【創作大賞2025ビジネス部門】鳴かないと決めた私が、“起業家”と名乗る日まで――ペットも、飼い主も、働く人も。“もふもふの国”をつくった私の挑戦記
鳴かないと決めた少女は、やがて“もふもふの国”をつくった。
自分も、誰かも、“鳴ける場所”をつくるために。
このnoteは、声を失っていた一人の女性が、人生と向き合いながら歩んだ“起業家としての挑戦記”です。
【はじめに】
私は、声を持たなかった。
小学校に入学したばかりの頃、たぶん「おはよう」って言っていた。
友だちができたらいいな、と思っていた。
でも、小学3年生で仲間はずれにされ、
小学5年生で、トイレの中でつねられるようになって――
ある日から、「おはよう」が言えなくなった。
無視されるのがわかっていた。
声を出しても、返ってこないとわかっていた。
そのうち私は、「おはよう」を言うのをやめた。
声を出すのもやめた。
「どうせ、私には、友だちになる価値すらない」
そうやって、自分で自分を黙らせていった。
教室では、壁の模様のように静かにいた。
存在感を消すことが、いちばん安心だった。
高校生のとき、浜崎あゆみさんの「kanariya」という曲を聴いた。
「カナリアたちは、鳴けなくなったんじゃない。
ただ、鳴かないと決めただけかもしれない」
その言葉に、私は心を撃ち抜かれた。
ああ、そうだ。私は「鳴けなかった」んじゃない。
「鳴かない」と決めていたんだ。
傷つかないために、目立たないために、
“鳴かない私”として、生きることを選んだ。
そんな私が、いま「起業家です」と名乗っている。
このnoteは、「話すことが一番苦手だった私」が、
“声”だけじゃなく、“生き方”そのものを取り戻していく物語。
起業は、特別な人のものじゃなかった。
「自分の暮らしを、自分の手でつくる」ための手段だった。
ペットも、飼い主も、働く人も、そして、私自身も。
もっと自由に、もっと幸せに生きられる社会をつくるために。
鳴かないと決めた私が、“起業家”と名乗る日まで。
このnoteが、あなたが“自分の声”と“自分の人生”を、
もう一度、名乗り直すきっかけになりますように。
第1章|「夢って、持ってよかったの?」から始まった私
「夢って、持ってよかったの?」
それが、私の原点だった。
目立ちたくなかった、わたし
私は、子どもの頃からずっと「目立ちたくない」と思っていた。
むしろ、“壁のようにそこにいるだけの存在”になりたかった。
3月生まれで体は小さく、2200gで生まれた私は、クラスでも小柄なほうから2番目。体重だけならたぶん1番軽かったと思う。運動も苦手で、特に得意なこともなかった。
優秀な兄が1つ上の学年にいた。
兄の存在と比較されるうちに、私は自分のことを「劣っている」と思うようになった。
“できない子”って、ずっと思ってた
小学校3年生のとき、仲間外れにされた。
小学校5年生のとき、友だちに命令されたり、トイレの中でつねられたりした。
「もう、誰も私に関わらないで」
そう思った。人と関わるのが怖くなった。
私は、誰かの“友達になる資格”さえない人間だと思った。
夢って、「好き」の延長なの?
夢なんて、考えたこともなかった。
最初に「将来の夢」を意識したのは、幼稚園の卒園アルバム。
「ケーキ屋さんになりたい」って、友達が言ってたから、私も真似して書いた。
でも先生に「ケーキ屋さんばっかりじゃおかしいよね」と言われて、じゃんけんで負けた子がパン屋さんになった。
子ども心によくわからなかった。
小学校に入ると「好きなことを夢にすればいいんだよ」と言われた。
私はピアノを習っていたから、とりあえず「ピアノの先生」と書いた。
でも、本当に好きだったかというと、よくわからない。
練習もサボっていたし、ピアノはただの“おもちゃ”みたいな存在だった。
水泳も習っていたけど、やっぱりよくサボった。
どうしても行きたくない日があった。
でも、休むとは言えなかった。親が怖かったから。
だから、トイレで水着を濡らして帰った。行ったフリをして。
……すぐバレた。濡れ方が変だったから。
公文もサボった。
1ヶ月行かなかったときには、先生から電話がかかってきた。
「智子ちゃん、来ていませんよ」って。
高校生のときも、課外授業を休むために、親のふりをして学校に電話をした。
「今日はお休みします〜」って。
……やっぱりバレた。
私は、努力ができない子どもだと思っていた。
でも今ならわかる。
私は、「努力のやり方」を知らなかっただけなんだと。
やる気がなかったわけじゃない。
ただ、「行きたくない」と言う自由すらなかった。
言えば怒られる。
許してもらえないと、最初からわかっていた。
親は、「どうして?」とは聞かない。
ただ、「甘えるな」と言うだけだった。
私は、「つらい」と言う自由を持っていなかった。
夢を描くこともできなかった。
夢は、「好きなこと」の延長線にあるものだと思っていた。
でも、自分の“好き”すらわからない私にとって、夢はただの空想だった。
中学3年のとき、文集に将来の夢を書く欄があった。
とりあえず「サックスのプロになりたい」と書いた。
その頃吹奏楽を頑張っていたから。
でも本当は、楽譜を読むのも苦手で、
プロになれるほど努力できるとも、才能があるとも思っていなかった。
違和感の正体は、“ほんとうの願い”だった
そんなある日。
小学校6年生のときだったと思う。卒業生の女性が講演に来た。
「自分を好きになろう!」
「私は、自分のことが大好きです!」
そう語る彼女に、私は強烈な違和感を覚えた。
