「筑波大学について」への反論
不肖わたくしの在籍する筑波大学で、めずらしく全国区に上がる話題が生まれた。
いえばさらなり、悠仁親王殿下の御入学である。
それによって学内も学外も色々なベクトルでよろしくないはしゃぎ方をしてるように思える。
ここに来るまでに色々あったのだから、せめて筑波大学では落ち着いた環境で勉学に励むことができますよう、、、とささやかに祈るなど。
しかしその影響によってか、よらずか、学内にはいくつか変化があったようで、なにやら話題の投稿がこちら。
まずいいねの数がすごい。
色々な人からの引用もされており、問題提起として、その影響はそれなりに波及しているように思える。
遅ればせながらその流れに便乗させていただき、学内にいる人間として、ちょっと違う視点から、はっきり言えば批判的に、この話題について考えていきたい。
ざっくばらんな駄文に少々お付き合いください。
まずは、誠に勝手ながら引用させていただいた文章を、例示されるイベントと共にまとめさせていただこう。
1.要約
背景説明
筑波大学に悠仁親王が入学し、学内・学外とも騒がしくなった。現状の問題点
皇族入学に伴い、学内の警備が強化された。
皇族の学類の建物に新しい警備会社が配置され、学生証提示が義務化。
建物間の連絡通路が封鎖され、利便性が損なわれた。
授業の教室情報が学外から非公開に変更された。
サークル活動に対する締め付けが厳しくなった。
施錠後の建物前での集まりに対する高圧的な注意。
夜間の話し合いも強制解散。
過去の問題
学長任期撤廃、大学院再編、防衛装備庁関連の研究資金採択、厳格な出席点評価、不正駐輪の排除、喫煙所の撤去など、すでに「学生なき改革」は進んでいた。
筑波大学の「開かれた大学」という理念は以前から欺瞞。
現状の評価
学生や教職員、市民の自由を奪うのは学問の自由の侵害。
サークル活動は学内・地域に貢献しているはずなのに、制限は逆効果。
危機感と呼びかけ
放置すれば監視社会化が進行する(例:院生室の夜間閉鎖、課外活動制限)。
解決法はまだわからないが、問題意識を持つ者どうしで話し合う必要がある。
まずはこの文章を書くことから始めた。
【主張のポイント】
学内の警備強化・制限は不当。
筑波大の改革は学生不在で進んできた。
学問の自由・集会の自由が侵害されている。
サークル活動の社会的価値が軽視されている。
現状に抵抗するためには議論が必要。
結論:
「筑波大学は皇族入学後、学内規制が強化され、学問や課外活動の自由が脅かされている。これに加えて長年の体制にも問題があり、放置すればもっと悪化する。だからまずは声を上げるべきだ」
2.記事の疑問点
勝手に文章を要約した上、またもや勝手ながら、文章を通して、個人的に疑問を感じた点を個々の主張と文章の構造的な問題という観点から指摘させていただきたい。
① 警備強化(学生証提示・通路封鎖)
学生証提示の義務化や通路封鎖についての不満は、あくまで利便性の問題であり、大学の自由や権利の侵害という原理的な問題ではない。
そもそも、これまで大学施設が自由に解放されていたのは、大学側がリスクを許容していた結果にすぎない。
もし部外者が侵入し問題が起これば、その責任は利便性を享受していた学生ではなく、大学側の安全管理の甘さとして問われる。
そこに皇族という極めて特殊な事情が加わったことで、大学が抱えるリスクはついに看過できない水準に達した。
そうした背景を汲まず、学生側から一方的に「悪評高い改悪」と断罪するのは、問題をあまりに単純化しすぎているのではないだろうか。
また、「学問の自由」は本来、
学問研究の自由(テーマ選択・研究方法の自由)、
研究発表の自由、
教授(教育)の自由
を指すものであり、部外者の立ち入り制限とは本質的に関係がない。
この点を混同する議論は、論理の飛躍を招く危険がある。
② 教室情報の非公開化
授業の教室情報を学外非公開にした件についても、前項と同様の指摘ができる。
安全管理上、外部流出を防ぐ意味があるのは明白。筑波大学は、予期せぬトラブルの可能性を放置できない状況に追い込まれたのであり、そもそも学外の人間が自由に教室情報を見られる必要性はほとんどない。
