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探偵と全裸死体

 

植田バイトを始める


 1976年六月初旬、名古屋市。世間はロッキード事件で大揺れしていた。
 政治家たちが庶民には一生使いきれないほどの金を得ていたというのに、二十五歳になった植田鉄夫はアパートの家賃が払えずバイトをしていた。
 本山の交差点で信号待ちをしていると、パチンコ屋から音楽が聞こえてくる。流れてくる曲は、去年から流行っている「およげ!たいやきくん」だ。毎日かわりばえのしない暮らしをしているサラリーマンがたいやきくんと自分を重ねているのだろうか、子供以外にも売れているらしい。
 交差点の東の角に「カジノ・リオ」という名前のゲームセンターなのか大人向けのカジノなのか、初めて入るにはためらわれる場所があった。
 カジノの店内はエアコンは入っていても空気は湿っぽく、雨でも降ってきそうだった。植田は室内からガラス製の入り口を眺めたが外は鉛色の曇り空が広がっている。
 天気が悪ければ客が少なく仕事は楽だ。客はスロットマシンに二人、入り口付近に置いてあるクレーンゲームに常連が一人いるだけ、それでも四時を過ぎれば客が増えるだろう。なにしろ今日は日曜だ。
 植田が灰皿を拭き終わり、空いているスロットマシンを磨こうかと思ったとき、ドアの外で犬の鳴き声がした。何かに吠えるというよりも逃げ惑うときのものだった。
 好奇心を抑えきれなかった植田は、外に出て様子を伺った。バイト仲間の松尾秀樹が、幟のついた棒で犬を殴っている姿が見えた。
 犬は薄汚れて肋骨が見えるほど痩せていた。きっと野良犬だろう。
 植田はあわてて松尾と犬の間に入り「可哀想やからやめろって」と松尾の腕をつかんだ。犬は松尾の脇をすり抜けると、哀しげな鳴き声を残して逃げていった。
「この間から店の前でうろついていて目障りだったんすよ」
 興奮が醒めたのか松尾はふてくされた態度で、幟のついたプラ棒を店の前に立てた。
 視線を感じた植田が横を見ると、常連客の高齢女性が口をあんぐりと開けたまま棒立ちしている。
 植田は常連客に頭を下げると、松尾を促すようにして店に戻った。
 店のなかに入ったとたん、松尾は愛想のよい態度を取り戻し、客から飲み物の注文を聞き始めた。
 彼は背の高い現代的な美青年で、男のくせに耳にはピアスをしている。そんな不良じみたところに惹かれる女も多そうだ。一番の欠点は性格に問題があることだろう。
 少し遅れて先ほどの女性が店のなかに入ってきた。
 六十過ぎに見える女性は黒のブラウスに紫色のロングスカートを着て、旅芸人のような厚化粧をしている。女性にしては肩幅が広いが、ほっそりとした体格をしている。
 どことなく風貌が西洋の魔女に似ていて、松尾は彼女のことを「ぐつぐつと沸騰した大きな釜であやしい薬草を煮込んでいそう」と評し、陰で『魔女』と呼んでいた。
 この店では購入したコインを預けることが出来て、そのときの預かりカードに、彼女は「ミネルヴァ」と書いていた。だから植田はどこも西洋人に似てへんやんけ、と思いながら「ミネルヴァさん」と声をかけることにしていた。
 ミネルヴァはピンボールマシンを磨いていた松尾に近づき「あら、ズボンに何か付いているわよ」と言うとハンカチを取りだして、松尾のスラックスの裾を拭いた。
 一瞬だけ、ゴミ虫を見るような目つきをした松尾はすぐに表情を改め「ありがとうございます」と爽やかに言った。

 翌日の午前十一時、植田はカジノ店のドアを開けて中に入った。有線放送からは哀しげなバラードが流れている。
 店の奥には大きなルーレット台、右側にはカウンター、左側にはスロットマシンとカードゲームをするテーブルが設置されている。常連客は夕方を過ぎないとやってこないので、客はほとんどいない。
 植田は奥にある事務室で手早く制服に着替えた。黒のチョッキに蝶ネクタイをしめる。下は同じ色のスラックスだ。普段着はスタジャンにジーンズなので、制服を着用するのは気恥ずかしかったが、今は慣れて、私服が傷まずにすむから助かるわと思っている。
 フロアに出て、とりあえず掃除をすることにした。掃除道具を取りにカウンターに向かう。
 狭いカウンターの中で山さんと呼んでいる山村がコップを磨いている。眼鏡をかけた小太りの三十代後半の男性で、肌が不健康に白い。給料を全て貯金しそうなタイプに見える。彼は普段から愛想がないのだが、今日はいつにもまして不機嫌そうな表情をしている。
 植田が挨拶をすると、彼は目を細めてから「おう」とだけ答えた。
 スロットマシンを掃除しようとすると、いつの間にかミネルヴァが一番端のマシンにコインを投入していた。
 スロットの掃除を適当に済ませた植田は、店の入り口を箒を掃き始めた。落ち葉が散乱している街路樹を見て、違和感を覚えた。
 居心地の悪さに箒に体を預けるようにして、しばらく考えた。そして閃いた。ミネルヴァが来るときはいつも街路樹に白い小型犬を繋いでいたのだが、今日は犬の姿がない。
 犬がいないのに、ミネルヴァが来店していたから、引っかかりを感じたのだ。気掛かりなことが一つ消えて、植田は気持ちがすっきりしていつもよりも丁寧に道路を掃いた。
 掃除を終え、カウンターに入りコーヒーを沸かす。タダでコーヒーが飲めるのはバイトのいいところだ。いい加減な性格の植田だったが、気楽な職場は案外とあっているのかもしれない。

 十八時になったので植田はバイトを上がることにした。
 着替えるために事務室に行こうとすると、山村が「鉄ちゃん、松尾がまだ来ていないから、それまで残業してちょ」と声をかけてきた。
「またかい、まったくどういう男やねん」
 植田の口調が荒くなる。
 松尾は、名古屋弁でいうところの「えーろこかげん」な男で、バイトは無断で休むわ、女性客にナンパはするわと、美青年だが人間性に問題があった。
「松尾とは友達なんだろ、だったらいいがね」
 茶化すように山村は言った。こうしたときだけ名古屋弁が混じるのである。
 結局、松尾は閉店までやってこなかった。植田は愚痴をこぼしながら、ラストまで仕事をするはめになった。

植田また死体を見つける

 次の日、植田はアパートを出ると、幹線道路の末盛通りではなく裏道を選んで歩いた。というのも大通りにはアパートの大家がやっているペットショップがあって、家賃を三ヶ月も滞納している立場としては、顔を合わせられなかったからである。
 遅番だった植田が店に入ると、カウンターで宮さんこと宮本がスポーツ新聞を読んでいた。
 彼は日焼けした肌に引き締まった体をしていた。二枚目ではないが、ちょっと崩れた遊び人という雰囲気があり、水商売の女性に好かれそうなタイプである。
 植田が店内の掃除をしようとカウンターの前を通ると、宮本が時計を見ながら「松尾のヤツどうしたんだ。ちっとも来やしねえ」と吐き捨てるように言った。
「そういえば、夕べもズル休みしてたわ」
 植田の言葉に宮本は一瞬だけ目つきが鋭くなった。遊び人だから細かいことにはいろいろ言わないが、約束を破ったりすると思いっきりドヤされる。
「鉄ちゃんさ、ちょっと松尾のところに行って、たたき起こしてくれないか。どうせ遊び疲れて寝ていると思うんだ。この近くのアパートに住んでいるはずだからさ。まったく電話くらい引けばいいのによ」
「まかせといて。すぐに行ってきますわ」
 植田は調子良く返事をした。宮本みたいな社会からはみ出した男には親近感を持っているからだ。
 宮本が書いてくれた松尾の住所を手にした植田は「本山温泉の近くらしい」というあいまいな情報だけを持って、店を出た。
 いかにも水商売という制服を着たままうろうろするのは気恥ずかしかった。だが、ただでさえ忙しくなる金曜日の夜にバイトが自分だけというのはつらい。そんなことを気にする余裕はない。
 本山交差点を渡り、猫洞通方面に行くと「本山温泉」という銭湯がある。高い煙突があるから遠くからでも目立つ。植田もよく利用する銭湯だ。
 このあたりは大学も多く、学生の街でもある。だから学生向けの安アパートが多い。電柱に貼ってある住所を頼りに、アパートを探す。
 お調子者の松尾のおかげで苦労するわ、と心の中で愚痴をこぼした植田は、一週間前のことを思い出した。
 軽薄な笑いを浮かべた松尾が近寄ってくると、小声で話しかけてきた。
「鉄ちゃん。俺と一緒に東京に行って、ホストになろうよ。なんでも面接するだけでいい女を抱かせてくれるらしい。鉄ちゃんみたいな愛嬌があれば即採用だよ」
 植田は悩んだ。ホストという職業があるらしいと聞いたことがあるが、なにやらうさんくさい。留年続きで親から勘当された身ではあるが、そこまで堕ちていいものか。そう考えて答えは保留していた。
 となると、ホストになるために上京でもしているのか。そうであれば、一人だけいい思いをしないで、同行させてくれてもよかったのではないか。あのとき、答えをハッキリと言わなかったことを後悔した植田は、悔しさでぎゅっと唇をかんだ。
 松尾のアパートは「メゾン・猫が洞」という名前だった。目の前にある建物を見ながら、もう一度メモを確認した。どうせ安アパートと思い込んでいたので、鉄筋コンクリートの瀟洒なものだったことに驚いた。
 部屋番号を確認すると、一階の角部屋だった。印刷したような字で「松尾秀樹」と表札がかかっている。
 ノックしても返事はない。ドアノブを回すとカギがかかってないのか、ドアが開いた。
「松尾くん、植田だけど。勝手に入らせてもらうわ」
 声をかけたが、返事はない。しばらく待ってから室内に入った。玄関横にトイレがあるが、人の気配はしない。
 留守のようだが、松尾がいないことだけは確認しようと思った。そのくらいしないと、宮本に「子供の使いじゃないんだぞ」とドヤされる。
 部屋の奥から生ゴミのような嫌な臭いがする。テーブルの上を見るとスーパーの紙袋が置かれていた。
 腰に手を当て辺りを見回すと、壁際にギターが立てかけてあった。横にはスチール製の本棚があって、雑多な本が並べられている。
 本には興味があるので、近寄ってざっと眺めた。書棚にどんな本があるか、それを見ればどんな人間か見当がつく。
 国語事典やベストセラー小説、他には「ギター演奏入門」とかナンパ術の本やマンガ。松尾らしい中身の薄いものばかりだ。
 敷きっぱなしの布団の横には服が乱雑に置いてある。着替えてからどこかに出かけたのだろうか。
 留守のようだ、と帰ろうとしたが、奥の部屋から、両足のようなものが突き出ているのが見えた。植田のうなじに帯電したときのチリチリとした感触が走った。足早に近づいて曇りガラスが付いたドアを開けた。
 そこはキッチンになっていて、壁側にはカラーボックスが置いてある。その前に全裸の男が倒れている。大きな肌色をした人形が置いてある、そんな非現実な光景だった。
 間近で見ると、全裸だから全体の感じは違って見えたが、髪型と彫りの深い現代的な横顔からして、松尾本人だろう。
 松尾の首の周りには紫色の痣のようなものが出来ていた。長髪で外耳は隠されていたが、耳たぶに赤い斑点のようなものがあって不気味だった。体は青白く生気がないからさわらなくとも、死んでいるのがわかる。
 早くここから出て、警察に電話をしないと思いながら、あることに気がついた。松尾はカラーボックスの下に収納された炊飯器に、手を伸ばすようにして死んでいたのだ。その姿は死に際に食事を求めているようにも思えた。
 死体を見るのは二度目だが、慣れるものではない。植田は一目散に出口に向かった。玄関で脱いだ靴をつっかけるようにして外に出る。
 アパートのすぐそばに公衆電話があったはずだ。いや、それよりも本山交差点に派出所があった。植田はゆるやかな下り坂を走った。
 交番に駆け込んで、そこにいた制服警官に松尾が死んでいることを告げて、すぐにアパートに案内をした。
 警官は走りながら、無線でどこかに連絡を入れている。
 部屋の前で植田は待たされ、警官だけが中に入っていった。
 狭い路地はパトカーと警察関係者で埋め尽くされた。どうして、いつもこんなことになるんやろ、と植田は我が身の不運を嘆いた。前回のように現場から逃げ出せばよかったと考えたが、バイト先から松尾の様子を見てくるように頼まれたのだ、素知らぬ顔をして帰るわけにはいかなかった。
 そのとき、自分が容疑者にされたらどうしようという恐怖感に襲われた。六月だというのに、両肩に寒さを感じて体をすくめる。
 制服警官に案内されるように、二十代後半の日に焼けた精悍な男がやってきた。
「愛知県警の田丸です。あなたが発見されたんですよね」
 テキパキとした口調で訊いてきた。
「はい、そうです。バイト先で松尾が昨日から出てこないから、様子を見てこいといわれまして、カギがかかっていないので室内に入ってみたら、死んでいたんです。もうびっくりして……」
 標準語でしゃべりながら先ほどの死体を思い出した。顔が歪むような嫌な気分だ。刑事はメモを取りながら、油断のない目つきでこちらを見ているのがわかる。
「なるほど、同じバイト仲間というわけですね。あなたのお名前や職業などを教えてもらえますか」
 植田は学生証を刑事に渡して、名前とさらに「カジノ・リオ」で働いていることを話した。
 刑事は学生証を手帳に写し終えると、ていねいな仕草で返してくれた。それから松尾がどんな男だったのか教えてくれと言った。
 植田は松尾のことを話しながら、名前は知っていても、年齢も普段の生活も知らなかったといまさらながら思った。
 田丸と名乗った男の上司らしき小太りの男が近づいてくると、二人でこそこそと相談しはじめた。
 田丸は背広姿だが、太った男はラフな開襟シャツ姿だ。
 植田は宮さんに報告しないとまずいなと考えていた。腕時計を見ると店を出てから四十分は経っている。
「すみません、店に報告したいんやけど、まだかかります」
 おずおずと二人に声をかけると、太った方が日焼けした顔を向けた。それから植田の服装をしげしげと見つめた。
「班長、植田さんの身元も聞きましたし、バイトの途中だそうですから、いったん戻ってもらってもいいんじゃないですかね。どうせあとで店のほうにも聞き込みにいかないといけないだろうし」
 開襟シャツの男は田丸のほうをチラリと見てから「ここで見たことは口外しないでくれよ。それとあとで被害者のことをいろいろと聞きたいことがあるから、責任者にそう言っておいてくれ」とぶっきらぼうな口調で言った。
 植田は事件のことを考えながら店に帰った。宮本の姿を見ると、すぐに松尾が死んでいたことを報告した。
「どうりで、来ないわけだ。わかったから、お客にはそうした話はするなよ」
 釘を刺すように言うと「俺もいろいろやってきたけどよ。コロシの発見者になったことだけはないぜ。鉄ちゃん、良い経験をしたな」と、笑った。
 植田は心の中で、これで二度目やし、そんな経験はしたくないわ、と毒づいたが、宮本に勝ったような気分になり心の中でニヤリと笑った。

