ヤマシタが来た 第四話
「ユカリ。今からでもケージ宅に避難した方がいいのではないか?」
部屋に戻り、早速部屋着に着替えてしまった由香里に、ずっと黙っていたヤマシタが口を開いた。由香里はチラリと、ベッドボードの上に仁王立ちしたヤマシタを見ただけで、羽根布団をばさりと開き、その中に飛び込んで丸くなった。
「まさかもう寝るのか? まだ五時前だぞ」
実際由香里はかなり疲れていた。全力で気を遣うといつもこうなる。そうしてこのぬくぬくした布団のなかに逃げ込むのだ。
業務などでやり取りをしているぶんにはしっかりしていると言われる由香里だが、実際はそんな事ないのに、といつも心の中でため息をついている。
本当にしっかりしているならそもそも就職活動に失敗して、それ以来ずっと派遣で働いたりしないだろう。人間関係だってそうだ。誰かといると無意識に顔色を伺ってしまう。相手が由香里に対してどう思うか。それを考え出すと自己嫌悪の無限ループに陥りそうになって、苦しくなる前に距離をおいてしまう。
だから親友なんてできたこともないし、恋人ができても長続きしない。結婚が考えられないのも他人とずっと一緒に住むイメージができないからだ。
圭司と付き合うようになったのも、なんとなく流れに身を任せていたらそうなったという感じだった。派遣最終日に連絡先を交換しようと言われ、友人からいつの間にか恋人になっていたのだから。
由香里は今でも時々思う。どうして圭司みたいな人が、特に可愛いわけでもなく、地味な年上の派遣社員である由香里に声をかけてきたのか。一年経った今でもよくわからない。
それでも。圭司がほんの戯れで声を掛けてきたのでもよかった。ひとりでいるのは寂しい。
そうしてなんとなく付き合いだした二人だったけれど、意外にも交際は順調だった。ぼおっとしたところがある由香里と、笑いながらそんな由香里にツッコミをいれてくる圭司との時間は心地よかった。
とはいえ最近の圭司は少し様子が違っていた。いや、前からその気配はあったかもしれない。こんなふうに由香里が思いだしたらもう駄目なのだ。これまでの経験から、うまく行かなくなる気配もなんとなくわかってしまう。これは振られる前兆なのだと。
「……もしかしてチヨが言う危機というのは、ユカリがケージに振られるということだったのか?」
今まさに考えていることにシンクロしたようにヤマシタにそう指摘され、由香里は布団から顔を出し、どこかぼんやりと見つめた。
「そんなことが危機なの?」
ヤマシタはモアイ顔のままゆっくり首を振る。
「我も分からんから聞いておる。由香里にとって、ケージがいなくなることは危機ではないのか?」
なんの感情も挟まない口調でヤマシタに淡々とそう問われて、由香里は反射的に答える。
「……危機なんかじゃない。いつかこんな日が来ることなんて……わかって付き合っていたんだから」
ヤマシタはヘッドボードにゆっくり腰掛けて由香里の顔を見下ろした。それから子供を諭すように呟く。
「それでは何故、ユカリは泣いているのだ?」
そう言われて初めて、由香里は自分が泣いていることに気づいた。頬に手をあてると確かに拭ききれないくらいの水滴で濡れた。慌ててティッシュを引き抜き、ゴシゴシと顔を拭う。
「寝る!」
そう宣言すると布団に潜りこんで丸くなった。ヤマシタが侵入してこないように、みの虫のように丸くなって隙間をなくす。彼がなにかブツブツと文句を言っているのが聞こえたが、狸寝入りから本気モードで寝てしまえるのは、由香里の得意技だ。意識はすぐに眠りの世界へと向かっていく。
気づくと由香里は実家の居間にいた。今はリフォームをして板張りの洋間になっているけれど、夢のなかのそこは畳敷きで、ちゃぶ台が置いてある。小学校の頃に愛用していたピンクのタオルケットを被って、由香里は昼寝をしているところだった。下から見えるその居間の眺めは、幼い頃よく見た懐かしい風景だ。
「由香里」
少しかすれた優しい声。背後にかんじる温もり。懐かしいひなたの香りがするエプロンの匂い。振り返らなくてもその声が誰なのか、由香里はすぐにわかる。
「ばあちゃん……」
夢の中での由香里は小学生くらいだから、チヨは添い寝をしてくれているのだろう。背中をぽんぽんと柔らかく叩いてくれている。懐かしくて優しい時間。由香里は全身で浸るように、その時間を愛おしむ。しばらくして、チヨが口を開いた。
「ごめんねえ由香里。ばあちゃん、由香里のことわすれちゃって。覚えていたかったんだけどねえ……」
その言葉に、三十二歳の由香里の涙腺は一気に崩壊してしまう。溢れてくる涙をタオルケットで拭きながら、なんとか声を出す。
「ううん。由香里だって、ばあちゃんが好きこのんで記憶がなくなったりしてるんじゃないってわかってた。わかってたのに……」