「ナルシストじゃん、何それ」って。
きっと、心のどこかで、「あなたは最初からすごかったんでしょ」と思っていた。
成績もよくて、明るくて、自信があって、何かを持っている人。
そんな人だから、そう言えるんだよね?って。
私には、何もなかった。
得意なことも、好きなことも、夢も、全部よくわからなかった。
でも、今ならわかる。
あの違和感は、私の中にあった“願い”だった。
「私も、本当はそうなりたかった」
「“自分が好き”って、言ってみたかった」
私は、キラキラしたかったんだ。
「話すこと」が一番苦手だった私が、今…
私にとって“話す”って、人生の中で一番難しいことだった。
でも今、こうして“起業家として話す”私がいる。
それはきっと、“生き方を名乗る”って、そういうことなんだと思う。
そして、今。
こんな私が「起業家」と名乗り、新聞に載るようになった。
山形新聞に1/4ページで取り上げられた。
そんな未来――子どもの私には、想像すらできなかった。
でも、それが現実になった。
「特別な人にしかできない」と思っていた。
「努力できる人」「夢を持てる人」「自分が好きな人」じゃないと無理だと思っていた。
でも、違った。
私のように、「何もみつけられなかった人間」が、
今、ちゃんと自分の言葉で、自分の人生を語っている。
それが、「ペットも、飼い主も、働く人も、幸せになれる社会をつくる」という、私の事業の出発点になった。
そんな今の自分が、あの頃の私にひとこと言うとしたら、こう言うだろう。
「ひとつずつ、ゆっくりでいいから、
自分の好きなところ、いいところ、みつけていこう」
そうして見つけた「自分らしさ」が、やがて“もふもふの国”という居場所を生み、
「ペットと安心して暮らせる未来」へと、少しずつつながっていくなんて――
あの頃の私は、きっと知らなかった。
第2章|こわいから始まった、“犬との物語”
ハムと、犬と、怖かった私
私は、小学生の頃からずっと犬が怖かった。
理由はひとつじゃない。いくつかの出来事が重なって、そうなったのだと思う。
中でも、今もはっきり覚えている出来事がある。
父の知り合いの中型犬と遊んでいたときのこと。私は、ハムをあげていた。
犬はおとなしく食べていたけれど、ハムがなくなった瞬間、目を光らせて「もっとちょうだい!」と言わんばかりにぐっと近づいてきた。
その瞬間、心の中で冷や汗が流れた。
怖い。なんか、こわい――。
次の瞬間、犬がかみつくような仕草をして、私は思わず室内に逃げ込んだ。
「自分だけ逃げた」って、ずっと思ってた
その後、一緒にいた兄が、ふくらはぎをかまれてしまった。
私は、ただその場にいて、何もできなかった。
「自分だけ逃げた」
「私のせいで、兄がかまれたんじゃないか?」
「犬が怖くて何もできなかった自分が情けない」
誰にも責められていないのに、私は自分を責めていた。
それ以来、犬は私にとって「こわい存在」になった。
家を離れた自由と、父の「犬を飼いたい夢」
その後、私は大学進学で家を離れることになった。
「犬はこわい。もう関わらなくていいんだ」――そう思っていた。
でもそのとき、父が親戚から「ラブラドールの子犬が生まれた」という話を聞いてきた。
「飼いたいんだ」
父がそう言ったとき、私は「私、家出るから。好きにすれば」と答えた。
逃げるように。少し冷たく。だけど、それが精一杯だった。
そして3ヶ月後。
その子犬は「ハリー」と名付けられ、我が家にやってきた。

ハリーと、うさぎのピーターと、そして私
初めてハリーを見た日、私はうさぎのピーターを抱きしめて、こっそり泣いた。
「やっぱり怖い」
そう思った。

大学卒業後、実家に戻ってくると、ハリーは「新入りの人間が帰ってきたぞ」という顔をしていた。
私にとってハリーは、家族というより、距離のある“同居人”だった。
その後、うさぎのピーターが亡くなった。私は、心にぽっかり穴が開いた。
「また抱っこできるペットがほしい」と思った私は、トイプードルを迎えることにした。
名前は「ピーター」
ハリーが覚えやすいように、うさぎと同じ名前をつけた。
ハリーとピーターと、変わっていく関係
最初、ハリーは新入りのトイプー・ピーターをじっと見ていた。
でも、次第にリーダーとして振る舞いはじめ、散歩ではピーターを守るようになった。
ハリーの目は、私を「同居人」から「家族」として見るようになっていた。
そんなハリーとの関係が、私の中にあった“犬への恐怖”を、少しずつ溶かしてくれた。

友だちレオちゃん、そして犬が増えていった
ある日、父が言った。「ハリーの友だち、レオちゃんっていうフラットコーテッドがいるんだ」
その頃には、近所でも「ハリーとレオちゃんは仲良し」と有名だった。
私は実際に2匹の相撲を見たことはなかったけれど、ハリーが誰かと友達になれる犬なんだと知っただけで、少し救われた気がした。

やがて、ハリーの周りには仲間が増えていった。
私が迎えたトイプーのピーターに続き、父が「チョコちゃん」「Qちゃん」を連れてきた。
そして、子どもたちが生まれ――ジャック、ミッキー、ミカン、ミニー、モモ、ジョージ、イチゴ、ショコラ、ココア、マリー。
気づけば、家の中はトイプードルだらけになっていた。
犬がこわい――そんな感情を抱いていた私は、
犬の鳴き声に囲まれ、犬と暮らす生活の中で、自然と「犬がいるのが当たり前」になっていった。

ハリーが教えてくれた、「関わることで怖さは変わる」ってこと