 夜の十時に先ほどの刑事二人組がやってきた。
 小太りの男は開襟シャツにもかかわらずタオルで首筋の汗をぬぐっていた。田丸は物珍しそうに店内を眺めている。
 滅多に顔を見せない社長が奥から出てくると、如才のない態度で事務室に二人を案内した。宮本が社長に連絡を取ったのだろう。
 社長は五十代の痩せた男だ。いつも高級な服を着ている。バイトには優しいが、社員には厳しい一面もある。
 社長が事務室から顔を出すと「植田君と山村、ちょっと来てくれ」と手招きをした。
 来客用のソファーに刑事ふたりが座っていた。社長は立ったままで「警察の人にどんなささいなことでもいいから、話をしてくれ。わかったな」と厳しい表情で植田たちに伝える。
 社長が手で示すので、植田と山村は刑事たちとは対面のソファーに腰掛けた。
 それから二人で、松尾が何か問題を抱えていなかったか、どんな勤務態度だったのか、刑事たちに説明をした。
 松尾が殺されるほど恨みをかったり、金銭的なトラブルがあったとは思えない。というようなことを植田は話したが、ホストのことは黙っていた。
 山村も勤務態度は真面目とはいえないが、今の若いやつはそんなものですと、冷静なのか醒めているのか淡々と語った。
 若い田丸は黙ってメモをしている。隣に座る「班長」と呼ばれていた中年刑事は、植田たちの表情を野菜を品定めする主婦のように見つめていた。
 刑事というのは答えを引き出すだけで、自分たちからは情報を与えない習性でもあるらしく、質問をするだけだ。
 発見者の植田は指紋の採取を要請された。現場に残された指紋から植田のものを取り除くのに必要だ、と説明されると断れない。
 採取の後に、ティッシュでインクをふきながら、植田は犯罪者になった気持ちになる。
「指紋データは警察に保存されるんやろ。これからは悪いことは出来ないってわけや」
 植田は愚痴混じりに田丸に向かってつぶやいた。
「一般人の指紋データは、事件解決後に削除されることになっていますから、ご安心ください」
 田丸は苦笑混じりに答えた。
 社長が植田に部屋を出るように指示した。山村に聞くことがまだあるようだ。

 刑事たちが帰っていくと、山村が植田に笑いかけてきた。
「鉄ちゃん。あいつらに疑われているみたいだぞ。アリバイを聞いてきたからな。具体的な死亡時刻は言わなかったけど、殺されたのは昨日の昼過ぎから夕方らしい。もっとも、俺が昨日は昼からラストまでずっと働いていたと証言してやったから、安心していい」
 山村だけ残して、植田のアリバイを調べていたらしい。第一発見者が犯人のことが多いとはいえ、疑われていたのは気分の良いものではない。
「山さんがいい人で、正直に証言してくれてほんま助かったわ」
「鉄ちゃんはいいヤツだけど、コロシが出来るほど肝っ玉が据わってないだろ。サツだってそのくらいはわかるさ」
 横から宮本が馬鹿にしているのか、ほめているのかわからような発言をしてきた。山村が含み笑いするのが聞こえた。

 