ただ非常に使いづらいのは事実なので大学は何とかしてほしい。(切実)
確かに、利便性という意味では改悪かもしれない。
だが、もし大学と責任ある対等な対話を望むならば、大学側が背負っているリスクや事情についても考慮し、現実的な代案を提示する努力をすべきだろう。
単なる不満の表明で終わらせるのではなく、問題提起としての本気度を問われる場面である。
③ サークル活動制限
筆者は「学生の自主的な労力をかけた運営」を理由に、夜間のサークル活動への制限を問題視している。
施錠後の追い出しや外での解散要求に腹が立つのは分かる。
しかし、「集会の自由」「憲法違反」まで話を広げるのはやりすぎである。
基本的な話としてルールは守るべきだ。
施錠の時間を過ぎたら場所を変える、それだけのことである。
自由は無制限ではなく、公共空間では時間・場所の制約があるのは当然ではないだろうか。
例えば、他大学と比較して筑波大学の規則が厳しい、といった批判であれば、それは一考に値するだろう。しかしこの場合も、集会の自由という概念で説明するのは論の飛躍である。
さらに、
「地域も活動の寄与を受けてきたのだから」と恩着せがましく正当化し、指摘や注意を「活動の制限」と言い換えるのは、もはや被害意識の拡大解釈に近いのではないだろうか。
「SNSに文句を書き込むな」と言われたとのことだが、この点も内部の警備情報がむやみに外部へ流出することを防ぐためと思えば、一定の理解も可能である。
また、「これまで許されていたのに」という主張は通用しない。
それは単に黙認されてきただけのことであり、当然の権利であったかのように主張するべきではない。
アルバイトやサークル規模などの事情も、そもそも運営側が管理・調整すべきものであって、その管理能力の問題を警備員に転嫁するのは筋違いであるように思える。
最後に、「高圧的かつ過剰な物言い」と書かれているが、施錠時間を超えた活動を繰り返し、何度も注意を受けている時点で、筆者側の態度や状況にも問題があるのではないか?
職務にあたる警備員を「ハズレ」などと形容するのは、無礼な発想であり、真剣な主張も幼稚さを帯びるだけである。
総じて言えば、
ここにあるのは不当な弾圧ではなく、単なるルールと責任の問題ではなかろうか。
④ 過去の大学改革
記事では皇族入学以前から筑波大学には問題があったという主張がなされており、学長任期撤廃、大学院再編、防衛装備庁の研究資金、出席点の比重、不正駐輪の取り締まり、喫煙所の椅子撤去といった多様な話題を例に挙げている。
ここで重要なのは、すべてを一律に扱うべきではないという点だ。
たとえば、防衛装備庁の研究資金の問題は、「軍事研究をしない」という大学の基本方針に照らして見れば、確かに理念との矛盾が問われるべき事例だろう。
理念と実態の乖離を批判する姿勢には妥当性がある。
しかしその一方で、駐輪管理や喫煙所の撤去のような
日常的な管理策までを「学生なき改革」と一括りにし、大学の理念違反とするのは無理がある。
本来、制度改革と日常管理は性質も次元も異なる問題だ。
こうした異質な問題を一列に並べて語ることで、むしろ議論の焦点がぼやけてしまっている上に、「『開かれた大学』という筑波大学の理念が欺瞞に満ちていることはすでに誰もが知っている」と結論づけてしまう点に乱雑さがぬぐえない。
本当に批判すべきところを際立たせるためにも、個別の論点を整理して立て分ける冷静さが求められるだろう。
結局、ここでも「問題の単純化」という本稿全体の弱点が顔を出しているように思えてしまう。
⑤ 監視社会化の懸念:予測と現実の境界
筆者は、現状を放置すれば権力の監視強化が進み、大学院生用の院生室の夜間閉鎖や課外活動のさらなる制限といった事態が起こるかもしれないと懸念を示している。
たしかに、近年の締め付け強化を考えれば、こうした予測は完全に否定できるものではない。
しかし、大学を抑圧的な権力として構造的に悪と見なす前提から、過剰な警戒感と空回りが生じてはいないだろうか。
現状分析が曖昧なまま仮定の話に立脚し、それに「抵抗の道筋を考えたい」と応じるのは、現実の問題解決というより、自己強化的な不安の表明に近いように思える。
文章の構造的な問題点