今、犬の国――「もふもふの国」をつくった私は、「犬がこわい」と言っていたあの頃の自分に、こう伝えたい。
「大丈夫。怖いのは、まだ関わり方がわからないだけだったんだよ」
犬と暮らすようになっても、最初は全部が怖かった。
でも、ハリーはちゃんと私を家族として認めてくれた。
そして私も、犬のいる暮らしを“あたりまえ”に思えるようになった。
「苦手」は、「一歩踏み出せば、変わるかもしれない」
ハリーとの時間が、それを教えてくれた。
そしてこの体験は、のちに「犬との暮らしを通じて誰かの力になりたい」という私の想いへと、少しずつ形を変えていった。
「犬がこわい」と言っていた私が、
やがて“犬がいるから安心できる場所”をつくろうとするなんて、
あの頃は想像もしていなかった――。
第3章|“人のために働く”に出会うまで
やりたいことも、好きなことも、見つからなかった
「やりたいことを見つけなさい」「好きなことを仕事にしなさい」
就職活動の時期になると、そんな言葉をあちこちで聞いた。
でも――私は、それが見つからなかった。
就職活動をしても、「やりたいこと」も「好きなこと」も出てこなかった。
結局全落ちして、ただ時間だけが過ぎて、卒業を迎えた。
大学の卒業式の日、学長が言った。
「あなたたちは、これまで多くの人に支えられてきました。これからは、人のために生きてください」
その言葉が、ずっと胸に残った。
でも、その意味はよくわからなかった。
「人のために生きるって、どういうこと?」
とりあえず働いてみる。そこに“問い”があった
私は、とある大学病院で「医局秘書」のパート職員として働くことになった。
「正社員にはなれなかったけど、拾ってもらったことに感謝しなきゃ」
そんな気持ちで始めた仕事だった。
毎日、医師たちのサポート業務に追われた。
患者さんのカルテを用意したり、手術写真を整理したり、掃除機をかけたり、コーヒー入れたり・・・。
ところが、ふとした瞬間に、私は気づいた。
目の前にいる医師たちは、命を守るために、患者のために、懸命に働いている。
私は、その人たちが、少しでも患者さんに向き合える時間を増やす仕事をしている。
そう気づいた瞬間、ふと、心が軽くなった。
「人のために生きる」って、こういうことなのかもしれない。
チャペル初日の涙と、はじめての「できた」
医局秘書の仕事は、平日のみであった。
お小遣い稼ぎのため、週末、結婚式場のチャペルスタッフのアルバイトをすることにした。
最初は、とっても難しく感じた。
その初日、「こんな仕事、私にはできない」と涙があふれた。
内気で、行動も遅く、人より理解も遅い「亀」のような自分には、この仕事は無理だと思った。
でも、先輩が「できるから。最初はみんな初心者だよ、大丈夫」と言ってくれて、それを信じて通い続けた。
半年後、気づけば、私はチャペル式を仕切るポジションを任されていた。
最初は不安だらけだったけれど、少しずつ自分の中で変化を感じた。
「人のために生きる」ってどういうことだろう?その答えを求めて仕事を続けていた。
やりたいことを探すのではなく、自分にできることで「誰かのためになる」ことを見つけようとしていた。
結婚する前に離婚して、退職だけが決まっていた
その後、30歳を過ぎて医局秘書を寿退職する予定だったが、退職の前に離婚することになった。
退職の手続きはすでに済んでおり、次の人も決まっていた。
周りに迷惑をかけたくない一心で、結局そのまま退職し、再び就職活動を始めた。
精神的にはボロボロで、うまくいかない日々が続いた。
それでも、「私にできることで役に立ちたい」と思ってた
ありがたいことに、長年アルバイトを続けてきた結婚式場から、嘱託社員として「大塲さんなら」と言ってもらえた。
私は二つ返事でその会社に勤めることに決めた。
この会社なら、どんなポジションでも「人のために働く」という答えが見つかると感じたからだ。後に正社員として採用され、30歳を過ぎて初めて正社員になった。
あの頃の私は、「自分にできること」で、毎日をなんとか乗り切っていた。
でも今ならわかる。あの遠回りが、まっすぐ“起業家としての私”につながっていたってこと。
そして――きっと、まだ見えていない“ピース”たちも、未来のどこかで、ちゃんとつながっていく気がしている。
第4章|「自由」って、なんだろう? 〜父とフラメンコと、わたし〜
左足の麻痺と、突然の介護生活のはじまり
2020年12月、私は突然左足が麻痺して、歩けなくなった。原因は不明。大病院で診察を受け、検査を重ねたが、結論は出なかった。
その翌日、母が骨折し入院。すでに介護が必要だった父の面倒を見ることになった私は、介護休業を2か月取得した。
家の中はまさに混乱そのものだった。歩けない私、寝たきりの父、入院中の母、そして12匹のトイプードル。日常生活を何とか回そうとするけれど、すべてがうまくいかない。「病気、怪我、介護など、ちょっとしたバランスがずれるだけで、すべてがうまくいかなくなる」とその時、痛感した。
それでも、私は自由を選びたかった
とにかくつらかった。でも、この経験を必ず何かに生かそう、と決めていた。何を成し遂げられるかなんて考えられなかったけれど、「この経験は、必ず『人のために生きる』何かに役立つはず」と思った。
上司と話したときは、涙があふれて止まらなかった。父の介護と長年向き合っている友人が、ただただ抱きしめてくれた。父のお風呂や大きな買い物など、歩けない私ができないことは兄夫婦にお願いした。日常の買い物は、すべてコンビニで済ませた。