植田噂になる


 次の日は土曜日、しかも毎月恒例となりつつある「カジノ祭り」の日だった。名前はおおげさだが、飲み物無料というだけのものだ。それでも貧乏学生やサラリーマンが集まってくるので、けっこう賑わう。
 入り口に「午後六時から飲み物すべて無料」と目立つポスターが貼ってある。
 ポスターに描かれているのはなんといもいえぬ味のある字で、社長が毛筆で書いたものだ。
 バイトがひとり死んだというのに、店のなかは昨日と変わらないどころか、天井から派手な飾りものがぶら下がり、陽気なラテン系の音楽がかかっていた。
 まだ午後五時だというのに、店内はいつもの倍ほどの客が入っていた。
 植田が着替えてくると、宮本が「まだ早いけど、無料にしたからな。入ってきた客に何を飲むか聞いて、すぐに出してやってくれ」と指示を出してきた。
 飲み物といっても、ウィスキーの水割りとコーヒーくらいなものだ。バイトの植田でも簡単に作れる。
 カウンターに入って、冷蔵庫から氷の塊を取りだして、アイスピックで細かく砕く。最初のうちは慣れなくて、うまく割れなかったが、次第にコツをつかんで、それなりに出来るようになっていた。
 アイスピックの柄ではなく先の部分を握って、ほんの少しだけ出した先端部で氷を砕くのがコツだ。そうしないと手をアイスピックで刺すことがある。
「もう、タダなんだろ」と声がかかった。
 でっぷりと太った常連客がスツールに座っていた。彼は「マスター」と呼ばれていた。この近くにあるレストランの店長を任されているらしい。
「いつもの水割りですね」
 植田がダルマと呼ばれているオールドの瓶からグラスに注ぐと、マスターは皮肉な笑いを浮かべた。
 カウンターに常備されたダルマはいつも封が切ってあって、山村が事務所から持ってくるのだ。安いウィスキーを詰め替えているのだろう。
 だからマスターはそんな事情を知っていて、笑っているのだ。だいたい無料の水割りにオールドを使えるわけもない。
 水割りで口を湿らせたマスターは「鉄ちゃん、人を殺したんだって」と訊いてきた。
「まさか。殺人をしておいて水割りなんか作っているわけあらへんて」
 植田は冗談めかせて言ってから、わざと外人のように肩をすくめた。
「松尾とかいうバイトが殺されたのは本当なんだろう。朝刊に載っていたからな」
「本当ですか。マスターには悪いけど、警察から余計なことは口外するなと釘を刺されているんですわ」
 植田はかるく頭を下げた。
「それなら宮ちゃんにでも訊くとするか、昨日遅くに刑事が聞き込みに来たんだろ。山ちゃんがそう言っていたぞ」
 この調子で噂が広がっていくのだろう。明日あたりには植田が犯人で金銭トラブルが動機だなんてことになっているかもしれない。
 マスターは唇の端に冷笑を浮かべると、ルーレット台の方に歩き出した。植田はカウンターから出て、新しく来た客に飲み物を出したり、灰皿をきれいにしたりと、忙しく働いた。
 それにしてもどうして松尾が殺されたのだろうか。死体を発見した驚きと自分が疑われるかもという恐怖で、深く考えはしなかったが、あらためて思い出してみると、かなり異常な状態だった。
 それほど親しかったわけではないが、前のように犯人を捜し出してみたろかい、と植田は店内の喧騒に押されるように気持ちが高ぶってきた。
「鉄ちゃん、おはよう」
 後ろから肩を叩かれて振り返ると、森村由美が笑いかけてきた。
 彼女は以前に二ヶ月ほどここでバイトをしていたことがある。きっと松尾の代わりに社長にでも頼まれたのだろう。
 女子大に通う三年生で、明るい性格の小柄な女性だ。美人ではないが誰にでも愛想がいいので、男性から好感を持たれやすいタイプだ。
 祭りのような特別の時ではないと、女性バイトは来ないので、女子用の制服を見ることは滅多にない。由美の制服姿はなかなかに可愛らしく、植田の視線は彼女に釘付けになった。
「来てくれて、助かるわ」と下心を隠して植田は言った。彼女にはカウンターを受け持ってもらうことにした。
 彼女がカウンターに入ったとたんに、砂糖に群がるアリのように貧乏学生やサラリーマンが押し寄せる。まったく男という連中は——植田は自分のことは棚に上げて、呆れたように呟いた。
 客の注文を聞いていた植田は、宮本に呼ばれて「ポーカー」のディーラーをやることになった。
 カジノといっても、チップやメダルは換金することは出来ずに、ただ預けておくことしか出来ない。ギャンブルというよりも、大人のゲームセンターみたいなものだった。
 ここでやっていたカードゲームは「セブンカードスタッドポーカー」と呼ばれるものだ。
 普通のポーカーと違うのは、最初に伏せたカード(ホール・カード)を二枚、次に表向き(アップ・カード)にしたカードを一枚配る。
 そこからベット(賭け)が始まり、表向きにしたカードを三枚、最後に伏せたカードを一枚配る。最終的に配られた七枚のカードから好きなカードを選んで一番強い手を作るというものだ。
 カードの組み合わせが多いから、強い手が出来やすくなり、白熱したゲームになりやすい。それと、場に四枚晒されたカードから相手の手を推理するという面白さもある。
 山村や宮本みたいなベテランディーラーだと、適当にブラフをかましたり、わざと負けてみたりと、その場の雰囲気を盛り上げて客を愉しませることが出来る。
 植田もなにごとも経験だというわけで、ときおりディーラーをまかされることがあった。
 ディーラーが植田に交代して、一番喜んだのは丹羽さんだった。五十歳ほどの中年女性だ。いつも地味な服を着て、化粧もほとんどしていない。そんな外見にもかかわらず、噂によるとこのへんに土地を持つ資産家らしい。
 彼女は宮本にずいぶんとやられたらしく、何度もチップを買っていた。それなのに、目の前にあるチップは少なかった。
 ポーカーテーブルには緑色の羅紗が張られていて、滑りを良くしてある。最初のカード三枚をそれぞれの客に配り終えると、マスターが「鉄ちゃんは昨日死体を見たらしいから、きっとついているぞ」と皮肉な表情で言った。
「あら、バイトくんが殺されたときの発見者ってあなただったの」
 目を丸くして丹羽さんは言った。いつもはあまりしゃべらないが、好奇心は人一倍持っているらしい。
「昨日はさんざんな目にあったわ。殺害時にはここでバイトをしていたという完璧なアリバイがあるから、犯人じゃあらへんで」
 犯人扱いされないように先手を打っておく。場に見えているカードで一番強いのが植田だったので、親として最低限のチップをベットした。
「鉄ちゃんはケチだからさ、そのときの様子を教えてくれないんだよな」
 マスターは四枚目のカードを見るとくやしそうにそれを伏せた。手が悪くてフォールド(降りる)したのだ。
 丹羽さんのアップ・カードはハートのQと10だ。彼女の口角が微妙に上がり、瞳が潤んだように見える。
 フラッシュ狙いらしい。植田の手の内にはハートのJとクラブのJが入っていた。だから丹羽さんにストレートフラッシュはありえない。良くてもフラッシュ止まりということだ。
「だけどあのバイト、ちょっと軽薄そうだったわね。わたしの娘があんな人を連れてきたら、考えちゃうわ」
 そう言って丹羽さんは目立たない額をベットした。
 彼女は冒険はしないタイプで、ブラフ(ハッタリ)はしない。
 男性と違って女性は堅実なゲームまわしをするようだ。
 先生と呼ばれている歯科大学の研究生が丹羽さんにコールした。植田もそれに合わせる。
「たしかに、女好きなところがあったわ。俺に東京に行ってホストになろうぜ、なんてことをいってたんやから」
 植田の言葉に、ゲームから降りて気楽になっていたマスターが「そういえば、ミュージシャンでギターを弾いているなんて自慢していたが、どうぜウソだろう。女を騙すにはいい小道具だからな」と言った。
 たしかに、部屋にギターがあった。「ギター入門」なんて実用書も並んでいた。
 六枚目を配ると、丹羽さんのアップカードはハートのQ・10・A・ダイヤの7となっていた。
 植田はスペードのA・J、ダイヤの5、クラブの3で手の内にある二枚のJを合わせるとスリーカードが出来上がっている。
 傍目からすると丹羽さんはストレート、あるいはフラッシュまであり、もしかするとストレート・フラッシュまでというふうに見える。実際にはそこまではないのだが、それを知っているのは植田だけだ。
 丹羽さんが20$と書かれた緑色のチップをベットした。それを見た研究生はフォールドした。植田がコールしたので、二人の争いになった。
 最後のカードを配る。丹羽さんはポーカーテーブルにこすりつけるようにしてカードをめくった。それから横から見られないようにカードを手で隠した。
 唇を湿らせるように舌でなめた。なにかを企んでいるような表情だ。おもむろに40$分のチップを几帳面に重ねて前に置いた。
 ブラフをしない丹羽さんのことだから、ストレートかフラッシュは出来ているだろう。常連はそれを皆知っているので、すぐに降りてしまい。いい手が来ても、あまり儲からない。それは彼女もわかっているのだが、性分だからどうしようもないのである。
 植田のやり方は無理をせずに、お客を愉しませることだった。どうせ寺銭として一割のチップをディーラーがもらうのだ。ようするにお客同士で闘わせればいい。
 しかし、植田に来た最後のカードはダイヤのJ、なんと滅多に出来ないフォーカードが出来上がっていた。
 素直にコールしようかと思ったが、こちらをにらみつけるような丹羽さんの表情にちょっといたずら心が湧いた。
 植田は50$の黒いチップを置いて「10$レイズ」と言った。
 まわりは植田が降りるだろうと思っていたらしく「オッ」という驚きの声が上がった。
 一番驚いていたのは丹羽さんだったようだ。目を見開いて植田を見つめた。それから、植田のアップカードを眺めた。
 怒ったように唇をきつく結んで「コール」と言った。
 それから伏せていた三枚のカードを開くと、10と7のフルハウスが出来ていた。
 どこからともなくため息がもれた。フラッシュというのは見せかけだったのだ。どうりで突っ張ってくるはずだ。
 彼女の自慢げな表情を見ながら、植田はゆっくりと三枚のカードをオープンした。
「ジャックのフォーカードですわ」
「冗談でしょ。あってもスペードのフラッシュくらいで、きっとハッタリだと思ったのに」
 力なく椅子に体を預けるようにして丹羽さんは言った。
「フォーカードなんて初めて見ましたよ」と研究生。
「やっぱ、鉄ちゃんが犯人なんじゃないのか。フォーカードを仕込めるくらいなら、アリバイトリックを使うのは簡単だろ」
 冗談めかした言い方だったが、マスターの目は笑っていなかった。

 

植田探偵役を志願する


 森村由美が明日はバイトに来られないというので、閉店後、皆で飲みに行くことになった。
 場所は四谷通りの坂道を上って、横道に入ったところにある小さな居酒屋だ。山村がよく来る店らしく、小ぎれいで雰囲気も値段も庶民的だった。
 とりあえずビールを頼んで、おしゃべりが始まると、当然のように松尾のことになる。
「殺人事件の発見者になるなんて、めったに経験できないわよね」
 由美の言葉に、植田はアルコールも入っていて、気が緩んでいたから、つい事件の目撃談が口をついた。
「ここだけの話だけど。あいつは変わった殺されかたをしていたんや。声をかけると返事がないから、仕事をさぼったんだろうなとは思ったんやけど、一応宮さんに頼まれていたから、部屋に入り、キッチンを見ると、あいつが裸で死んでいた。これが……」
 とここで、一呼吸置いて、皆の表情を眺めた。
 体を乗り出した由美が「それで」と催促するように言った。緑色の瞳が期待に輝いている。
「首の周りが紫色になって、なにか紐みたいなもので締められtようだったんや。ズバリ死因は絞殺やろな」
 植田の話にしばらく考えていた由美は、表情を曇らせながら、疑問をぶつけてきた。
「どうして松尾くんは全裸で殺されたんでしょうか」
「そりゃ、風呂場で女といちゃついていたんだろうさ。そこで痴話喧嘩が始まって……やつだな」
 山村が鼻で笑うように言った。
「山さんの推理は鋭いわ。犯人が死体につけたかもしれん指紋やなんやらを、浴槽で洗い流したかもしれへんし。となると犯人は女性やろ。事件の陰に女ありというし」
「あいつなら、ありえるな。犯人捜しはさぞかし大変だろう。容疑者が多くてさ」
「そうかしら。女性が松尾君みたいな男性を殺害するのは簡単とは思えないんだけど」
 男性二人の意見に由美は納得できないというように小首をかしげる。
 言われてみれば、優男とはいえ松尾も男だ。女性の手で殺害出来るだろうか。植田はあの時の場面を思い出してみた。
 首の周りに痣が出来ていたことからして、絞殺だったのだろう。警察は死因についてはなにも言っていなかった。自分の推理とかみ合わないところは無視することにした。
「まあ、犯人捜しは警察に任せておけばいいさ。こっちは高い税金払っているんだからさ」
 山村が興味をなくしたという表情で言った。
「そういうことや。飲もうやないの由美ちゃん」
 殺人事件みたいな辛気くさい話題よりも、由美と親しくなれるような明るい話題に切り替えようとした。事件の話は会話のつかみに利用しただけである。
 植田の言葉にハイボールのグラスを上げて「飲んでますよ」と言った由美だったが、浮かぬ表情だった。しばらくして手を打ち合わせると、二人の顔を見回すようにして尋ねてきた。
「ドラマだと、愛情のもつれみたいな動機を出しておいて、あとでひっくり返すという展開になるんだけど。現実は違うと思うんです。たしか植田さんは昔、殺人事件を解決したことがあったんでしょ」
 由美の言葉に、探偵話を自慢したことがあったなと植田は思い出していた。
「そんなこともあったけど、実際はさ、事件を解決しても苦い思い出しか残らないんだ」と、最近読んだミステリーの主人公を真似て、ハードボイルドふうに答えた。
「苦い思い出は、次には甘い思い出に変わるかもしれませんよ」
 笑いを隠すように下を向いて由美は言った。
「松尾はどうしようもないヤツだったが、うちの客と出来ていたり、うちの店が事件と関係していると、警察に嗅ぎ回られるのはちょっとまずいな」
 山村はグラスの氷を回しながら言った。何も考えていないようで、山村は店のことを心配していたのかと、植田はわずかだが感心した。
「店とは関係ないやろ。松尾は楽器をやっていたから、そっち方面のトラブルかもしれへんで」
 無責任に植田は言った。
「鉄ちゃんよ。松尾は楽器なんか弾けなかったはずだぞ。たしか宮のヤツにギターを教えてくれなんて頼んでいたことがあったからな」
「やっぱりアイツはナンパの小道具かなんかで、部屋にギターを置いていたんや。そういえば本棚にギターの入門書らしきものがあったわ」
「そんなところだろ。ミュージシャンと言っとけばモテるからな。それに松尾はうちには北山大学の三回生なんていっていたが、警察の調べによるとそれもウソだったようだ。まとまな職業にもつかずに、いろんなバイトをしていたらしい」
「変なバンドマンみたいに『ツー千円』みたいな言葉を遣って、なんかチャラチャラした人でしたよね」
 由美は両眉を上げ、軽蔑したように言った。松尾は由美をくどいたことがあったに違いない。そう思うと植田は、死んだ松尾に同情する気が薄らぐのだった。
「そんないいかげんなヤツだったけど、一緒に働いていたんやから事件を解決してやりたいわ」
 植田がいい人を装って、しんみりとした口調で言うと、由美は「仲間だったんだものね」とうなずいた。
 山村は口の端をゆがめて「そりゃそうだけど。俺たちに何が出来るんだ。そういうものはプロにまかせておけばいいんだよ」と醒めたように言った。
 由美の反応を確かめながら植田は、先ほど由美が言っていた『甘い味』というのは、自分と由美の関係をほのめかす言葉だったのかもと閃いた。となると、もう一度探偵をやるのも悪くない。植田はよっしゃ、やったろかいと、心の中で拳を突き上げた。