筆者は、自らの体験(警備強化による不便さやサークル活動への制限)を丁寧に描写し、「こうした傾向は以前からあった」と大学批判を強めていくが、その体験からは、個人的な欲求不満しか読み取れず、そこから抽象的な議論(学問の自由、大学の理念、監視社会化)へ移行する際の論理的接続が極めて薄い。
体験の不快感を訴える文章から、抽象的な権利論へと続く構成には飛躍があり、それによって説得力が薄れ、感情的な文句と原理論が並走しているように読めてしまう。
3.結論
大学への不満を持つこと、問題提起を行うこと自体は決して悪いことではない。
むしろ、そうした声があるからこそ社会は議論を始められる。
私も筑波大学の学生として、大人の理屈を内面化して権利に擦り寄った冷笑的な主張を振りかざすつもりはない。
ただ、その反動として、大仰な理念や正義感に頼る言説が、体験の重みや現実の接地を失っていくのもまた、危ういことだと思う。
「セキュリティ強化」と「自治侵害」の線引きは本来、慎重に議論すべき難しいテーマだ。
だからこそ、権利や自由といった一方的な大義を振りかざす言論は、もし本気で問題意識を持っているのなら、慎まれるべきである。
なぜなら、それは「個人対権力」という構造を容易に生み出し、それ読者に見せることで共感を集める、弱者性を武器にした暴力的な自己正当化に陥りやすいからだ。
論理を補強するための言葉も、実際的な裏付けがなければただの虚飾へと姿を変え、大仰な言葉はかえって言論を軽薄なものにしてしまう。
小さな不満をまず誠実に語り、そこから一緒に考える。
それが成熟した議論の第一歩だと私は考える。
4.おわりに
これを読んだ皆様、そして、筆者様が、私の駄文をお目に入れることにより気分を害されましたら、大変申し訳なく思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
付記:昨今の言論について思うこと
ここからは元記事となんの関係もないです。
SNSの普及により、言論が急速にカジュアルなものとなり、コモディティ化が進んでいる昨今、「正義」と「不快感」はしばしば混同され、そこに「自由」への信仰が加わる。結果、巷では「私が嫌な思いをした。これは権利の侵害だ、自由の侵害だ」と、軽々しく自由や権利を持ち出す声が溢れる。
本来、自由や権利という言葉は血のにじむ歴史の中で獲得されたものであり、それゆえに本質的な重みをもっているはずだ。
だが、今や矮小な不快感を正当化する道具として大げさに振り回されることで、その言葉は次第に重みを失ってきている。
さらに問題なのは、
そうした言論がしばしば「対権力」の構図を持ち出し、自らを、反逆する弱者(BUMP OF CHICKEN?)として正義の側に立てようとする点だ。個人的な不快感を、戦う弱者という立場を取ることで正当化する暴力的な主張は、本来の意味での対権力論、つまり真剣な弱者擁護や社会的矛盾の告発とは質が異なる。
安易な正義のインフレは、むしろ正義という言葉の価値を損なってしまう。
権力批判の文句ばかりの姿勢は、いわば「野党的」である。
野党が長らく政権交代を実現できないように、こうした叫びが体制を動かすこともない。
問題意識はあっても、現実や責任を引き受けない。だからただの権力批判で終わる。
不快感を抑えられない幼稚さ、そしてそれを虚飾と言うべき理論武装で取り繕う中途半端な知性。脆い地盤にコンクリのビルを建てるようなチグハグな言論がばら撒かれ、自らの体験を過剰に意味づけた言説が、深く考察されることもなく共感だけを呼び、消費されていく。
言葉がますます空虚になっていく現代で、どうやって世界に訴えかけるか。
ありきたりな結論だが、憂さ晴らしの言葉だけでは何も変わらないということだろう。
気に入らないなら命をかけて戦え、とまでは言わない。だが本当に届けたい、変えたいものがあるなら、その意思は行動で示すべきなのだろう。
これは自らにも向けられる刃でもある。それができないなら、少なくとも「私は今、安全な場所から文句を言っているだけだ」という自覚を持つべきだ。
野党的態度から抜け出し、責任と行動を示すこと。
これ以外に、空虚な言論から抜け出す道はない。