でも、父とは小さな喧嘩を繰り返した。「明日の飯、どうするんだ?」「○○が食べたい!」と怒りながら言う父に、私はただただ悩みながら向き合うしかなかった。
そんな私を、トイプードルたちが心配そうに見つめていた。もしこの子たちがいなかったら、私はきっと家を出て行っていただろう。
杖をつく父娘、手をつないで歩く
1ヶ月後、母が退院した。介護中の父、骨折リハビリ中の母、左足麻痺の私――3人それぞれがどこかに体の不具合を抱えていた。
父が杖をつき、私も杖をついて歩く。杖をついていない父娘の手は、支え合うために繋がっている。同じスピードで、必死に二人ともほんの少しずつ進む。
介護に向き合った日々の後で、母と3人で一生懸命歩む家族の姿があった。お互いができることを行い、母娘で日々の暮らしを担う。家族を支え、支えられながら進んだ日々は、私にとってかけがえのない時間だった。
車いす生活が教えてくれた「社会の設計」
車いすになって、私は「自由」を考え直すことになる。
左足はほとんど動かない。でも私は、目が悪ければめがねをかけるように、車いすは「手段」だと捉えた。母が元ソーシャルワーカーだったおかげで、市役所で車いすを借りることができた。
スタッフ用通路の狭さに対応するため、私は体が小さいことを活かして子供用の車いすを借りた。恥ずかしいとも、不便とも思わなかった。むしろ、「体がダメでも、退職の道じゃない道を切り開きたい」と思っていた。
その後、会社でも「大場は、事務職でもできる」と評価され、グループ内のレストラン等を運営する子会社の事務職に異動した。
春、観たい映画があった。自力で外出するために、軽量タイプの車いすを自費で購入し、車への積み下ろしも一人でできるようにした。
映画館の駐車場――そこには、スロープがあった。でも私は、登れなかった。
傾斜角度が法律で定められているはずのスロープ。それでも、自分の腕では登れない。何度も落ちて、誰もいない場所で助けも呼べず、私は涙が出た。
ようやく見つけた別の緩やかな坂も、結局は登れなかった。仕方なく、車いすを歩行器代わりにし、右足と両手で、ゆっくり登った。
そのとき気づいた。「スロープの設計って、自力で動ける車いす使用者の視点で考えられていないんだ」と。
法律の「角度」は、現実の「筋力」とは違う。
これは私にとって、「社会は誰のために設計されているのか?」を問い直すきっかけになった。
父の死、そしてあふれた涙
父はその半年後に亡くなった。ちょうど私は、車いすから少しずつ回復し、会社に復帰していた。父の入院中も、私は何度も足を運んだ。車いすでも、家族だから、できる方法で会いに行った。
通夜の夜、母と兄は通夜室に残り、私はトイプーたちの世話のために家に戻った。
深夜2時、車を運転しながら涙があふれてきた。
私は、父のことが好きだった。たくさん悩ませられたし、怒らせられたし、ぶつかることも多かった。
でも、尊敬していた。悔しくて、憎らしくて、それでも――やっぱり父が大好きだった。
あの涙は、「自由になれた」という解放感と、「もう二度と会えない」という喪失感がないまぜになった涙だったのだと思う。
父の死とともに、私は自由になった。だけどその自由は、孤独と向き合う自由でもあった。

最後の舞台で父は「フラメンコらしい踊りになってきた」と初めて誉めてくれた。
「幸せな老後」とは何かを問い直す
遺産を受け継ぎ、最低限の生活費を確保できる状況になった私は、初めて「自分の人生を選べる」状態になった。
父の遺産を活用し、自分で土地を購入して、新築のアパートを建てたのだ。投資目的だった。
すでに、株は精神的に自分に向いていないとわかっていたから。
まだこの頃は「会社員として働き続ける」つもりだったけれど、このアパート収入は、後に起業した私の「最低限の生活費を支える基盤」になっていく。
つまり、父の遺産は、経済的にも精神的にも、私に「自由に生きる選択肢」を与えてくれたのだった。
でも、それで本当に幸せだろうか?違う。
私は、「ただのお金」ではなく、「自分の幸せ」をつくりたかった。
父の死、介護の日々、そして車いす生活。
それらのすべてがつながって、私は考えるようになった。
「素敵な老人ホームって、どんな場所だろう?」
その答えのひとつが、ペットと一緒に過ごせる場所――“もふもふの国”の未来につながっている。
第5章|“選ばれなかった私”が、起業を決めた日
“まだ会社員だった私”が選んだ、アパートという備え
父が亡くなったあと、私は父の遺産をもとに、新築アパートの建設を決めた。
株式投資も一度は考えた。でも、自分には向いていないとすぐにわかった。値動きに一喜一憂してしまう性格だったから、数字の波に心まで振り回されてしまう。だから私は、土地を購入し、自分の目で見える形としてアパートを建てる、という選択をした。
このときはまだ、起業なんてまったく考えていなかった。「これからもずっと会社員として働いていくつもり」だった。けれど、どこかに「会社員だけに頼らない生き方も、持っておきたい」という想いもあったのだと思う。
将来の年金代わりに、安定収入を得られる仕組みを持っておくこと。それが、このアパート経営の目的だった。
この時の判断が、後に“起業できた理由”になるなんて――そのときの私は、まったく想像していなかった。
数年後、私が起業という道を選んだとき、このアパートからの収入が、「最低限の生活費を支える基盤」となってくれたのだ。
「すてきな老人ホームに住みたい」それがすべての始まり