 

植田情報を収集する


 朝十時。植田は紅茶とトーストで朝食を済ませてから、交差点角にあるパチンコ屋に出かけた。
 器用貧乏な植田は、大負けしたことはないが、大きく勝つこともない。俗に「バネを切る」といわれる台を終了させることがたまにあるくらいだった。勝った時には換金せずにタバコと交換することにしていた。
 勝った玉は「ハイライト」や「ラーク」にしてもらい、バイト先で買い取ってもらっていた。そのほうが換金するよりも率が良いし、なにかパチプロになったような気分がしたからである。
 二軒あるパチンコ屋の片方は月曜日ということもあって休みだった。こういう日には少しは出玉が良いかと思うとそんなことはなかった。いつもよりも釘がきつい。
 噂によると、二軒のパチンコ屋は名前は違っても、経営者は同じだというのだ。まったく世の中は世知辛い。
 二百円ではじめると玉は調子よく小箱に貯まったものの、次第に無くなっていった。少し出ると、台の裏側で玉を補充する音がする。これが始まると、台が重くなって傾く、すると玉が役物に入らなくなる。そうやって出玉を調整するのである。
 そろそろ台を替わろうかなと思ったとき、ミネルヴァがこちらに歩いてくるのが見えた。つばの広い帽子をかぶった女性は珍しいから、実に目立つ。
 ミネルヴァは植田と目が合うと、猫のような足取りで近づいてきた。
「あなた、カジノで働いている人でしょ。ほら、全裸で殺されていたっていう、たしか秀ちゃんとかいう子。あんたのところで働いていたんだよね」
「まあ、そうやけど」
 植田は愛想のない返事をした。
「可哀想に、いい男だったのにね。あんまり女の子にもてるのも考えものだわ」
 しんみりとした口調に、植田は思わずミネルヴァのほうに顔を向けた。帽子の影になって彼女の表情はよくわからない。化粧では隠せない口元のほうれい線が見えただけだ。
 遊んでいたのに邪魔をする迷惑なお婆さんやな、といらだった植田だったが、頭を冷やして考え直した。松尾に関しての情報は些細なことでも、仕入れておくべきではないかと思ったからである。
「松尾はそんなにモテたんかい。具体的な話があったら教えてくれへん」
「そりゃあね、ギターとか音楽をやっているとモテるわよ。この間見たんだけど……」と、ミネルヴァは思わせぶりに、口を閉ざすと、間を置いた。
「世の中には情報料というものがあるでしょ。気持ちでいいからさ」と言いながら彼女はしなを作った。
 植田は小箱にあったパチンコ玉を片手ですくい上げると、ミネルヴァの小箱に流し込んだ。
「これで勘弁してや」と彼女に向かって両手を合わせる。
 彼女はぞっとするような流し目で植田を見た後に「しかたないわね。これで許してあげるわ」と言い、話を続ける。
「あれは一ヶ月ほど前だったかしら。お昼ご飯を食べてから、栄のほうに遊びに行ったら、あの若い子を見かけたのよ。そばに寄り添っていたのが三十代くらいの女。指輪はしていなかったけれど、あの雰囲気はどっかの人妻だわね。それも亭主はかなりの金持ち。でなかったらあんな高い服は着られないわ」
「それで、どんな女性だったんや、松尾と一緒だったというのは」
「バカな男だったら、美人とかいうかもしれないけど、たいした女じゃないわよ。あのケバイ化粧を落としたら、びっくりするわよ。そりゃ、痩せていてスタイルはちょっといいかもしれないけどさ」
 どうやら、スタイルは良くてかなり美人なのだろう。もっともミネルヴァはそんなことを認めたくないのだろうけど。
「それで、そのたいしたことがない女性と松尾はなにをやっていたんやろ」
「そりゃ、あのへんにあるホテルにでもしけ込むつもりだったんでしょうよ。あの女の腰辺りからそうした色気がムンムンと漂っていたんだから」
 どうやら松尾は、金のある人妻とつきあっていたらしい。
 植田は彼女に礼を言うと、パチンコを切り上げることにした。このままつきまとわれたらたまらない。
 暇つぶしに古本屋を覗こうと思いついた植田は、名古屋大学へと向かう登り坂を歩きながら、ミネルヴァの話を考えた。
 松尾に似つかわしくない高級アパートは女から援助してもらっていたに違いない。ニセ学生だったようだから、女にもそんなことを言って騙していたのだろう。あのギターだってその小道具のひとつだったわけだ。
 植田に東京に行ってホストになろうと誘ったのは、どういうことなのだろう。こちらで金持ちマダムのヒモでもやっていたほうが気楽な生活が出来たはずだろうに。なにか女でしくじって東京に逃げる事態になっていたのか、それともそんな生活に飽きたのか。
 それともう一つ気になることがあった。ミネルヴァと話をしたのは今日が初めてだったはずなのに、どうしてあんなに親密な態度をとってきたのだろう。今まで興味がない振りをして、実は自分に好意を抱いていたとかだったら——そう考えると全身に寒気が走る。
 古本屋で購入した白水社のシュルレアリスム小説『超男性』を喫茶店で読んで、時間を潰してから植田は店に出た。
 祭りが終わった反動なのか、客は少ない。ピンボールマシンでも磨くかと掃除道具を手に取った。
 死んだ松尾はこの器械が好きで時々仕事をさぼってはゲームをしていた。だからなのか、いつも器械を隅々まできれいに磨き上げていた。
 普段は拭かない器械の足の裏側まで拭くと、埃と一緒に白い毛が付いてきた。それは犬の毛に似ていた。ペットは出入り禁止だから、どうしてだろうと首をひねる。
 心の隅に何かが浮かんできたがわからない。気分を変えて松尾のことを考えることにした。
 ミネルヴァが教えてくれた女は誰なのだろう。この店で知り合ったのか。女性常連客の顔を何人か思い出したが、それらしい女性はいない。もっとも、植田と松尾はシフトが違うことが多かった。客として松尾と知り合ったのなら、植田が知らなくとも無理はない。
 カレーを仕込む良い匂いがカウンターのほうから漂ってくる。
 匂いにつられてカウンターに向かった植田は、料理中の山村に訊いてみた。
「山さん、松尾が女性と親しげに歩いているのをお客が見たらしいんやけど、心当たりはありますか。ブランドものの服を着た、痩せてスタイルの良い女性。たぶん三十歳前後くらいと思うんやけど」
「女ねえ」そう言うと、山村は眼鏡を外し、何かを思い出すような仕草をした。カレー鍋をかき回しながら山村は「そういえば」と話し出した。
「昼間の二時か三時頃かな。身なりのいいモデルのようなスタイルをした女がスロットをやっていたな。ヒマでしょうがないという雰囲気はあったから、その女かもな。松尾がチャラチャラと話しかけていたっけ。鉄ちゃんはシフトが違うから見ていないかも知れないけれど。それがどうしたんだ」
 どうやらその女性らしい。
「松尾のアパートに行ったら、けっこう良いところだったんで、アイツにそんな甲斐性はないだろうと。それで女にでもたかって部屋代くらいは出させていたんじゃないかなと考えてみたんですわ」
「そうか、ジゴロみたいな真似をしていたかもしれんな。松尾がやりそうなことだわ。なるほど、その女を犯人に仕立て上げようというわけか。鉄ちゃんも役者やのう」
「違いますって、松尾を殺したヤツをなんとか探してやりたいと思っているだけですって」
 大げさに手を振って否定した植田に、山村はとりあえずそうしておこうかというふうに目を細めて笑った。

「鉄ちゃん、今度は犯人をでっち上げる魂胆なんだってな。アリバイトリックに続いてご苦労なこった」
 マスターが言うと、隣に座っている丹羽さんが目を輝かせる。
「やっぱり狡賢い人だったのね」と漫才コンビのようにテンポ良く答えた。
 植田は弁解する気になれなかったので、常連客たちに例の女性について探りを入れることにした。
「殺された松尾には付き合っている女性がいたようなんですわ」
 女性の外見を説明しながら、カードを配る。
 テーブルの上を滑るように置かれたカードはきれいに半円型に揃えられていく。
「ついてないわ。最近はなにをやってもダメね」
 四枚目のカードでさっさと降りてしまった丹羽さんは、植田をうらめしげに見る。なにもかもが植田のせいということらしい。
「そういえば、高級ブランドのジャケットを着た女性を二度ほど見かけたわよ。あのスタイルを維持するには結構お金がかかっているでしょうね」
 高級ブランドと言われても、どんな服なのか想像も出来ないが、たぶんその女性に違いないと植田は思った。
「その女性はなにをしているんやろ。やっぱ専業主婦みたいなもんやろか」
 植田の疑問に、即座に丹羽さんの答えが返ってくる。
「あの雰囲気は働いたことがなさそうだったわね。体の線から子供を産んだようには見えなかったし」
「昔でいうお妾さんっていうやつだろう。松尾は彼女の若いツバメというわけさ」
 マスターがコールしながら言った。
「彼は全裸で死んでいたんでしょ。やっぱり動機は愛情のもつれというやつかしら」
 丹羽さんがほんのりと頬を赤く染めて言った。
 どうして松尾が全裸で殺害されていたことを皆が知っているんだろうと疑問に思った。どうせ山村から聞き込んだのだろう。
 どうやら自分のいないところで、ずいぶんと話のネタにされているようだと思うと、植田の顔に苦笑いが浮かぶ。

