて、由香里の頭をよくやったといいながら撫でてくれた。その心地良さに嗚咽は次第に収まっていく。圭司の腕の中がこんなに安心出来るものなのだということを初めて知った気がした。
しばらくそうしてから。由香里は照れたように顔をあげて、圭司を見上げた。
「……それにしても。どうしてうちのアパートが火事だってわかったの? 消防車がくるよりも早く圭司がきたからびっくりした」
圭司は由香里の問いに楽しそうににやりと笑ったあと、隣に座り込んで言った。
「由香里と別れた後、部屋に戻ってさ。予定なくなっちゃったし、つまらないから映画でもみようかなって、前から気になっていたホラーを部屋を真っ暗にしてみてたわけ。そしたらさ誰もいない部屋なのに、怪しい声がずっと耳元で聞こえるわけよ」
「怪しい声?」
圭司が苦笑した。
「最初超びびってさ。映画止めて、部屋もすぐ明るくして。誰かいるのか?! って金属バットもって叫んで。それでも声は聞こえるんだよ。耳澄ましたら、由香里が危ない由香里が危ないってずっと耳元でお経唱えるように誰かが囁いてるんだよ。
由香里のことを気にしすぎて幻聴が聴こえてんのかと思ったんだけど、嫌な予感しかしなくて。すっ飛んできたら、アパートが火事になっててほんとびっくりしたわ。あの声ってヤマシタだったんだな」
圭司の言葉に由香里は心底驚いて首を振る。
「ヤマシタは私とずっと一緒にいたから、圭司のところには行けないはずだけど……私が寝ている間に圭司のところに行ったとか? ヤマシタどういうこと? あれ、そういえばヤマシタがいない! ヤマシター! ヤマシター?」
今朝起きてから、半径一メートル以内にいたヤマシタが、今はどこにも見当たらない。
「もしかしてどこかにおっこちちゃった?」
慌てて立ち上がり、殆ど炎はみえなくなったものの、煙がもうもうと立ち込めるアパートの方へ駆け出そうとした由香里の手首を圭司が掴んだ。
「ヤマシタってさ。俺たちが階段から下りる時、ばあさんの頭の上に乗って踊っていた小さいおっさんだよな? 」
その時の映像を頭の中で再現するように圭司が宙を見ながら呟いたので、由香里は衝撃を受ける。
「ええっ?! 圭司にもヤマシタが見えたの?!」
由香里が目をまん丸にしてそう叫ぶと、圭司は笑いながら頷いた。
「また例の声が聞こえるなあって思ったら、ばあさんの頭の上で変な踊りをしながら音頭をとってるヤマシタが俺にも見えた。だんじり祭りかよってツッコミ入れそうになったわ。真面目な顔であんな変な踊りされたら、緊張も吹っ飛んで笑いそうになったよ」
圭司はその時のことを思い出したようでおもわずというふうにふき出した。
「ようやくみんなで階段の下までたどりついたらさ、ヤマシタが俺の方に向かって親指をつきあげて言ったんだ。ミッションコンプリート。ケージ、ユカリをくれぐれも頼むぞって。それからばあさんの頭から、戦隊モノのヒーローばりにかっこよく一回転しながら飛び降りて、どこかに走っていっちゃったんだよ」
「ミッションコンプリート……」
一回転に、突然会話に妙な英語を挟み込んでくるところ。ヤマシタに間違いない。由香里の危機を救い、祖母チヨへの義理を果たしたことで彼にとって任務完了になったのだろう。それにしても由香里に何も言わずに行ってしまうとは。
「一言くらいなにか言ってくれても良かったのに。というか私、憎まれ口ばっかり言いまくって、ヤマシタに御礼も言ってなかった」
由香里がぼそりと拗ねたようにそう呟くと、圭司が由香里を見上げたまま微笑んだ。
「ヤマシタも由香里の気持ち、わかっているよ。それに憎まれ口叩いても、小動物がなんか言ってるみたいで、気にしないと思うし」
その言葉に由香里が頬を膨らませる。
「ひどい。一応私の方が年上なのに」
「いや、それがかわいいっていってんの」
圭司のその言葉に由香里はぽかんとすると、彼は照れたのか、するっと話を変えた。
「それにさ。ヤマシタなりの去り際の美学ってやつなんじゃないの? あのオヤジ、結構そのへんこだわりがありそうだとみた」
「……おかしいよね。ヤマシタのくせに」
そういったとたん身体の一番深い部分がふわっと緩んで、また勝手に涙が溢れてきた。今日一日であまりにも多くのことが起きたものだから、由香里は処理しきれない。
圭司が掴んでいた由香里の手首を優しく引っ張る。勢い由香里は圭司の胸のなかに倒れ込む。
「そうやって泣いたり、いいたいことを言ってくれればいいのに」
圭司が抱きしめたままぼそりと由香里の耳元で呟いたから、由香里も口を尖らせる。
「圭司だって、肝心なことは言わないからわかんないし」
「こうみえてシャイで臆病なの」
「見た目チャラいのに、シャイで臆病とかわかりにくすぎる」
圭司は言いたい事言い過ぎなんて言って苦笑したあと、真面目な顔をして続ける。
「火事になっちゃったし、もう俺の部屋に来る選択肢しかないな」
「へ?」
由香里が顔をあげると、圭司は慌てたように立ち上がった。
「ほら。いくよ。こんなとこにずっといたら寒くて風邪をひくから」
見上げた圭司の耳が少し赤くなっていたから。由香里は泣き笑いをしてしまう。
「羽根布団、ある?」
「は?」
予想以上に驚いた顔をして振り返った圭司に、由香里は笑いが止まらなくなる。
「私の自慢の羽根布団、多分もう使えないから」
そう言うと圭司は少し考えるような表情をしてから、笑った。
「今日は無理だけど、好きなの買えばいいよ。ほらいくぞ」
由香里の手を引いて圭司はズンズン歩いていく。由香里はふと視線を感じて振り返る。ドヤ顔をしたヤマシタがこちらに向かって、親指をたてているしている姿が見えたような気がしたから。由香里は笑顔で呟いた。
「ヤマシタ、ありがとう」
了