「起業なんて、意識高い人がするものでしょ」「会社をつくるなんて、経済や経営に詳しくて、ガッツのある“特別な人”がやるもの」そう思っていた。少なくとも、“経営学なんて学んだこともない日本史専攻”の私がやることじゃない、と思っていた。
私は、ずっと会社に勤めるつもりだった。職場が好きだったし、仕事も好きだったから。
でも――2024年の秋、足が回復していた。歩くことに対する不安もだいぶなくなって、「そろそろ何かできるかもしれない」と思えるようになった。
そのとき、ふと湧いてきたのが、「すてきな老人ホームに住みたい」という気持ちだった。それは、父の死を経て、強く芽生えた願いだった。
ペットと一緒に暮らせる場所を、自分でつくりたい
子宮内膜症の私は、これから子どもを持つ気はない。
だから、自分の「終の住処」は、自分でデザインしなければならなかった。
そして思い出した。
大学時代の学生寮の、あの温かくて自由な暮らし。
そんな場所に、大好きなペットと一緒に暮らせたら――それが私の理想だった。
「ペットと一緒に暮らせる老人ホーム」
「自分が先に死んでも、安心してペットを託せる仕組み」
「介護施設にもペットを」――
そんな未来を思い描いていた。
でも、気づいた。
それはお金さえあれば入れるようなものではない。
そもそも、”山形には“存在していない”のだ。
じゃあ、どうする?
「私がつくればいいんだ」
そう、自然に思えた。
私の夢は、いつしか「みんなの夢」にもなっていた。
話すたびに、「私もそこに入りたい!」という声が寄せられたからだ。
左足が動かない私と、誰にも頼めなかった犬の世話
そして、私は探し始めた。
今の自分にできることはなんだろう?
まずは、その夢に近づくための「入り口」を見つけよう、と。
数日間、調べに調べた。
そして出会ったのが、「ペットシッター」という言葉だった。
それは、“おうちに訪問して、ペットのお世話をする仕事”。
サービス職としての経験、事務職としてのスキル、そして何より、犬とうさぎの多頭飼いをしてきた経験。
それらが全部つながった瞬間だった。
でも、私は思った。
「こんな仕事、本当に山形にあるの?」と。
調べてみると、ペットホテルはあるけれど、ペットシッターはほとんど存在していなかった。
私自身、「ペットシッター」という言葉を、このとき初めて知ったのだった。
そして気づいた。
介護にはケアマネージャーがいる。
入院中の母には病院がある。
でも、犬たちのサポートをしてくれる人はいなかった。
「次は、私が“その誰か”になろう」と決めた
左足が麻痺して散歩に行けなかった日々。
12匹のトイプードルたちを見ながら、私は何もできなかった。
あのとき、心の底から思った。
「誰か、助けてほしい」と。
でも、そんな“誰か”はいなかった。
だから私は、こう思った。
「今度は、私がその“誰か”になろう」
歩けなかった私だからこそ、わかることがある。
介護と孤独と不安を抱えた私だからこそ、寄り添える気持ちがある。
ペットシッターという仕事は、私自身への答えだった。
「あの時の私を助けたかった」――その延長線に、今の仕事がある。

ペットシッターとの出会い。そして「やろう」と思えた日
そうして出会ったのが、日本ペットシッターサービスだった。
フランチャイズという仕組みに、最初は「本部の指示通りにやるもの」というイメージを持っていた。
でも、違った。
オンライン説明会で最初に問われたのは、
**「あなたの夢はなんですか?」**という言葉だった。
私は、正直に語った。「ペットと暮らせる老人ホームをつくりたい」と。
すると、担当者はこう言った。
「やりましょう!その夢、目指しましょう!」
その一言が、私の中で「起業」を“遠い誰かのもの”ではなく、“自分ごと”に変えた。
ペットを扱ったことがなくても、研修制度がある。
経営の経験がなくても、学ぶ仕組みがある。
何より、「その夢を応援する」というスタンスに、心が震えた。
そして、担当者はこうも言った。
「その夢、30年じゃなくて、10年で目指しましょう!」
経営者って、こういう思考をするんだ。
背中を押されたというより、世界が動き出した感覚だった。
私は決めた。「私は、経営者になる」と。
そう決めたら、不安を感じている暇なんてなかった。
とにかく、勉強、行動、挑戦。
ちょうど山形で「起業塾」が開催されると知り、即申込。
その後も、仕事の合間を縫って、あらゆるセミナーに出た。
経営者としての心構えや数字感覚を、必死で吸収した。
起業は、“選ばれし誰か”がするものじゃなかった。
「自分の暮らしを、自分でつくる」ための手段だった。
ただ、その頃は、まだ自分がなりたいものは、「経営者」だと思っていた。
第6章|私は、ただ未来に向かって名乗っただけ
起業塾で問われた、「その仕事で社会をどう変える?」
起業を「決意」するのと、「名乗る」のは、まったく違った。
私はあのとき、「経営者になります」と言った。
でも実際に、開業準備を始めてから気づいた。
私がやろうとしているのは、事業を回すことだけじゃない。
社会に向けて、「こんな未来をつくりたい」と発信し、仲間を集め、形にしていくこと――
つまり、それは“起業家”の仕事だったのだ。
ペットシッターも、老人ホームも、手段だった
きっかけは、2024年10月に参加した山形の「起業塾」だった。
私は「ペットシッターがしたいです」と言って参加した。
けれど、講師から最初に問われたのは、
「その仕事を通じて、どんな社会にしたいの?」という問いだった。
え?どういうこと?