 バイトからの帰り道、植田は本山交差点にある古本屋に立ち寄った。
 店先の均一本コーナーに早川書房の銀背・金背と呼ばれるSF本が並んでいた。この手のものが出るのは珍しい。ブラッドベリの「刺青の男」などが手に入ったので、思わず頬が緩んだ。
 アパートに戻った植田は、さっそく『刺青の男』を読むことにした。男に彫られた刺青が動き出し、それぞれの物語を始める、という短篇集だ。
 読み終わったあと、全身に彫られた刺青というところに、何かひっかかるものを感じた。万年床に体を横たえて、目を瞑って考えに集中した。刺青——そこにヒントが隠されている気がする。
 死体を発見した状況を思い出していると、閃いた。ピアスだ。
 松尾は男のくせに、しゃれたピアスを耳につけていた。犯人はそのピアスを殺害後に取っていったのではないか。ピアスは松尾とつきあっていた人妻ふうの女が買い与えたもので、それを手がかりに自分の正体がバレると思い込んだ。
 自分の推理が正しいのかどうか、わからないが、明日にでも、客の誰かにピアスのことを尋ねてみようと考えた。

 次の日、植田がカウンター内でコーヒーを淹れていると、丹羽さんがスツールに座りホットミルクを注文してきた。ミルクというのはメニューにはないのだが、常連には最大限のサービスをするのがここのモットーである。
 鍋でミルクを温めながら、ピアスのことを聞いてみた。
「ネジで留める方法もあるけど、今なら耳たぶに穴を開けるのが普通でしょうね。どうしたの、鉄ちゃんもピアスをする気になったわけ」
 からかうように丹羽さんは言った。植田はしばらく考えてから、自分の推理を話すことにした。
「あの子がおしゃれなピアスをしている、と思ったことがあるけど、本物ならばけっこうな額がするんじゃない。まあバイト学生には無理かもしれないわね」
「そっか、現場で見たときにはびっくりして、耳にピアスがあったかどうかも思い出せへんわ」
 そういえば、耳の辺りに虫に刺された痕のようなものがあったと、植田は思い出していた。ピアスは松尾が買えるような安物ではなかったようだ。となるとやはり女の貢ぎものだったのだろう。一度、警察にピアスがどうだったのか確認する必要がある。
 都合よく山村から買い物を頼まれたので、外に出たついでに警察に連絡をすることにした。
 交差点の角にある公衆電話から刑事の田丸にピアスの件を聞いてみた。なにかあったら電話するように彼から名刺をもらっていたのである。
 夜の八時過ぎだというのに、田丸は在席していた。最初は渋っていたが、こちらの情報提供の見返りということで、松尾のピアスのことを教えてくれた。
 松尾の両耳にピアスの穴は開いていたが、ピアスは残っていなかったと返事があった。植田は見返りとして、ピアスについての情報と自分の推理を話すと、田丸の受け答えは先ほどとは違って熱がこもっていた。
 植田は電話を切って、電話ボックスから出た。自分の情報に警察が食いついてきたことからして、捜査は難航しているようだ。国家権力に協力したのは気分が悪いが、こちらも警察を使って、事件を解決して嘲笑ってやるわ、とにんまりと笑った。

 思考というのはいったん頭から離れても、無意識というのか、頭の片隅で働いていて、解答が出ると閃きという形で頭に浮かぶらしい。
 そんなことを植田が思ったのは、暇つぶしにテレビドラマを見ていたときだった。チンピラやくざ役の男が、女性の名前を入れた刺青を見せる場面で閃いたのである。
 松尾の体に、つきあっていた女の名前が刺青として彫られていたのではないか。殺害後に警察が死体を解剖すれば、刺青から自分の名前がわかってしまう。だからこそ、犯人は松尾を全裸にしてその痕跡を探すなり、消すなりしないといけなかったのだろう。
 松尾が全裸にされていた理由を解決出来たからか、狭い六畳の部屋に光が差して輝いているように見えた。植田は本当に探偵になろうかと思ったほどだ。

植田女を探す

 植田がいつものように制服に着替え終えると、宮本が植田に向かって手招きした。
「明日の午後から松尾の親御さんが出てきて、アパートの荷物を整理するというから、鉄ちゃん手伝ってやってくれないか」
「いいですよ。松尾の遺体を見つけたのも何かの縁やし」
「じゃあ明日の一時くらいにあのアパートに行ってくれ。かかった時間はバイト代で払うからよ」
 松尾の部屋に入って、例の女性の情報がないか調べてみたいと思っていたから、ちょうどいい。植田は満面の笑みで頷いた。

 ジーンズにコットンシャツという服装の植田は、タオルと軍手を用意した。それから、松尾が住んでいたアパートに向かった。
 死体を発見した時、部屋の前に張られた黄色い規制線はなくなっていた。
 ドアから顔を出して「こんにちは」と声をかけた。
 奥から出てきたのは五十歳近い中年女性だった。所帯やつれはしているが、整った顔立ちに松尾の面影がある。
 女性は松尾の母親なのだろうと「このたびは松尾くんが大変なことになって、一緒にバイトをしていた植田といいます」と頭を下げた。
「あなたが植田さん。秀樹が大変お世話になって」
 母親は両手を膝に当てると深々とお辞儀をした。顔色は青白く、それが哀愁を帯びて見える。
 植田は彼女のあとをついて部屋に入った。
 段ボール箱がいくつも置いてあり、服や日用品などが種類別に分けられていた。家電品は冷蔵庫などの重いものと、電子レンジや炊飯器などの軽いものに分離してあった。
 彼女の説明によると、実家で使えるものは宅配便で家に送り、不要な物はリサイクルショップに売るか、ゴミとして処分するということだった。
 松尾みたいな若い男の一人暮らしにしては、最新の家電品が揃っている。電子レンジとか炊飯器があれば、外食せずに食費が抑えられそうだ。特に保温ができる電気炊飯器は便利そうで、昔は電気釜とか言っていた頃とは別物らしい。植田は物欲しげに家電品を眺めた。その時、頭の片隅にもやもやとしたものが浮かんだ。なんやろうと、植田が考えに集中しようとした時だった。
「このあたりではゴミの出し方はどうするんです」
 母親が尋ねてきた。
「それやったら、俺がやったるわ。地元の民じゃないと無理やで」
 いい人を気取って安請け合いをした植田だったが、先ほどの思いつきは脳裏から消えてしまった。
 ゴミの出し方は地元の植田のほうが詳しい。ゴミ袋に名前を書くペンを探したが、部屋には見当たらなかった。母親に聞いてもわからない。外で筆記具を買ってくることにした。
 母親からリサイクルショップを探してくれと頼まれた。そこで、植田はアパートから出ると、公衆電話の電話帳から適当に選んだリサイクルショップに電話をした。そのあと、家に送る段ボール箱を宅配便取扱店まで三往復して運んだ。
 流れる汗をタオルで拭きながら、植田は安請け合いしたことを後悔した。同じバイトなら冷房の効いたカジノ店で働いたほうがよかったと思ったからだ。
 部屋はきれいに片付けられ、残りは掃除をするくらいだ。彼女は腰を軽く叩いたあと「これはなんでしょうか」と、押し入れから重そうな紙袋を取り出した。
 興味を惹かれた植田は、袋のなかをのぞき込んだ。ワープロ専用機だった。去年出たばかりのまだ新しいものだ。植田は前からこの手のものが欲しくてカタログを集めていたので、すぐにわかったのである。
「新型のワープロやわ。この機種はアウトラインフォントといって、すごくきれいな文字が印刷出来るんで、人気があるヤツや」
「秀樹がこんなものを持っていたなんて、ずいぶんと高いものなんでしょ」
「中古とかで買えば、それほどでもないけどな。なにしろ毎年新しい機種が出るから、型落ちするとすぐに安くなるんですわ」
 どうせ女にワープロを貢がせたのだろうとは思ったが、それは口には出さないでおいた。
 好奇心に負けた植田は紙袋からワープロ本体とフロッピーディスクの入った紙箱などを取り出して、じっくりと品定めをした。
 ふと、視線を感じた植田が横を見ると、松尾の母親が自分を見ている。植田は恥ずかしかった。盗み食いを見つけられた子供の心境だった。
「よかったら、その機械使ってもらえませんか。私には難しすぎて使いこなせないし、秀樹の形見分けということで」
「そりゃ大助かりや、前から欲しくてしょうがなかったんですわ」
 うれしさのあまり、本音がダダ漏れになった植田は破顔して言った。
 リサイクルショップの店員が来たので、植田も手伝ってトラックに本棚やガラスのテーブルなどを運び込む。
 あのギターも引き取ってもらった。由美が言ったようにインテリアとして使っていたようだ。練習した様子もないほどきれいだったし、未使用に近い専用のスタンドまでついていたからである。
 すっきりした部屋を掃除して、ゴミとして捨てるものを、外に出した。ゴミ袋には植田が買ってきたマジックインキで記名した。指定日に植田が処分すればこれで片付く。
 別れ際、植田はふと思いついて母親に、松尾が使っていた住所録はなかったか尋ねてみた。
「警察のかたに住所録を預かっているといわれたので、事件が解決しないと返ってこないと思うんです」
 母親は申し訳なさそうに答えた。
 部屋を捜索したときに押収して行ったのだ。ということは、住所録からは手がかりがなかったということになる。
 植田は両手に紙袋を抱え、部屋の外で松尾の母親と別れた。

 部屋に帰った植田はすぐにワープロの電源を入れた。画面にはなにも文章は表示されなかった。いわゆる初期画面というやつだ。
 植田は一本指でキーを探しながら自分の名前を入力した。変換候補から正しいものを選択して、名前が表示されると、思わず感嘆の声が漏れる。
 字が汚いことがちょっとしたコンプレックスだったから、ワープロには興味があったのだ。これなら小説の新人賞にも応募できる。植田はわきあがる野望に両手をハエのようにこすり合わせて喜んだ。小説家に手が届いたような気分になる。
 ワープロに慣れるために、短編小説でも書いてみようと三行ほど思いつきで書いてみたが、横書きは雰囲気が出ない。縦書きの原稿用紙設定が出来ると気分が盛り上がるのにと考え、取扱説明書を読むことにした。
 たしか紙袋に入っていたはずと探すと、分厚い取説を見つけた。他にも拡張機能用のフロッピーディスクと一緒にタイトルのないディスクが入っている。
 書いたものはディスクに保存しないといけないはず、それならこれを使うかと差し込んで保存をした。いっぱしのワープロ使いになったような気になった植田は、ディスクに入っている他のファイル名を眺めた。
 他人の秘密をのぞき込むようなひりひりする喜びとともに、わずかな罪悪感もある。
 そのなかに住所録があった。ファイルを開くと、ずらりと女の名前が載っている。電話番号と住所が書いてあるものと、名前だけのものがある。だが、松尾と浮気を楽しんでいるだけなら、自分の住所を教えるような不用心なことはしないはずだ。
 となると、名前だけの女性があやしい。しかし、これだけの情報ではどうしようもない。他に情報はないかと、もう一枚のディスクを取り出した。『図形』と印刷されたラベルが貼ってある。
 差し込むと、ファイル名が表示された。
 ファイルに「タトゥー3」という名前を見つけたので開いてみる。
 図形らしものが表示された。それは鏡文字になっていて『絵里』の文字が反転されていた。
 そうだったのかと閃いた。シールだ。松尾の部屋を訪れたときに見た表札が頭に浮かんだ。活字のようにきれいな字だと思ったが、あれは名前を印刷したシールを貼っていたのだ。
 文字を専用のシールに印刷して鏡文字をそのまま体に貼り付けたのかもしれない。そうすれば、お手軽に刺青を入れたように見せることが出来るし、必要がなくなったら拭き落とせばいい。そんなに大きいものではないから、服で隠せる。
 刺青はタトゥーと呼ばれ出してからファッションとして認められてはいるが、まだまだそうしたものへの世間の抵抗は強い。
 いくつもファイルがあることからして、違う女にも同じ手口を使ったのだろう。
 自分の名前を彼氏が刺青していたら、喜ぶ女もいるはずだ。その意味ではなかなかうまい方法といえる。
 ファイルの作成日からすると『絵里』という図形が一番新しい。この絵里という名前の女性が松尾の彼女に違いない。
 住所録を調べると、黒河絵里という名前があった。
 なおもファイルを漁っていると『暗号』と書いてあるものを見つけた。
 関係していた女を暗号でも使って詳細に記入しているのかと思うと、隠微な期待に心が躍る。
 目に飛び込んできたのは名前とその横に書かれた記号だった。
「絵里 ZGDNACCC**」
 画面を見ながら植田は首を捻った。アルファベットはどんな意味があるのだろう。記号の並びを眺めていて、電話番号の暗号ではないかと思いついた。
 記号の数が十一というのは名古屋市の電話番号に一致するからだ。例えば名古屋市役所の電話番号は「052-961-1111」である。
 となると、アルファベットと数字の対応がわかれば、解読出来るはずだ。松尾が難解な暗号を使用するとも思えない。
 そこまで考えているうちにバイトの時間が迫ってきた。