由香里の瞳にさらに涙が溢れてくる。それに構わず話そうとするとうまく声がでない。重しのように、心の片隅で巣食っている自責の念。普段は忘れていたそれが、じわじわと炙りだした絵のように広がっていく。それでも由香里は必死に口を開く。
「ばあちゃんのこと大好きだったんだよ。……それなのにばあちゃんが亡くなったって聞いたとき、ホッとしたの。そんな自分が嫌で嫌で……」
時間の観念も薄れ、家族のことも忘れていくチヨ。祖母にとって由香里は孫から娘、最終的には近所の子供へと認識が変わっていった。
祖母と顔を合わせる度に、どなたさまですか? どうしてうちにいるの? 早くお家に帰りなさいな、と言われるのがとにかく辛かった。親や介護のヘルパーさんは話を合わせるようにと由香里を諭してきたけれど、子供の由香里には無理な注文だった。
いつも可愛がってくれていたチヨ。彼女の思い出のなかから由香里の存在がどんどん消滅していく恐怖。そんな現実など由香里は知りたくもなかったし、見たくもなかった。
由香里はできるだけチヨを避け続けた。何か補助を母親から頼まれた際も、できるだけチヨの顔を見ないようにしていた。そこには入れ物があるだけで、チヨという中身は存在しないかのように。
そうして生活していたある日だった。部屋の前を横切った時に急に大きな声で呼び止められた。
『由香里! 由香里だね。大きくなって! お姉さんになったねえ』
どんどん表情が乏しくなり無反応になっていたチヨが、この日は満面の笑みを浮かべて、由香里に向かって両手を差し出したのだ。由香里は何が起こっているのか分からなかった。思わずあとずさりをし、そして逃げた。
その日チヨの体調が急変し入院、由香里が中学校から帰ってきたらチヨが亡くなったと聞いた。
その時由香里の感情を支配したのは、悲しみと後悔。そして同じ分量の安堵感だったのだ。そんな自分に由香里は強い衝撃を覚えた。
そんな人でなしが誰かを愛したり愛されたりできるのだろうか。善悪や人間の機微に対して、真っ白な理想を抱いていた思春期の心に打ち込まれてしまった楔。もしかしたらこの事がきっかけで、人と距離をおくようになったのかもしれない。泣きながら三十二歳の由香里はその事に気づく。
不意に温かい感触を由香里は背中に感じた。背後のチヨが背中を撫でてくれていた。それは由香里が風邪をひいたとき、学校で嫌なことがあったとき、親に怒られて拗ねたとき。いつもしてくれたことだった。その温もりが由香里の心までやさしく慰撫する。
「人間だもの。そりゃだれもが聖人君子みたいになれないから仕方ないさ。ばあちゃんだってね、じいちゃんに勝手に貯めていたお金を使われたあげく、そのお金で浮気されたときにゃ、さすがに早く死んじまえって呪ったからねぇ。わら人形でも作って五寸釘差し込んでやろうかと本気で思ったくらい腹がたったわ」
「へ?」
話の流れが微妙に変わるのもチヨのクセだったことを思い出す。由香里は、懐かしくて泣き顔のままつい笑ってしまう。チヨも昔よく聞いた楽しげな笑い声を一緒に響かせる。
「ずっとじいちゃんに対して心の中に不満やら文句を閉じ込めてたんだよ。由香里と一緒でね、ばあちゃんも我慢強かったからね。ほら、あんたのお父ちゃんと叔父さんだっていたから、離婚するわけにもいかなかったしねえ。とうとうじいちゃんが死んだときにさ、ざまあみろって一人の時に叫んでやったんだ。葬式会場の薄暗いお便所で水流しながらね」
「そうだったんだ」
初めて聞く新事実。本当か嘘かなんて夢だからわからない。ただ現実ならば、孫にこんな祖父のぶっちゃけ話などできなかっただろうと由香里は苦笑する。
「でもねえ。やっぱり虚しいのよ。文句を言ってももう傍にいないんだから。しかもじいちゃんが優しかった時のことばかり思い出しちゃってねえ。溜め込んでしまうとだめなんだね。嬉しいことも腹が立つことも。新鮮なうちに言葉にしてちゃんと相手に伝えなきゃ。鮮度が落ちてしまったらもう元には戻らない。野菜も人間も一緒。逃げちゃだめなんだよ」
不思議な説得力を持つチヨの言葉。由香里は顔を見たくなって後ろに寝返りをうつ。目の前にいるはずなのに、チヨの笑顔がぼやけてよく見えない。由香里はチヨの肩に手を置く。昔よりもずっと小さく感じて、由香里はいよいよ慌ててしまう。
「ばあちゃんの顔がよく見えないよ。まだ全然ばあちゃんと話をしてないのに。まだ行かないで!」
由香里は無意識にそう叫ぶ。ぼんやりとしているものの、チヨがゆっくりと首を振るのが見えた。
「大丈夫。由香里はもうちゃんとわかってる。由香里はね、ちゃんと人を愛おしむことができる優しい子だよ。それにはまず怖がらずに心を開くんだよ。さあ行っといで!」
由香里が小学生の頃、学校を休んだ次の日、この掛け声をかけてもらって家を出たことを思い出す。耳の奥まで反響するチヨの声にしっかりと頷く。そして温かい気配が、由香里の前からすっと消えていくのを感じたその時だった。