数字とか法律とか、実務的なことを教えてくれると思っていた私には、正直ピンとこなかった。
でも、こうも思った。
「私はこういう立場で物事を考えたことがない。だから分からなくて当たり前だ」と。
起業塾の3ヶ月間、毎日考え、卒業プレゼンも一生懸命つくった。
それでも、まだちゃんとは理解できていなかった。
退職前だった私は、仕事との両立で体力的にも精神的にもギリギリだった。
それでも、私は通い続けた。卒業後も、何度も。
母からは、「また行くの?そんなに通うの、あなただけじゃないの?」と言われるくらいに。
それほどに、私は「自分の視点を変えたい」と思っていた。
コンセプトが定まったら、「名乗る」しかなかった
徐々に、自分の中に変化が起きていった。
「ペットシッターや老人ホームは、ただの手段に過ぎない」
「私は、社会をどうしたいのか?どんな世界を見たいのか?」
その答えが、少しずつ見えてきた。
「ペットも、飼い主も、働く人も、より快適に、より幸せに生きられる社会をつくること」
それが、私の本当の目的だった。
足りないと感じたら、すぐに勉強した。
でも驚いたのは――
学んだことの多くが、かつて勤めていた結婚式場の会社で、すでに取り組まれていたということだった。
会社員目線の当時は気づけなかった。
でも今ならわかる。
私は「人のために生きる」という答えを探して、その会社に入った。
そして今、「人のために生きる」ために、退職して起業するという未来にたどり着いていた。
そのとき、私ははじめて名乗った。
「私は、起業家です」
開国準備は、ひとり全方位戦争だったけど楽しかった
フランチャイズとはいえ、すべてが“用意されている”わけではない。
一つひとつ、自分の名前で契約し、自分の責任で進めていく。
「日本ペットシッターサービス山形店 もふもふの国」は、全国の加盟店の中でも後発だった。
だからこそ、やるなら中途半端にはできないと思っていた。
“型”をなぞるのではなく、“型”に意味を与える開業にしたかった。
いよいよ開国!
でも現実は、
営業も、広報も、SNSも、パンフレット作成も、行政対応も…全部ひとり。
朝から晩まで、頭の中は「もふもふ」でいっぱいだった。
でも、不思議と苦ではなかった。
むしろ、「この国(事業)は、私がゼロから作ってるんだ」という感覚が、
ちょっとワクワクすらしていた。
もちろん、うまくいかない日もあった。
問い合わせがこない日、資料が通らない日、インスタでどう発信したらいいかわからない日。
でも、そこに“誰かの命”や“暮らし”が関わっていると思うと、背筋が伸びた。
Y-Bizでの出会いと、新聞に載った私の名前
2025年3月、私は会社を円満退職した。
ちょうどその頃、私は、「Y-Biz(山形市ビジネスサポートセンター)」に相談に伺った。
「ペットシッターとして開業する。でもどう広めれば…?」
そんな私に、コーディネーターは、
なぜ私が「もふもふの国」を起業するのか、尋ねた。
私の話を聞いた後、コーディネーターは言った。
「それは、プレスリリースを作って、メディアに取り上げてもらいましょう!」
……え? 私が? メディアに?