 

植田暗号を解読する


 植田は頭を冴えさせるために、コーヒーを淹れた。それからメモ帳を開いて、控えておいた暗号を眺めた。最初の三桁は名古屋市内を表す「052」と考えるのが普通だ。すると「Z」は「0」「G」は「5」「D」は「2」ということになる。
 そこまではいいが、後が続かない。松尾が適当に数字をアルファベットに置き換えたのかもしれないが、いざ電話をするときに簡単に思い出せるだろうか。
 店にある電話帳から「黒河絵里」という名前を調べたが、該当者はなかった。黒河姓に片っ端から電話をするような気力はない。
 結局バイト中には答えを導き出せなかった。
 植田は休憩中に店を抜け出し、古本屋に向かった。暗号について解説してある本でも立ち読みして、暗号解読の参考にしようと考えたからだ。
 均一本コーナーで古い岩波文庫を漁っていると、裏の見返しに鉛筆で「コ」と書いてある。そういえば、古本屋は仕入れ値を符丁で書いておく、と植田は聞いたことがある。
 符丁で書くことで仕入れ値がいくらだったか思い出せるし、客に知られることもないというわけだ。古本屋は客から安く買い、それを高く売って、差額で儲けるわけだから、客に仕入れ値がわかってしまうと、嫌な気分にさせてしまう。
 植田はそこまで考えて、文庫本をまじまじと見つめた。松尾の暗号は符丁の一種ではないのか。
 問題は松尾が使った符丁はなんだったのか。植田は古本屋に入って、国語辞典を開くと「符丁」の項目を探した。
 辞典によると、様々な業界で符丁は使われているようだ。
 そこまで調べてから植田は店に戻った。
 バイト中も頭の片隅に符丁の問題が浮かんでは消えた。
「鉄ちゃん、暗い顔をしているけど、明日は由美ちゃんが来るから、ちょっと気合いを入れて仕事をやってちょ」
 山村がにやついた顔で、植田に話しかけてきた。
「ほんまかいな。やっぱ職場は華やかじゃないとあかんな」と植田は表情を明るくする。
 店の入り口付近に円形のクレーンゲームが置いてある。一回百円で、中央に付いた金属製のアームを動かして景品を落として入手するというものだ。
 景品はコインが入ったケースやパチもののライターや時計が入っている。簡単に取れそうなイメージがあるが、景品と一緒に重しが入っていて、絶妙なバランスで落ちないように設定されている。
 客がいないときや閉店時に、景品の位置や重しを色々と試している山村の姿を植田は見たことがある。彼はそれが楽しみで働いているようにも思えた。
 クレーンゲーム機のガラスを曇りなく拭くのは植田の愉しみの一つであった。山村が今日はどう景品を配置したのか、どの景品がなくなっているのか、そんなことを思い浮かべながら、掃除するのが仕事の癒しだった。
 いつもよりも丁寧にガラスケースを磨いているうちに、由美との飲み会での一場面が蘇った。たしか「バンドマンみたいにツー千円」みたいなことを言っていたと話していた。
 そうか——解答が閃いた植田はケースを叩きそうになった。松尾の符丁はミュージシャンが使うものではないか。

 バイトを終えた植田は、公衆電話から友人の上前津に電話を掛けた。彼はサブカルに詳しいし、ドロップアウトした植田と違い、大学院へと進んでいるから、調べる伝手もあるだろう。
 深夜の十一時だったが、上前津は家にいた。無愛想な声で電話に出た。
 植田がミュージシャンの符丁について調べてくれと言うと「また、おかしなことに首を突っ込んでいるじゃないでしょうね」と呆れたように返事をした。
「ちゃうちゃう。小説のネタにしようと思ってな。そっち方面に詳しそうなカミに訊いてみたんや」
「久しぶりの頼みですから、知り合いに訊いてみます。分かり次第、電話しますから」
 積極的ではないものの、上前津が引き受けてくれたことで植田はホッとした。
 朝方、植田が寝ていると、部屋の前に置いてある公衆電話が鳴った。パジャマ姿で植田が電話に出ると、上前津からの電話だった。
 符丁がわかったというので、植田は礼を兼ねて、上前津に昼食を奢ることにする。
 待ち合わせは中城大学付近のファストフードだった。
 一年ぶりに見る上前津は相変わらず黒ずくめの服装だった。二人で雑談をしながらハンバーガーを食べたあとに、上前津から渡されたメモを見た植田は「やっぱりな」と喜んだ。

 音階の ド(C)、レ(D)、ミ(E)、ファ(F)、ソ(G)、ラ(A)、シ(B)、 を一から七までに当てはめ。八はオクターブ(O)8番目の音から。九はナインス(N)9番目の音から。最後のゼロは記載がなかったが、ZEROから(Z)なのだろう。
 読み方は一から順に、ツェー、 デー、 イー(エー)、 エフ、 ゲー、 アー、 ハー、 オクターブ、 ナインス となる。由美が言っていた「ツー千円」は二千円のことだったのである。
 あとはアルファベットを数字に当てはめていけばいい。
 上前津は植田のメモを覗き込んで「それは暗号なんですか」と興味ありげな口調で尋ねてきた。
 相変わらず鋭いヤツやと植田は顔をあげ、上前津の表情を伺った。殺人事件のことを話すべきかどうか迷ったが、事件を解決してから、教えてやればいいやんと思いついた。それなら自慢出来る。
 松尾がミュージシャンの符丁を使ったのは、そうした職業に密かな憧れがあったのかもしれない。そう思うと、少し可哀想になり、植田の足取りが重くなる。

 女性の目星はついた。問題はそれをどうするかだ。警察にこの情報を伝える気にはなれなかった。
 田丸刑事に連絡すれば、彼女のことはすぐに裏が取れるだろう。だが、自分の手で知りたかった。それは安っぽい功名心かもしれない。
 どうしようか考えて、絵里という女性に会ってみることにした。ここまできたら、最後までやり遂げたい、そんな気持ちだったのである。
 山村によると、午後二時から三時頃、その女性が店に来たと言っていた。つまり旦那が働いている時間に暇を持て余しているわけだ。そこで、午後二時に公衆電話から電話をすることにした。
 暗号を解読した電話番号にかけると「もしもし」と若い女性の声がした。手応えを感じた植田は「黒河絵里さんですか。松尾のことですが」とハッタリをかませる。
「えっ」という声がした。それからつばを飲み込むような音がして「どなたです」とうわずった声で訊いてきた。
「亡くなった松尾秀樹の友人です。彼が殺されたことはご存じですよね」
「どうして、松尾を知っているんですか」
「以前、彼にあなたのことを聞かされていたんですよ」
 もちろん嘘だが、彼女にそれがわかるわけもない。
 黒河絵里に、明日の午後カジノに来るように伝えた。場所は当然知っているはずだ。それが証拠に彼女は場所を訊いてこなかった。
 彼女からはっきりとした返事はなかったが、植田は電話を切った。わざと標準語を使ったから、自分とはわからないだろう。彼女に何も後ろめたいことがなければ、無視すればいいだけのことである。

 バイトに行く前に片付ける用事が一つあった。松尾の母親から頼まれていた、不要な本の処分だ。
 本は松尾のアパートの前に置きっ放しにしていた。
 紐で縛り上げた本のタイトルを見渡しても、古本屋に売れそうな物はない。
 一冊だけ書店のカバーがしてある単行本があった。なんかあやしい、人に見せられない本かもしれないと、期待を持って調べると檀一雄の『火宅の人』だった。去年ちょっと話題になった本だ。
 松尾が小説なんかを読んだとも思えないが、どうせ女性との話題作りに利用したのだろう。小説をナンパの道具にしやがって——そんなことを考えているうちに、あることを思いついた。

植田いつものように罠を張る


 午後二時に店のドアが開き、彼女は現れた。
 コットンのブラウスに細身のジーンズを履いていた。表情は暗く、落ち着きのない視線であたりを見回している。
 法廷に引きずり出された被疑者といったところだ。
 彼女に見覚えはないが、スタイルが良く、きれいな顔立ちをしていた。歳は二十代後半といったところか。どことなく松尾の母親に雰囲気が似ている。
 カウンター席に座ってもらい、植田は厨房のなかでコーヒーを作り、彼女に出した。
 それから自分の推理を話した。
 絵里は黙ったまま、植田の話を聞いていた。それからハンドバッグからタバコを取り出した。細長いジョーカーにダンヒルの女性用ライターで火を点けた。
 いつの間にか宮本が近くに来て、つまんねえことやってやがんなという表情で聞き耳を立てている。
「話はわかりました。だけど、全部あなたの想像だけでしょ。何か証拠でもあるんですか? あなたは言いがかりをつけて脅迫するつもりなんでしょ」
 植田の視線をそらすようにタバコを灰皿に置くと彼女は答えた。
 素直に話してくれればこんなことはしないつもりだったが、しかたない。
 植田はビニール袋に包んだ「火宅の人」を取り出した。
「あんたは犯行を終えて、部屋にある自分の指紋を消したんやろうけど、この本に付いている指紋は忘れているんとちゃう。俺の考えだとこの本はあんたのもんやろ。松尾は小説は読まへんし。このカバーは栄にある丸善のもの。本屋で松尾と待ち合わせたときに買ったんやろな。この本が松尾の本棚にあったことは母親が確認しているから、いざとなったら証言してもらえるで」
 そう言って、植田はビニール袋から単行本を取り出して、彼女の目の前に置いた。
 本を見たとたん絵里は、ひったくるように本を取ると、必死になって自分の指紋を付けるためか、ページをめくり、べたべたと触りまくった。今までのクールな姿とは違う取り乱した様子に植田は落胆した。彼女が隠していた部分をのぞき見してしまった気分になったからだ。
「どう。これで証拠はなくなったでしょ。ここで指紋が付いたと言えばいいんだから」
 声を荒くしながら、絵理は植田をにらみつけた。
「そんな必死になったら、自分の罪を認めたみたいなもんでっせ。悪いけどそれは罠や」
 植田は突き放すような口調で言うと、わざとらしく軍手を両手に嵌め、カウンターの下からもう一冊本を取り出した。
「こっちが本物や。後ろの見返しに『絵理から 松尾秀樹』と汚い字で書いてあるやろ」と絵理に見せつけるようにページを開いた。続けて「あんたとつきあっていた証拠にしようとして、わざと取っておいたのかもしれへんな」と付け加える。
 植田の言葉に絵理の視線は真偽を確かめるかのように松尾の文字に注がれている。
 いくら睨んでも、本物かどうかはわからへんやろ——植田は自信があった。悪筆な人間はめったなことでは他人に自筆を見せない。松尾がワープロを使ったり、部屋に筆記具がなかったのもそのためだ。自分がそうだから、気持ちは痛いほどわかる。
「でも、そんなことは秀樹とつきあっていたという証明にはなっても、殺した証拠にはならないでしょ」
 居直ったように言う絵理に、植田は次の手を繰り出した。
「少なくとも、松尾のピアスを取ったのは、あんたに間違いないやろ。そんなことをする動機を持っているのは一人しかいないんやから」
「ピアスがどうしたって言うのよ。さっきからへんな言いがかりばかりつけて。あれは秀樹が死ぬ前に返してもらったの。それにどうやってこんな細い腕で男の首を絞殺できるのよ」
 絵里はきつい口調で言うと、膝に抱えていたバッグの革紐を両手で握り、植田の前でピーンと張った。
 予期せぬ反撃に植田は体を仰け反らせると、顔の前に手をかざし、防御姿勢を取った。それから気持ちを落ち着かせるように深呼吸をすると、何かを思いついたのか目を輝かせる。
「俺が松尾の死体を発見したとき、たしかに首の周りが青紫色になっていたんや。だから細い紐みたいなもので締められたのかと考えたんやけど。あんさん、どうしてそれを知っている。新聞やテレビで死因は絞殺くらいの情報はやっていたかもしらんけど、凶器が紐みたいなものというのは現場にいないとわからへんで。これは警察がよく言う『犯人しか知らない秘密の暴露』というやつやな」
 したり顔で言った植田は、フォーカードで勝ったときの高揚感を味わっていた。
 彼女は腰を引いてから、ドアのほうに視線を向けた。その先には宮本がいる。観念したのか、それとも逃げるのが無理だと思ったのか、絵里は重い口を開いた。
「秀樹のところに遊びに行くと、部屋の中で死んでいたんです。すぐに逃げようと思ったんですが、買ってあげた揃のピアスを思い出し、それを外しているうちに私の名前が太もものあたりに刺青されていることを思い出して……服を脱がして刺青を探したんですけど、不思議なことに消えていたんです。記憶違いかと全身を調べたんですけどなかったんです。でも、信じてください。私が殺したんじゃありません。だいたい、わたしが秀樹を殺す動機がないじゃないですか」
 彼女の態度からは嘘は感じられなかった。表情からは迷いが消え女性としての威厳を取り戻していた。
「動機かい。それはあいつに脅迫されていたとか、愛情のもつれとか、色々と考えられるわな」
 違うやろなと思いながら、癪に障った植田は言ってみた。
「たしかに秀樹は浮気っぽいところがありました。それは否定しません。あの刺青だって、あとで調べたらあれは彫ったものではなくて、どうやらシールみたいなものを使えばそれらしいものが出来るらしいんです。だから、すぐに服を着て隠したんでしょうね。おまえのために痛い思いをして刺青を入れたなんて嘘だったんです」
 彼女はため息まじりに言うと、灰皿に置きっぱなしだったタバコの火を消した。白く細い指先はきれいにマニキュアされている。
「ぶっちゃけて言うと。松尾のワープロにデータが残っていたから、あんたの推理は当たっていると思うわ」
 植田は自分のカップにコーヒーを注ぎながら言った。
「だけどよ、そんな面倒なことをしても、住所録や電話帳にあんたの名前があったら、意味ないんじゃないか」
 いままで黙っていた宮本が彼女に顔を向けると、尋ねた。
「本棚に置いてある住所録を手に取ったら、わたしだとわかるようなものは書いてなかったので、そのままにしておいたんです」
「他の女性に見られてもいいように住所録はダミーで、実際に使う電話番号なんかはワープロで管理していたんですわ。裏帳簿ならぬ裏住所録ってわけや。お袋さんがわいにワープロをプレゼントしてくれなかったら、闇に葬られていたということやな。悪いことは出来へんもんや」
 植田は松尾のワープロを入手したいきさつとデータを閲覧した事情を詳しく二人に説明した。二人は聞き終わったあとに、なるほどと頷いた。
「鉄ちゃんよ。おまえは大学で法律を学んでいるんだろ。彼女が殺したわけではなくて、ピアスを取り戻しただけならどういった罪になるんだ」
 宮本が植田に尋ねてきた。
「それだと、窃盗くらいやわ。それにプレゼントしたピアスだったら、お袋さんにでも了解を得て、被害届を出さないように言えば、それまでやろ」
「そうだったら。彼女の話を信じてやれば、それでいいじゃないか。松尾だって彼女をさんざん食い物にしてきたんだろ。俺はさ。女をだましたり、いじめたりするヤツが大嫌いなんだ」
 宮本の表情は真剣そのものだった。巨人の長嶋が最終回に打席に立ったときの観客といえばわかってもらえるだろう。
「それはかまへんけど、そうなると誰が松尾を殺したんやろ」
「俺は裁判官でも刑事でもないから、そんなことに興味はねえよ。それよりもあんた、もう帰ったらどうだい。こいつには俺からよく言い聞かせておくからさ」
「はい。ありがとうございました。ここに来て悩みが解決してスッキリしました。毎晩嫌な夢を見ていたんですけど、今日は気持ちよく寝られる気がします」
「俺はいつでも女の味方だからよ。なんかあったらまた来てくれたら相談に乗るぜ」
 宮本は親しみのある表情で、絵里に向かって親指を立てた。。
 絵里は植田と宮本の表情を交互に見ながら席を立った。硬かった体から緊張は消え、しなやかな肢体が戻っている。
 彼女の視線がビニール袋に入れられた単行本に向けられた。
 それに気がついたのか、宮本は植田のほうにアゴを突き出した。
「欲しいなら渡すけど、後ろの署名は俺が書いたものやさかい、勘弁したってや」
 照れ笑いを浮かべながら植田はビニール袋から本を取り出した。
「ハッタリだったんですね。松尾の手書きを知らなかったし、住所録でチラッと見た字は印刷されたものだったので、本当かもと思ったんだけど」
 手渡された本の遊び紙を眺めながら、とがめるような口調で絵里が言った。横から宮本が「おかしな小細工しやがって」と言い、嫌悪感を顔にみなぎらせている。
 女性と二人きりで会うのはおかしな誤解を招くと思い、店で待ち合わせをしたのだが、宮本がからんでくるのは計算外だった。
 絵里は頃合いだと考えたのか、本をバッグに入れると、植田たちに頭を下げた。
「へんな男にだまされるなよ」
 宮本が手を振って絵里を送り出した。
 絵理がドアから出て行くと、宮本は植田のほうに向き返り「鉄ちゃんは頭も学もあるんだからよ。せこいまねをしないで、その才能をまともなところに使ったほうがいいんじゃないか」と諭すように言った。
 事務所へと消えた宮本の後ろ姿を眺めながら、植田の気持ちは重く沈んでいった。

 

植田閃く


 植田が本山交差点で信号待ちをしていると、東のほうからミネルヴァ婆さんが歩いてくるのに気がついた。派手なドレス姿だからすぐにわかる。
 夕暮れの街を歩くミネルヴァは松尾が評したように西洋の魔女そっくりだった。これで黒猫でも一緒だったら完璧だ。
 ミネルヴァは独り暮らしで安アパートに住んでいると聞いたことがある。だからこそペットを飼って寂しさを紛らわせているのだろう。
 そういえば最近白い犬を連れていない、植田はふいに思いついた。
 交差点を覚王山のほうに歩くと、ちいさな商店街があって、そこにペットショップがある。植田が暮らすアパートの大家が趣味でやっている店だ。
 店の玄関がガラス戸になっているので、なかにいる犬たちを見ることが出来る。ゲージにはミネルヴァが飼っていた犬に似た小型犬もいる。
 ひょっとしたらミネルヴァはここで犬を買ったのかもしれない。
 店構えはペットショップというよりも民家を改造して店にしたというふうだ。外から覗くと、品の良い中年女性、水沢明子が店番をしている。
 植田はガラス戸を開けて店に入った。とたんに犬の臭いが鼻につく。
「あら、いらっしゃい」
 ゲージのなかを掃除していた水沢が優しい笑顔を向けてきた。
 美人だから四十歳くらいに見えるが、実際は五十五歳と本人が話していた。
「いつも遅れてすいません。とりあえず二ヶ月分だけ持ってきましたわ」
 植田は殊勝な態度で家賃が入った封筒を差し出した。今日はバイト代が入る日だったのだ。普通は家賃を振り込むのだが、滞納したときだけ、大家に直接渡すことにしていた。そうやって貧乏な若者を演出しているのである。
「お茶でもいれるから、そこに座っていて」
 玄関は六畳くらいの土間になっていて、少し高くなった場所が居間になっている。畳の端に腰を掛けて、店内を見回した。
 壁に申し訳程度のペットグッズが掛けてあった。犬用の服とか、ペットに着けるリード紐があったが、意外と金額が張る。金持ちは値段も見ないで購入するんだろうと思うと、スーパーの値引き品を買っている自分が情けなくなる。
 彼女が奥からお茶を乗せたお盆を持ってきた。ずいぶんと気さくな人だ。
 しばらく世間話をしたあとに植田は気になっていることを尋ねた。
「ここで白くて小さな犬を買った女性はいませんでしたか。ドレスを着た肩幅の広いお婆さんなんやけど」
「ひょっとして魔女ふうのお婆さんかしら」
「そうやわ。バイト先によく遊びに来るミネルヴァって名乗っている人やけど。最近犬を散歩させていないからどうしたのかなって」
「名前は徳村美祢さんというのだけど、それで『ミネルヴァ』なのね。それが、ひどい話なのよ。あんなに可愛がっていたポメラニアンなのに、少し前に死んでしまったのよ」
 彼女はそこで話を区切ると、悲しそうな表情になった。
「徳村さんがここを訪ねてきて、そこで聞いた話なんだけど。亡くなった理由が病気とか事故じゃなくて、殺されたようなの。まったく、ひどいことをする人もいるもんだわね」
「ホンマかいな」
 植田は身を乗り出して尋ねた。ミネルヴァの本名は徳村美祢というらしい。それなら納得出来る。
「頭に靴の跡があったというから、蹴り殺されたんじゃないかと怒っていたんだけど、警察に行ったら犬を殺しても器物損壊罪とか動物愛護法違反にしかならないらしくて、ここで三十分ほど、目を真っ赤にして泣いていたのよ。犬といっても大事な家族なのに……」
「ひどいヤツがいるもんや。刑法は人の心まで踏み込んで判断せえへんからな。やったヤツも同じように蹴られたら痛みがわかるんやろけど」
 水沢に同情するように植田は言ったあと、脳の片隅で火花が散った。
「そうや。徳村さんがヤケを起こしたりしたらいかんから、様子を見に行ってやりたいんやけど、どこに住んでいるんやろ」
「たしか、近くにある『希望荘』だと話していたわね。場所は……」
 植田は必要な情報を得たので、「残りの家賃はまたバイト代で払いますんで」と言って、店を出た。
 植田は水沢に教えてもらったミネルヴァのアパートに向かった。大通りを東山動物園のほうにしばらく歩くと、小学校が見えてくる。その裏側にアパートはあった。
 貧乏学生が住んでいそうな木造の安っぽいところだった。希望荘という名前が皮肉に見える。ここを出て行く人だけが希望を持てるに違いない。
 ブロック塀には「入居者募集」とあるから、誰何されたときには住むアパートを探していると嘘をつけばいい。
 アパートを下見しているふりをしながら、ミネルヴァの部屋を探す。それは一階の端にあった。繊細な筆使いで「徳村美祢」と表札が出ている。水沢の話は本当だった。
 玄関はきれいに掃除されて、横には鉢植えが置かれていた。女性らしい気配りがある。部屋には明かりがついているから、徳村は帰っているようだ。
 今日はこのまま退散しようと思ったときに、場違いな匂いに気がついた。それは線香の香りに似ている。
 匂いがするほうに足を向けると、庭の隅に花壇があって、きれいな花が植えられている。その間にこんもりとした盛り土があって、そこに線香の燃えかすがあった。
 これは犬の墓だ。
 その瞬間、植田の頭に過去の出来事が走馬灯のように駆け抜けた。それらがジグソーパズルのように嵌まり込むと、一枚の絵になり、事件の全体像がくっきりと浮かび上がった。犯人の動機と殺害方法がわかったのである。
 手がかりは最初から提示されていた。植田がそれに気がつかなかっただけだった。
 ミステリー小説に出てくるダイイングメッセージという言葉を思い浮かべた。松尾の最後の姿勢、あれが犯人を意味しているとは思わなかった。
 ——松尾よあれで犯人を示したというのは、かなり無理があるで、俺みたいな推理力があってもヒントなしでは解らなかった。ましてや、警察みたいな想像力が欠如したところではあかへんやろな。
 植田は心の中で松尾に呼びかけた。
 それから、ひとつのアイデアが頭の中に浮かんだ。宮本の苦言を思い出したが、それを振り払うように首を鳴らした。性格だから直しようがない。自分の道を突き進むだけだ。