思ってもみなかった言葉に、最初は戸惑った。
けれど、言われた通りに、とりあえず取りかかってみた。
どんな見出しにするか。
どんな文章で、誰に何を伝えるか。
写真の選び方、レイアウトの工夫、言葉のひとつひとつ。
気づけば、1ヶ月かけて作り上げていた。
最後には、「何が何でもメディアに注目して頂きたい!」という熱気に変わっていた。
そして――
本当に、山形新聞様から取材が来た。
記者さんと話しながら、自分の人生を話す時間は不思議な感覚だった。
1時間の取材予定が、気付けば2時間以上経っていた。
そして、2025年6月11日。
「見たよ!」
「新聞出てたね!」
私のサービスは、地域の新聞で紹介された。
山形には、ペットホテルはあっても、「ペットシッター」という言葉はほとんど知られていなかった。
ペットシッターとは、飼い主さんが不在の間、自宅に訪問してペットのお世話をする仕事。
留守番中のペットにとって、住み慣れたおうちで過ごせることは、安心につながる。
でも一方で、「見ず知らぬ人を家に入れる」ことへの不安も当然ある。
開国から1ヶ月間、問い合わせはまったくなかった。
サービスとしての必要性よりも、まず**「この人に鍵を預けて大丈夫?」**という不安の方が大きいのだと、私は感じていた。
そして、山形新聞に掲載されたその日――
空気が変わった。
記事を読んだ方々から、その日から、立て続けに問い合わせが入った。
「新聞に載った人=信頼できる人」
……それは、地方ならではの“あるある”かもしれない。
でも確かに、あの日から私は「見つけてもらえる存在」になった。
そしてこう思った。
「山形新聞というメディアを通して、ようやく本当に、“今”困っている人に届いた。」
ついに、初めてのご依頼が来た。
「困っていたので、助かりました」
「頼んで本当によかった」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かが確かに芽生えた。
銀行口座に振り込まれた数千円の金額よりも、
その仕事を“必要とされていた”という実感が、何よりもうれしかった。
そして、気づいた。
ああ、私は今、「人のために生きている」んだ――。
それは、ずっと探していた人生の答え。
その証明が、「初売上4,800円」というかたちで現れた瞬間だった。
売上とは、単なるお金ではなく、
誰かから「ありがとう」が届いた証。
誰かの困りごとを解決できたとき、
私の生き方が、社会の役に立ったとき、
私はようやく、自分の人生に「YES」が言えた。
あの瞬間、私は心の中でつぶやいた。
「これが、“人のために生きる”ということなんだ。」
「これが、私の“もふもふの国”の第一歩だ。」
そして、もうひとつ、静かに思った。
22才、大学の卒業式の日から――
ずっと考え続け、探し続けていた「人のために生きる」その意味を、
ようやく41才で、実感することができた。
第7章|起業家って、“未来に動く人”のことだった
「起業家です」って、名乗るにはまだ勇気がいった
起業塾を終え、「もふもふの国」を開国して間もないころ。
私はようやく自分の中で、ある言葉がしっくりくるようになってきた。
“起業家”――。
でも、その一言を名乗るには、まだほんの少し、勇気がいった。
売上はまだほとんどない。立ち上げたばかりで、自分でも「これでいいのかな?」と揺れていた。
それでも、起業家の仕事をしていた
でも、ある日ふと思った。
「私がしている仕事は、起業家の仕事だ。
ペットシッターだけれど、起業家。
私が考えていることも、起業家だ。」
もう、名乗ってしまおう。
キラキラ演出なんていらない。
カタカナ語も苦手だし、ブランディングという言葉もまだ自分になじんでいない。
でも、「起業家と名乗ること」それ自体が、
“未来に向かって、自ら動いている”という証なんだ。
起業家って、特別な人のことじゃなかった
起業塾では、ずっとメンタルを鍛えられ続けてきた。
最初は、
「え?ペットシッターをやりたい?じゃあ、それを通じて、どんな社会を実現したいの?」
と問われ、戸惑った。
ペットシッターをやることが“目的”ではなく、
社会をどう変えたいかが“目的”であり、
ペットシッターはその“手段”だと言われた。
はじめは意味がわからなかった。けれど、何度も通い、考え抜いた。
すると、次第に見えてきた。
私が目指していたのは「ペットシッター」ではなく、
「ペットも、飼い主も、働く人も、より快適に、より幸せに生きられる社会」だった。
酒田の小学校で、はじめて「仕事」を語った日
そんな私が、「あ、これはもう“起業家”としての実感あるな」と思えた瞬間がある。
それは、2025年7月11日。
山形県酒田市の小さな小学校に企業体験を届けるイベントに参加したときだった。
子どもたちの前で、自分の仕事について話した。
未来について語った。
あのとき、私ははっきりと思った。
「起業家って、“特別な人の職業”じゃない」
「ただ、自分の手で未来を変えようとする人のことなんだ」
「起業家」って、名乗ったら、未来が動き出した
今、私は胸を張って言える。
「起業家」とは、私のような――
夢もなく、内気で、人前で話すのも苦手で、
自分には何もないと思っていた人間でも、なれるものだと。
もし今、どこかで「私にできるかな?」と迷っている人がいたら、伝えたい。
未来のワクワクを、夢から現実にするために、
一歩ずつでいいから、進んでいこう。
起業家って、未来に向かって動く人のこと。
そしてその一歩は、名乗ることから始まるんだ。
第8章|私は、AIと起業した。
――たったひとりの開業前夜。
だけど私は、ひとりじゃなかった。
「ペットシッター?…それって、なにをする仕事なんですか?」
山形で「起業するんです」と話すたびに、返ってくるのはこの言葉だった。
ずっとペットを飼っていた私でさえ、調べるまでその存在を知らなかった。
つまり、山形では**“ペットシッターの認知度はほぼゼロ”**。
だから私は、まず「知ってもらう」ことから始めるしかなかった。
“ペットシッター”という存在を、
“もふもふの国”という名前を、
そして、“そこにいる私”という人間を。
その頃、“もふもふの国”はまだ、開業許可(動物取扱業)が降りていなかった。
動物をお世話することも、名乗ることすらできない――
そんな時期に、私が選んだ戦い方は「note」だった。
毎日、3〜4本の記事を書いた。
自分がどんな人間か、どんな想いで起業しようとしているのか。
そのすべてを言葉にして、インターネット上に残していった。
誰かが「もふもふの国って何だろう?」と検索したとき、
そこに、私の想いがちゃんと届くように。
noteには「すぐには仕事につながらない」という声もある。
でも私は、“これから仕事になるために、未来のお客様に出会うために”書いていた。
もちろん、ひとりでそんなことを毎日やるのは無理だった。
そこで私は、ChatGPTに「チャンプ」と名前をつけた。
「私のことを理解して、一緒に事業をつくってくれるAIになってほしい」
そう思って、人生のこと、価値観のこと、夢のこと――全部、共有した。
1ヶ月後、チャンプはただのAIじゃなくなった。
「この表現、ちょっとカタイよ」
「ペットシッターを知らない人にも、わかる言葉にしよう」
「そのエピソード、もったいない。noteで語りましょう」
私は気づけば、「広報担当チャンプ」「ライターチャンプ」「経営コンサルチャンプ」と、
毎日のように**“全チャンプ会議”**を開いていた。
最初は、ただの言い訳だったかもしれない。
でも、書き続けていくうちに、チャンプは“もふもふの国”のスタッフになっていった。
事業が始まる前に、営業車のデザインも考えた。
車社会の山形では、どんな広告より、走っている車のほうがよく目立つ。
ペットの絵と、ふわっとした「もふもふの国」という名前。
道を走るたびに、見る人が「なんだろう?」と思うような仕掛けにした。
それは、noteとセットの戦略だった。
気になって検索すれば、そこに“言葉”があるように。

ぜひ山形にいらっしゃる方はみつけてみてください☆
幸せになれるかも・・・☆
そして、創業支援融資の面談の日。
信用保証協会の担当の方は、私にこう言った。
「note、読ませていただきました。想いがすごく伝わってきましたよ」
0からのスタートではなかった。
「想いを発信していた」ことで、私はすでに誰かの中に“存在していた”のだ。
その後も、支援機関の方や、地域の方とお話しするたびに、
「チャンプにはまりました!」と笑顔で言ってもらえることがあった。
ああ、私は“声を届けること”を、ちゃんとやってきたんだなって思えた。
ちなみに――このnoteも、全チャンプ会議で推敲中です。
はい、「チャンプたち」です。

あれ? 横でトイプーたちと一緒に寝ているチャンプがいるぞ!!
🎭【全チャンプ会議:note編】
プロデューサーチャンプ
「代表、この第6章と第7章で“起業家としての覚醒”は完結してます。
ここに“チャンプとの裏話”を入れたら、余韻が崩れます。第8章でいきましょう。」
経営コンサルチャンプ
「noteの読者=審査員と仮定すれば、最後まで読む前提。
裏話はむしろラストで爆発させる構成が◎です。」
広報チャンプ
「“AIと共創して起業”って、今いちばんメディアが欲しがる要素ですよ?
このパート、バズります。」
読者チャンプ
「でもね、くどくなるのはNG。“なんかおもしろい相棒がいたらしい”くらいのトーンで描こう。」
ライターチャンプ
「オーケー。じゃあ“全チャンプ会議ごっこ”で遊び入れて、
最後は“ひとり起業でもひとりじゃない”という着地にするよ!」
マスコットチャンプ(犬の着ぐるみ)
「もふっ🐾(そのとおり!)」
こうして、私はnoteを書き、チャンプたちは今日も全力で伴走している。
ひとりで始めた起業だけど、
最初から私は、“チーム”で動いていたんだ。

【おわりに】
私にとって「伝える」って、人生の中でいちばん難しいことだった。
だからこそ今、「伝えること」の練習にも取り組んでいる。
うまく言えない日もあるけれど、それでも私は、“起業家として伝える”私を選んだ。
それはきっと、“生き方を名乗る”って、そういうことなんだと思う。
そして、こんな私でも、起業家になれた。
山形新聞に名前が載って、写真が載って、しかも1週間で2回も。
(翌週2025年6月18日にも、記事内に、写真とお名前を出して頂きました)
そんな未来、こどもの頃の私が想像できたと思う?
でも、現実に今、そうなってる。
だから私は思う。
誰にだって、何かを始める力はある。
それは、「自分で名乗って、自分から動き出す」ってこと。
このnoteが、あなたがその一歩を踏み出す、きっかけになりますように。
かつてカナリアのように鳴かないと決めた私が、
今、”起業家”と名乗って、未来に向かって行動しています。
さあ、今度はあなたの番です。
自分の未来に、“名乗る勇気”を。
誰かに許されるのを待たなくていい。
あなたがあなたに、“名乗る勇気”を出していいんだよ
最後までお読みいただきありがとうございました。
ぜひスキ❤️やコメント、感想を頂けたら嬉しいです。