 田丸とその上司は、植田の話を気が乗らないふうに聞いていた。が、次第に興味を引かれたのか、目の色が刑事らしい鋭いものになっていった。
 植田が話し終えると、田丸はどうします、というように上司に目で尋ねた。
「とりあえず、徳村さんから話を聞いてみようじゃないか」
 鬼瓦のような面構えの上司は獲物を見つけた猫のように真剣な表情になっている。

 次の日の朝、植田は刑事たちを徳村のアパートに案内した。田丸巡査部長とその上司である鎧谷警部補である。彼は顔もごついが名前もそれにふさわしいものだった。
 植田はアパートから離れた場所で徳村と刑事の様子をこっそりとうかがった。
 田丸がドアをノックすると、しばらくして厚化粧をした徳村が顔を出した。田丸刑事の表情はわからないが、体をのけ反らせたことから、さぞかし驚いたに違いない。
 鎧谷が徳村に話しかけ、隣の田丸が手帳にメモをするというスタイルで事情聴取を始めた。話の内容までは遠くてわからない。
 鎧谷が顔を庭のほうに向けてなにかをしゃべると、徳村の態度が一変した。
 徳村は鎧谷の胸ぐらをつかむと「そんなことは絶対にさせないわよ」と大声で怒鳴った。
 そのまま二人は玄関から出てきた。徳村は鎧谷の胸を思い切り押した。相手が高齢女性と油断していたのか、鎧谷の体はよろけたが、とっさに受け身を取り、徳村ともつれ合うように倒れ込んだ。田丸は機敏な動きで徳村の後ろに回り手錠を取り出した。
「公務執行妨害で現行犯逮捕する」
 田丸の声がさわやかに響き渡った。

 

植田再び推理を披露する


 植田は慣れた手つきでカードを配り終え、親になったので最低限のレイズをしたが、誰もベットしない。どうしたんやろと常連客の顔を見渡すと、マスターが「鉄ちゃんが事件が解決したらしいけどさ。もちろん話してくれるんだろ」と期待に溢れた口調で植田に話しかけてきた。
 そこで、植田はチップを集めながら、ざっくりと事件の真相を話すことにした。
「愛犬を松尾に殺されたと思ったミネルヴァこと徳村美祢は、買い物をしている松尾のあとをつけて、アパートに入ったところで、松尾に文句を言ったんだそうや。そこで『俺はなにも知らない、言いがかりをつけるな』としらを切られたことに激情して、思わず犬につけていた形見のリード紐で絞め殺した。大事に取っておいた遺品のリードから松尾のものらしい皮膚片が出たのが決め手で自白というストーリーですわ。現場で、松尾が炊飯器に手を伸ばすような姿勢で死んでいた理由がわかれば、簡単な事件だったんやけど」
 最後の言葉で、皆は配られた手札を見ることなく、植田の方を見つめた。
「炊飯器がどう関係しているの」
 丹羽さんがチップを掴んだまま、マスターと視線を交わしながら、尋ねた。
「ミステリーでいう、ダイイングメッセージってやつですわ。電気炊飯器は電気釜と呼ぶ人もいるやろ。松尾は死ぬ間際、犯人から逃げるためにキッチンまで這って行って、混濁した意識で徳村のイメージ=魔女が浮かんだ。そこで魔女のシンボルであるぐつぐつと煮え立つ釜を指差しながら死んでいったわけ。松尾はいつも徳村のことを魔女って言ってたんやから間違いないわ」
 一瞬の間を置いてマスターがポーカーテーブルに突っ伏すと、笑い声を上げた。体を起こしてからも腹を抱えたままだ。隣に座っていた丹羽さんが心配したのか、マスターの背中をさすり始めた。
「ほんとうに鉄ちゃんは面白い。真面目な推理と思わせて、ギャグを交えてくるとはな。予想外のところからパンチが飛んでくるんじゃ、避けられるわけがない」
 マスターの言葉に、丹羽さんは「なんだ、冗談だったのね」と納得したように手を打った。
 客の雰囲気を感じた植田は「電気釜のところは冗談やわ。殺人みたいな話は暗くなるから、ジョークを入れてみたんや」と心にも無いことを話した。この事件で一番いいところなのに、最後がぶち壊しになってすまん、と植田は心の中で松尾に詫びた。
「だけど、どうしてミネルヴァは松尾が犬を殺したとわかったんだ」
 笑いの発作が止まったマスターは疑問をぶつけた。
 植田は松尾が幟で野良犬を殴っていたこと、そのあとにミネルヴァが松尾のスラックスをハンカチで拭いていたことを再び思い出していた。
 あのとき、ミネルヴァは松尾のスラックスの裾についていた白い毛が自分の愛犬のものだと思い、それに野良犬を虐待していた姿を重ね合わせて、松尾が殺したと確信したのだろう。
 植田はアパートの庭でかいだ線香の匂いで、愛犬の墓だと直感した。警察には松尾を締め殺した凶器のリード紐が埋めてあるんじゃないかと嘘をついたのである。
 植田の当てずっぽうの推理がピタリと当たり、愛犬の死体が出てきたのだった。そこで警察は徳村の部屋を家宅捜査して、凶器を見つけたというわけだった。
 ミネルヴァがパチンコ屋で話してくれたときに松尾のことを「音楽をやっているとモテる」と言っていた。そのときには気にも留めなかったが、あれは重大なヒントだったのである。
 ミネルヴァは部屋を訪れたときに、あのギターを見たのだ。そのときにギターを持っているから、音楽をやっているのだろうと思い込んだのに違いない。
 まさか、インテリアとしてギターを飾っていたとは知らずに——。
 植田は自分の推理と、警察がミネルヴァを逮捕する様子を皆に説明した。
「……というわけで、ミネルヴァが俺に松尾が付き合っていた女のことを吹き込んだのは、攪乱戦法だったわけですわ。ほんまにずる賢いやっちゃ」
「犬のために人を殺すとはな」
 マスターの言葉に丹羽さんは口を尖らせて反論した。
「ペットというのは家族同然ですからね。そりゃ愛犬を殺されたら復讐する気持ちになるのもわかるわ。だけど徳村さんも余計な一言を聞かれたばかりに犯人にされちゃって、鉄ちゃんの前ではおしゃべりも出来ないわね」
「まあ、ギターを見たら音楽をやっていると思い込むのも無理はないわさ。ミュージシャンのヒモというのはよくいるし。それにしても、鉄ちゃんは警察を丸め込んで、ミネルヴァをまんまと罠にはめたんだから、策士だわな」
 マスターは皆の表情を眺め回しながら、そう言った。
「最後の質問だけど、どうやってお婆さんが若い男性の首を絞殺出来たのかしら。それと松尾くんが全裸だった理由は。名探偵の鉄ちゃんならわかるわよね」
 皮肉な口調で丹羽さんが尋ねた。
 丹羽さんの場札にエースのワンペアが出来ていたので、誰も勝負をしなかった。植田はチップを集めると彼女の前に置いた。
 次のゲームのために植田はカードをシャッフルしながら、丹羽さんの疑問に応えようとすると、宮本の姿が視界の隅に入った。
「それは、徳村が松尾の部屋を訪ねたとき、ドアノブにリード紐を引っ掛けておいたんや。それから松尾の首に紐を巻き付けて、片方をしっかり握りながら締める。松尾は思わず部屋の奥に逃げようとして、自分の体重で首を締めてしまったというわけやな。それとどうして全裸だったのかは、たぶん自分の化粧品とか髪の毛が松尾についていないか、裸にして調べたからやろ」
 話し終えた植田は、宮本のほうに視線を向けた。それに気が付いたのか宮本は、ニヤリと笑うと親指を立てた。
「それらしい説明だったけど、本当かしら。鉄ちゃんはおとなしいように見えて、おなかの中は真っ黒というタイプよね。こういう男が一番タチが悪いのよ」
 丹羽さんは詐欺師を見るような冷たい視線で植田を睨んだ。それから、気分を変えるためか、宮本に「いつものミルクをちょうだい」と言った。

             完

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